「大人になったら、きっと怖くなくなるから」

壁のしみが人の顔のようで怖い、夜の風音が怖い、眠れない夜が怖い、雑鬼が怖い。
怖がってばかりだった僕を、母は優しく抱き上げながらそう言った。



***



案の定、家の中はめちゃくちゃになっていた。部屋の配置も廊下の長さも、自分の知ってる家ではない。これでは彼女をすぐに見つけられない。他のポケモンたちすら、見つけることが叶わない。だがゲンガーかヨノワール辺りはテリトリー意識が強いから、おそらく動き出しているはずだ。
苛立ちに冷静さがチリチリと焼け焦げていく。それを無意識に感じ取ったのか、フワライドが不安げな表情を浮かべた。

「大丈夫だよ」

少なくとも、一人ではない。彼女にはジュペッタがいるし、僕にはフワライドがいる。何よりも彼女のジュペッタは、彼女がトレーナーとして未熟なだけで弱くない。
何とか救いのある方へと思考を導き、苛立ちを抑えつける。
大丈夫だ。大丈夫。
一度深く深呼吸をし、止めていた足を進め始める。

「……! あ……っ」

しかし不意に激痛が走る体に、身を屈めた。同時に背後に気配が降り立つ。フワライドが声を上げた。

「きみ、が」

振り返った視線の先に白い着物姿の女性が立っている。だがその着物はところどころが黒く焦げていた。その顔も髪で隠れていて見えない。ただ、唯一見える唇は小さな弧を描いていた。

「見つけた」
「!」
「見つけた、見つけた、見つけた、見つけた、私の」

骨のような指先が伸びてくる。とっさにそれを振り払おうとするが、体が動かなかった。金縛りだ。
――首へとその指先は絡みつく。
フワライドが黒い塊を女性に投げつけるが、彼女はそれをそのまま弾き返した。自分の技を直に食らったフワライドが壁に叩きつけられる。

「……!」

反射的に名を呼ぼうと口を開くが、気道を押し潰され、息すらまともにできない。
首を締め上げる女性を、僕はただ睨みつけることしかできなかった。



***



「あの」
「なに?」

呼吸が整ってきたところで、私は前を歩く小さな背中に声をかける。少年は金色の髪をフワリと揺らしながらこちらを振り返った。 ……手は繋いだままだ。走ったせいで息や体温が上がっている私に対し、この子は顔色が変わるどころか手が冷たい。きっと、普通の人間ではないのだろう。
しかし何度も助けてくれたのだ。悪い子ではない。
私は少年の紫紺の瞳を覗き込み、問を口にする。

「あなたは……どこから来たのですか?」
「……」
「あなたは」
「お姉さん」
「?」
「僕ね、悪い子なんだよ」
「悪い、子?」
「うん、だから、いっぱい良いことするの。そしたらお母さんが迎えに来てくれるんだ」
「……」
「大丈夫だよ。僕、お姉さんのこと、助けられるもん」
「まつば君」
「だからね、そしたら、僕のこと信じてくれる?」
「?」
「僕、嘘吐きなんかじゃないって、信じてくれる?」
「それは、どういうことですか?」
「みんな僕のこと嘘吐きだって言うんだ。嘘なんか吐いてないのに。女の人とか、知らない人とか、見えたからそこにいるよ≠チて言ったのに、みんなそんなのいないって言うんだ」
「!」
「見えないって、言うんだよ。僕が、嘘吐いてるって、言うんだ」
「……」
「だから助ける。それにお姉さん助けられたら、お母さんも助けられるから」

だから信じてくれる?

私はただ冷たく小さな手のひらを握り締める。少しだけ瞳を大きくした少年と視線を合わせて、ただ頷いた。

「信じます」
「!」
「ちゃんと、信じてますよ」

少年は屈託ない笑顔を浮かべた。それに今まで胸中にあった澱が僅かに払拭される。ジュペッタが少年の側へと寄り、彼の頭を優しく撫でた。
――しかし不意に彼の顔から表情が抜け落ちる。
笑顔は一瞬にして険しいものへと変わった。
一体どうしたのか。問いかけようと口を開くと、少年は私の手を握ったまま走り出した。それに引っ張られるままに私は足を動かす。

「一体、何が」

彼は振り返らない。私はただ必死にジュペッタを抱え、小さな背中を凝視した。
すると角を曲がったところで、不意に彼は足を止めた。慣性のままに前のめりに転びそうになる。だがそれも目の前の光景に、無意識に体の運動機能が止まった。

