シアワセとは、ニンゲンそのものである。
ニンゲンとは、いわば脆く儚いモノである。
シアワセとは、夢である。
ニンゲンとは、いわば夢の登場人物である。

シアワセとは、ニンゲンとは麻薬である。
喪って暗闇と負に変質する劇薬である。
依存性の高い、毒薬に過ぎない。



「あ……」

ガシャンと、足元で食器が砕け散った。破砕音が脳内で反響し、一瞬だけ意識が遠退く。意識が、何か、黒い穴へと放り込まれそうになった。

「ツユキ? 大丈夫?」
「え、あ、はい。ごめんなさい。ぼうっとしちゃって」

マツバさんに名前を呼ばれ、慌てて我に返った。床に散らばっている砕けた破片を拾い集める。破片が指先に突き刺さらないよう、慎重に1つ1つをつまみ上げた。
……最近、目眩や意識が遠退くといったことに襲われることが頻繁にある。疲れているのだろうか。ここ3週間ほど仕事が忙しい日々が続いている。しかしだからといって、ジュペッタやヨマワルたちの育成の力を抜きたくはなかった。少し、無理をし過ぎたのかもしれない。

「今日は、バトルの練習はお休みしようか」
「えっ」
「最近仕事も大変そうだし、無理は禁物だよ」

あと、昼食の片付けなら僕に任せて、と。私は半ば無理やり台所を追い出されてしまった。廊下に出るなり冷気が肌に触れ、思わず居間へと駆け込む。そして炬燵へと身を押し込み、息を吐いた。
――月日が経つのは早いもので、今ではすっかり冬になった。葉は落ち、裸木が立ち並ぶスズネの小道はひどく物寂しいものだ。雪こそまだ降ってはいないが、毎朝のように霜が降りて、辺りは白く染め上げられている。
そんなことを思いながらいつの間にか膝の上にやってきたジュペッタとヨマワルをギュッと抱き締める。少しだけキツいが、甘えられることに悪い気はしない。
それにゴーストタイプであると、やはり体温などには疎いのだろうか。無機質で温度のない肢体を抱えながらぼんやりと考える。寒くないかと一応問いかけてみると、2匹は同時に身をぶるぶると震わせた。寒くないわけではないようだ。つい笑みをこぼしながら、暖をとった。

するとふと、襖が開き夜色の肢体がやって来る。両手にみかんが入ったお盆抱えた丸々とした体はゲンガーだ。炬燵の上にお盆を置いたゲンガーは、みかんを2つ手に持って私に差し出してくる。

「ありがとうございます。せっかくですし、ゲンガーの分も剥いてあげますよ」

言うなり嬉しそうにゲンガーは鳴き声を上げた。つられて笑みを零す。そしてひとまずみかんを1つ手に取り、皮を剥き始めた。
指先にひやりとした冷たさが包む。しかし同時に甘酸っぱい匂いが広がった。皮を剥き、丁寧に筋を取り、一房もいではゲンガー、ジュペッタ、ヨマワルの順に差し出す。そんな作業を繰り返すうちに指先が悴んできた。手もべたべただ。
なんてことを思っていたら、再び襖が開いた。

「あ、こら、ゲンガー! 自分でできるんだからツユキに剥いてもらわない」

襖を開けるなり、視界に映った光景にマツバさんは顔をしかめた。

「大丈夫ですよ」
「あまり甘やかしたらダメだよ。すぐに調子に乗るから」

みかんを咀嚼しているゲンガーは、マツバさんをちらりと見て私の背中に隠れる。そして最後の一房を私の指先から抜き取って口に放り込んだ。

「まったく……」
「あはは、私、手を洗ってきますね」
「ごめんよ。ありがとう」
「どういたしまして」

一度ジュペッタとヨマワルに膝の上からどいてもらい、立ち上がる。そして手を洗うべく洗面所に向かった。炬燵の中で暖まっていた四肢が、外の冷気に軋む。
洗面所の蛇口を捻り、手を差し出せばいっそう冷たい水が肌を刺した。

もう、本格的に冬なのだ。

さまざまなことがあったのが夏だったから、本当にあっという間に時間が過ぎてしまった。出会ったばかりの頃や、あれほどの恐怖にさらされた日々が嘘のようだ。
何よりもその恐怖の元凶でもあったポケモンが、私のパートナーなのだから不思議だ。今ではこんなに懐いてくれているのに、と思うと何だか可笑しくなってしまう。

蛇口の水を止め、顔を上げる。目の前には鏡がある。鏡、が。


ねえ   え
    見
       る ?

「!? ひ……っ!」

目の前の鏡が、一瞬だけ真っ赤に染まった。心臓が飛び跳ねる。悲鳴が声帯に絡み付く。耳元でねっとりとした舐めあげるような声が響き、私は反射的に後退した。背中が壁にぶつかり、そのままずるずると座り込んだ。

「な、に……?」

しかしそれば瞬き1つで通常のものになる。鏡はその空間を写しているだけだし、鼓膜を震わせるのは蛇口の水の音だ。
――きっと、やはり疲れているのだろう。
昔のことを思い出して幻覚を見るほどだ。幻覚だ。疲れているに、違いない。

居間の方から聞こえる声に、私は逃げるようにその場から立ち去った。






20110108




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