森が哭いている



不気味に静まり返った夕方のことだ。蛙もその声を殺し、水面下に身を落としていた。跳ねた水の飛沫が辺りに飛び散り、暗いシミを打った。空は赤い。西日がどこまでも深く景色を呑み込んでいた。
――下駄を鳴らす音が頭上の赤い帳を叩く。からん、と1つ鳴るたび夜が近付く。日が落ちると風が冷たい。肌に貼り付く湿った冷気に、おもむろに閉じていた瞼を持ち上げた。下駄の音が、鼓膜の突き刺さる。
冷気に鳥肌が立つのを感じながら、傍らにやってきた気配へと視線を向けた。
臙脂の着物に身を包んだ初老の男性だった。銀色の髪と髭が、どこか浮き世離れした印象を与える。いや、もとより「ヒト」ではないのだろう。彼は静かに微笑んだ。弓なりに細められた赤い瞳が、血を思わせる。弧を描く薄い唇が、動くことなく言葉を零した。

「スズの塔の守り人でございますね」

はい、とは答えない。答えてはいけない。異形の問いかけには常に「いいえ」と答えろと亡き母や祖母が言っていた。彼らは巧妙に人の思考に漬け込む。肯定的な言葉を利用し、「やくそく」と「取り引き」を成立させ、河辺へと引きずり込むのだ。引きずり込まれた生命は、水の淵でただ大人しく対岸へ行くための足掻きをするしかない。饒舌な妖ほど、質の悪いものはないのだ。

「柵の祠の末裔でございますね」

唇は動かない。言葉は音ではなく、文字として意識に訴えかけてくる。男性は笑みを貼り付けた表情は微動だにさせない。
それは翁の面を思わせた。
臙脂の着物が風に揺られ、袖口がフワリと膨らむ。深く皺が刻まれた手が覗いた。

「森が憤っております」

翁の顔から笑みが消える。まるで能面のような顔つきへとそれは変わった。翁の背後から、無数の手が現れる。それらは仄白い光を放ちながら、翁の体をつかみあげた。

「森に、帰るべき主よ」

「森が憤っております」

「怒りが森に帰ります」

「その手でどうか」

「断罪を」

右腕、左手、右足、左足、腰、両膝、最後に、頭。現れた無数の手が翁の体を折り畳んでいく。折り紙のように関節を順に折り曲げられ、体が匣のようになる。

「怒りが森を沈める前に」

風が吹き抜ける。生ぬるい風だった。肌に纏わりつく異様な気配に眉をひそめる。

翁の体は、空気に溶けるように消えた。





「こんばんは」

玄関から聞こえた声に我に返った。ここ最近で聞き慣れた声は、先ほどまでの薄気味悪い非現実的な空気とは打って変わって日常的なものだ。まるで夢から醒めたような不可思議な感覚に戸惑いを抱きながらも、玄関に向かう。同時に、家の中が真っ暗であるのに電気すら点いていないことに気付いた。……日は完全に沈みきっている。先ほどの翁を見た影響だろうか。
玄関に向かうと、先に彼女を迎えたらしいゲンガーが元気な声を上げた。その姿に笑みをこぼしながら、ゲンガーの傍らにいる女性を見る。彼女は僕に気付くなり、頭を下げた。

「マツバさん、こんばんは」
「仕事の帰りかい?」
「はい、実は仕事場でお菓子をもらって、お裾分けにきました」

笑いながら彼女は右手を持ち上げる。その指先には、深緑の紙袋が下げられていた。見た感じでは、和菓子であることが察せられる。差し出されたそれを、遠慮がちに受け取った。思ったよりも重量感があるそれに、つい目を見張る。袋の中をチラリと覗くと、街で有名な和菓子屋のロゴがかかれた紙袋が見えた。

「どら焼きです」
「これ、高いだろ? 僕がもらっていいのかい?」
「はい。実は、昨日母も同じもの買ってきていて」
「!」
「さすがにそんなにたくさん食べるのは厳しいというか……あははは」
「じゃあ、遠慮なくいただこうかな」