「あ……っ」

足元には傷だらけのフワライドが横たわっている。反射的にフワライドに駆け寄ると、呻き声と笑い声が耳についた。

「に……げろ……」
「!?」

少し離れたところに、二つの人影がある。先ほど見た白い影が、見慣れた色に覆い被っている。

「マツバさん……!」

彼の体の半身を青黒い刺青のような痣が覆っていた。それは数時間前に見た時以上に肥大している。いや、今まさに彼を呑み込もうと肌を這っていた。頬や、手の甲、足首にまで痣は広がっている。そしてそんな彼の首を、あの女性が絞めている。息を呑んだ。とっさに彼に駆け寄ろうと走り出す。だがそれも、唐突に体に走る痛みにより床に倒れ込み、叶わなかった。

「……?」

痛みの原因もわからず、ただ痛みに息を吐き出す。
ふと、左手が視界に映った。そこには彼と同じ、異様な痣が浮かんでいた。彼の呻きが鼓膜を震わす。

「彼女に……手を、出す、な」
「……」
「狙いが、僕なら……関係ない、だろ」
「かん、けい」

ニタリと、女性は笑った。彼が表情を歪める。

「関係、あるわ。ある、でしょ。ダメ、ダメよ」
「……?」
「お外は、危ない。危ないの。ダメよ。悪いこと、覚えるでしょ」
「何を」
「ダメよ。私が守るんだから。私が、私が、私が」
「う……」

マツバさんが呻く。長く乱れた髪の間で、女性の紫紺の瞳が揺れた。

「私が、嫌だ。やめて、とらないで。とらないでよ、私の、私の子供、私の子をとらないで、返して、返して」
「……っあ……!」

ミシリと骨が軋む音がした。私は体を強引に起こす。このままではマツバさんが殺されてしまう。歯を食いしばり、上体を起こした。

「あの子を返してっ!」
「!」

女性が叫ぶように言葉を発した。それに呼応するように、痣が激痛を訴える。一瞬呼吸すら忘れる痛みに、うっすらと涙が浮かんだ。
それを見たジュペッタが、再び鬼火を女性に放つ。しかしそれはいとも簡単に弾き返され、宙に霧散した。

「寒い、寒い、寒い。苦しい、早く迎えにいかなきゃ。ここから出なきゃ。あの子が、待ってる」

私が助けなきゃダメなの

「あの子は怖がりなの、私が守ってあげなきゃダメなの、泣いてる、今も泣いてるわ、早く」

女性は譫言のように繰り返す。彼が抵抗を諦めたかのように、女性の手を拒むための指を離した。それに戦慄する。話が通じるわけでもないのに、私は叫んだ。

「や、やめてください! その人を殺さないで……っ」
「!」
「マツバさんを」
「ダメ、よ」
「……!」
「私が、助けなきゃ。私はお母さん≠ネんだから。私が」

「 お母さん 」

「!」

不意に響いた声に、女性の体がビクリと震えた。ずっと黙っていた少年の声だった。マツバさんと全く同じ色を持つ少年は、悲しげな、寂しげな、しかし安堵のような表情を浮かべていた。私の斜め後ろにいる彼は、女性に向かって歩き出す。危ない、と、唇がかろうじて音を発した。しかし少年はそれに小さく笑うだけだった。そして再度、女性に向かって口を開く。

「お母さん」
「あ……」
「お母さん、僕は」

女性の手が、マツバさんから離れた。同時に彼は激しく咳き込む。彼女は少年を凝視し、体をガタガタと震わせた。

「あ、ああ……あ」
「お母さん、ごめんなさい。でも」

女性は顔を両手で覆う。少年は咳き込むマツバさんの傍らに行き、彼の肩に手を添えた。

「僕は、大丈夫だよ」

少年の体が透ける。咳が治まり、落ち着いたマツバさんは女性を見た。女性の瞳から涙が零れる。

「大好きな人もできたんだ」

「心配しなくても、大丈夫だよ」

「僕はもう、お母さんに頼ってばかりの子供じゃないんだから」

少年が、霧散する。そして宙に散らばる粒子が、マツバさんと重なった。同時に女性が彼に向かって手を伸ばす。しかし何故か、危ないというとっさの感情が沸かなかった。

「あ、ああ、あああ」
「……」
「良かった、良かった」
「もう、僕は平気だよ」
「ひとりで、平気?」
「もう、一人じゃなくなったんだよ」


ありがとう、母さん

女性が彼から離れた。どこからともなく風が入り込んでくる。女性の顔を覆っていた髪がフワリと揺れ、その貌が月明かりに照らされた。
穏やかに笑んだ表情は、マツバさんととても似ていた。

女性は空気に溶けるように消えた。それにあわせて、私やマツバさんの体に浮かんでいた痣も消えていく。痛みの消えた体を起こし、彼の傍らに向かった。微かに震えていた肩に、声をかけることを躊躇った。



マツバさんは、泣いていた。





20101204




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