着替えと財布と、あと適当に何か持って行けばいいだろう。

マツバさんの家に半ば押しかける形で泊まることになり、一度荷物を取るべく自宅に戻った。私の両親は彼への信頼が厚く、また融通が利く人たちなのでこういうときはとても助かる。優しく背を押してくれる父と、常に見守ってくれる母。いつだって感謝は尽きない。
今日も泊まると言ったら、せっかくだからと梨を持たせてくれた。ズシリと腕に感じた重みが、少しだけ嬉しい。ゲンガーやヤミラミも喜ぶだろう。
袋に入った梨を眺めて、そんなことを思った。
反面、秋がそこまでやってきているのだと思うと、物寂しい気もした。外では虫の声がどこまでも遠くから鳴り響いていた。
既に暗くなったエンジュの夜道を、私は急いだ。

すると歌舞練場の前を通りかかったときだった。その入り口にある提灯が真っ黒な夜道を赤々しく染め上げている。そこで不意に鮮やかな色が視界をかすめ、鈴を転がすような声が私を呼んだ。反射的に立ち止まり、私は振り返った。カラン、と下駄の音が響く。見覚えのある貌が暗闇の中から現れた。

「タマオさん、こんばんは」
「こんばんは……ツユキはん」

首を小さく傾けながら応えたその人に、私は頭を下げた。

「お仕事の帰りですか?」
「そんなところどすなあ。ツユキはんは、マツバはんのところへ?」
「はい。体調が悪いそうで心配だったので。今日は私がしっかり見ていなくてはと……」
「ふふっそのようにしてやっておくんなさい。あのお人は無理ばかりなはりますからなあ。一人で危険なことを解決しようとして以前大変な騒ぎになりましたわ」
「……あの」
「? いきなりかしこまってどうなさったんで」
「いえ、その……体調が悪くなったりするのは、やっぱりそういったことに関わっているせい、というときもあるのでしょうか」
「……」
「あの、タマオさんは最近マツバさんに会いましたか?」
「ええ、まあ」
「マツバさんは何も言わないのですが、痣が……」
「……!」
「マツバさんの首から腕にかけて、大きな痣があるんです。本人はそれを隠そうとしてるみたいで、極端に肌の露出を控えてるみたいなんですが……」
「あらまあ」
「やはり何か関係があるのでしょうか」
「ですが、あんさん……」
「?」
「あんさんは、ご自分のが見えまへんの?」
「え……?」

見えない=H

何を言われてるのか、理解できなかった。彼女は私を見て瞠目している。驚愕に染まったその表情からは血の気が失せていた。私ただそんな彼女の様子を訝しげに凝視する。彼女は赤く縁取られた目をいっそう見開き、数歩後退した。

「どういうことどすか……。何故、それが……」
「タマオさん?」
「何故その子が、あんさんに……その子は……」
「どうしたんですか?」
「! ……い、いえ。何でも。何でもありまへんわ」
「……」

どこか青ざめた顔で、彼女は自分に言い聞かせるかのように「何でもない」と繰り返した。月明かりを受けて、化粧を施した肌はいっそう青白くなる。不安になりつい眉をひそめると、彼女は無理やりに笑みを表情に張り付けた。そのどこか痛々しい様子に胸中が痛む。

「ああ、何やら不安にさせてしもうたなあ。本当にすみまへん」
「あの……」
「いえ、ただちょっと昔のことを思い出しただけどす」
「そうですか……」
「ツユキはん」
「?」

不意にタマオさんは改まったように私の名前を呼んだ。そして後退した分の距離を埋めるように、彼女は私との間合いを詰める。寂寥感を孕んだ瞳が、痛みに耐えるように細められた。

「エンジュは長く古い歴史を持つ街どす。それに見合うだけの伝承や習慣、儀礼などもあります。」
「はい‥…」
「それは今なお脈々と受け継がれているんどす。……ツユキはん」
「!」
「どうかマツバはんに、マツバはんの母様と同じ末路を辿らせぬよう」
「え……?」
「あのお人は私の身代わりになって亡くなりました。マツバはんは、自らその道を選ぶつもりかもしれまへん。」
「あの、一体どういう……」
「……」
「タマオさん……?」



「あんさんが、あの悲しいお人を助けてやってくださいまし」



カラン、と下駄の音が響く。それだけ告げて私の真横を通り過ぎていく女性は私ひどく辛そうに表情を歪めていた。私はただ、何も言えずにその場に立ち尽くす。時間が過ぎることに比例して得体の知れない不安が肥大化した。
そしてどれくらいそうしていたのか、吹き抜けた冷たい風に私は我に返る。そして逃げ出すようにその場から走り出した。

しかしマツバさんの家に着いて、本人を前にしても尚、抱いた奇妙な不安感は拭えなかった。
彼は既に夕飯の準備を済ませていたらしく、居間でいつものように座っている。出迎えてくれたヨノワールに、持ってきた梨を渡した。

「スイカに梨に、貰ってばかりで何だか申し訳ないや」
「いいんですよ。お世話になってますし」
「ありがとう」
「せっかくですし夕飯のあとに食べますか? 私、切ってきますよ」
「ならお言葉に甘えようかな」

穏やかに微笑んで言った彼に、つられて笑いながら返した。
縁側の開いた障子からは、冷たい風が吹き込む。思わず身震いした。風に僅かに揺れる彼の和服の首もとには、やはり毒々しく彩られた痣があった。必死にそれから視線をそらすように、箸を持つ手を動かす。穏やかなはずの空間が、やけに不審を煽った。
今では取り残されたように飾られたままの風鈴が、物悲しい音を鳴らす。

そして何気なく視線を向けた先の庭園の中心に、人影が見えた。影で黒く塗り潰された顔を持った、白い和服の女性だった。女性は彼を見つめている。かろうじて見える色を無くした唇が、何かを言っているかのようにずっと動いていた。
しかしそれは瞬き一つするとすぐに消えてしまった。見間違いだろうか。背骨を怖気がねっとりと舐め上げる。跳ね上がる心臓を無理やり押さえつけ、私は記憶からそれを掻き消すように彼に視線を向けた。

……きっと深みに嵌るとは、こういうことなのだ。そう思った。知らなければ良かったのかもしれない。しかし知らなければ確実に私は悔やんでいただろう。

「……大丈夫だよ」
「!」

まるでこちらの心中を察したかのように呟いた彼に、何故か苦しくなった。



それが長い長い悪夢の幕開けだった。





20100923




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