笑いながら言うと、彼女もまたつられたように笑いながら頷いた。そしていつものように居間に向かい、定位置に座りお茶を出す。一瞬もらったどら焼きも出そうかと思ったが、そろそろ夕飯の時間だ。何よりも家に帰ると同じ物があるのだし、何かお茶菓子を出すなら他の物が良いだろう。そんなことを思いながら、昼間に買ったゼリーを出した。

「あ、そういえば」
「何だい?」
「いえ、昼間にここにおじいさんが訪れませんでした?」
「!」
「朝、仕事に行く途中に臙脂色の和服を着たおじいさんに声をかけられたんです。『ジムリーダーの家を知りませんか』って。エンジュでジムリーダーっていったら、マツバさんしかいないので……あの、もしかして私の思い違い、でしたか?」
「いや、来たよ。大丈夫」
「そうですか。良かった。でも、どんな」

そこまで言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。次いで「これ以上はお仕事関係ですから聞いちゃダメですね」と付け足して苦笑を浮かべた。……確かに、ジムリーダーだから、特別な体質だから、というものから来る依頼は、ある意味では副業のようなものになりつつある。だが、あくまでそれは好意や立場上無視ができないから行うものであって、金銭的なやりとりはない。街の機密情報や依頼主の個人情報、意志にさえ触れなければ、ひた隠しにする必要はないと考えている。もちろん、それらを吹聴する気もないが。

「大したことはないよ。最近身の回りで不可思議なことが行っているから調べて欲しいらしい」
「やっぱりそういうのって本当にあるんですね」
「あはは、君だって僕と会ったばかりの頃にさんざんな目に遭っただろう?」
「まあ、確かに言われてみればそうですけど……」
「今回のこともそういう感じのことだよ」

そう返すと、ツユキは乾いた笑い声を零した。次いで何かを思い出したかのように短く声を上げた。それに首を傾げると、彼女はポケットから何かを取り出す。ちょうど手のひらに収まるくらいの大きさのものだ。朱色の折り紙で作った、いわゆる「奴」というものだろう。しかし突然こんなものをどうして取り出したのか。彼女の手のひらに収まるそれをまじまじと見つめる。
――すると奴の腹に、スウっと一筋の亀裂が入った。亀裂はグニャリと震える。そしてぱっくりと割れた。白い球体が奴の腹に現れ、さらにその中心に赤い球体が現れた。キョロキョロと、赤い球体は探るように動き回る。まるで、瞳孔だ。
奴の腹に、赤い目玉が現れた。
しかし彼女には見えないらしい。どうしたのかと尋ねる彼女へと視線を戻した。

「それ、どうしたんだい?」
「もらったんです」
「もらった?」
「はい。マツバさんを訪ねたそのおじいさんに、御守りにって」
「!」

あの翁の姿が脳裏をよぎる。どうやら、僕が首を縦に振らなかった時のために保険をかけていったらしい。彼女の手のひらにある奴の目玉が、弓なりに弧を描いてみせた。

「ツユキ、それは」
「あ、そういえば私、このあと夕飯を買って帰らなきゃならないんです。母がちょうど旅行に行ってて」
「そう、なんだ」
「父が帰るまでには夕飯を準備しなきゃならないので、今日はこの辺でお暇しますね」
「ああ、うん」
「それではお邪魔しました」

ポケットの中に奴を戻し、立ち上がる彼女に言葉を発するタイミングを見失う。不自然過ぎるほど、呆気なく彼女はこの場を去っていった。夕闇に溶けるように遠ざかる背中を見つめながら、深く息を吐き出す。傍らに来たゲンガーが、低く唸り声を上げた。

「参ったな……」

冷たい風が吹き抜ける。下駄を鳴らす音が響き渡り、冷えた空気が肌に張り付いた。
夕闇の中に、ぼんやりと翁の面が浮かび上がる。






20110525




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