貴方だけは生きなさいと。あの日の母はそう悲しげに微笑んだ。
貴方だけでも自由になりなさいと。死に装束に身を包んだ母は優しく呟いた。
真っ白な母の指先に、自分の指を絡める。
どうか、僕を置いていってしまわぬよう。
しかし指先はいとも簡単に僕の手をすり抜け、あの人は背を向けた。たった一人で摩天楼へと旅立ってしまう母は、ただ寂寥を孕んだ瞳を細める。
離れたところでは、誰か、女の子が泣いていた。泣きながら謝っていた。
僕はただ母の空気に溶けていく後ろ姿を眺める。母の体は陽炎のように揺れて霧散し、細く長い一縷の煙になった。

棺の前に佇む線香の匂いと細い煙だけが、天へと昇っていく。





「こんばんは」
「!」

その日の夕方、紫紺色の花を抱えた彼女が訪れてきた。最後に会ったのはたかだか五日前なのに、ずいぶん懐かしく感じてしまう。まるで十年来の再会を果たした友人のようだ。胸中に安堵感や喜びが発露した。
同じくらい、特に変わった様子のない彼女に、胸中に積もっていた澱が溶けるように消えていく。小さく笑んで彼女を中へと通した。

「その花はどうしたんだい?」
「帰りに買ったんです。季節外れなんですが菖蒲なんですよ」

この花、マツバさんの目と同じ色でしょう。

笑いながら話す彼女に、つられて笑った。すると奥から声を聞きつけたのか、ゲンガーとヤミラミがやってくる。それに呼応するように、彼女の腰のあたりのポケットが白く発光し、ジュペッタが現れた。赤い目を瞬かせながら、ジュペッタは宙を旋回する。そして一通り辺りを見回したところで、彼女の肩に落ち着いた。
彼女はそんなジュペッタを見ては小さく笑い、そして抱えた花を「仏壇でも台所でも好きなところに飾ってください」と僕に差し出した。

「いいのかい?」
「はい。マツバさんにと思ってなんとなく買ってきたので。だから今日はお菓子はないんです」

後半の科白はゲンガーやヤミラミに向けたものだった。一瞬だけしゅんとしたように耳が垂れ下がる二匹に、思わず吹き出してしまった。それにハッとしたような表情をする二匹に、彼女も笑う。必死に誤魔化そうとゲンガーが彼女を居間へと引っ張っていった。その様子を眺め、少し間をおいてから僕もまた居間に向かった。
すると不意に、肌を冷気が包む。ザワリと得体の知れない嫌悪感が背筋を刺した。


――い……、……た

「!」

何だ……?

ゲンガーに連れられ、居間に向かう彼女の背中。その腰の辺りを、小さな手が掴んでいる。
まるで肘から下を切り取ったかのようなそれは、白く透き通り消えかかっていた。見た感じは子供のもののようだ。あの呪詛をかけた妖ではない。
ならあれは何だ。
その本性を見極めようと目を凝らす。しかしうっすらと人の輪郭をとらえられるだけで、明瞭な姿を見ることができない。
ゆっくりと歩を進める。距離が縮まる。うっすらとだが姿が僅かに形を見せた。近づくにつれ姿は明瞭になっていく。

少年……少年だ。十歳前後だろうか。夜色の浴衣を着た少年だった。それは、見覚えのある浴衣だ。髪は金色……。ああ、その色は、誰かに似ている気がした。あの子は。彼女にしがみつくようにベッタリと付いている少年は。

「……あ、」

不意に熱が腹の底から込み上げた。喉から小さな呻きにも似た声が零れ落ちる。
少年はおもむろにこちらを振り返った。
金色の髪が揺れる。
その色は知っている。
懐かしい色だ。
父さんと似た色の髪。
透けた白い腕は彼女を掴んでいる。
ゆっくりと僕に向けられたのは、菖蒲色の虹彩に囲まれた瞳だった。
あの目は。
母さんと同じ色だった。
心臓がゴドンと動く。
知っている。
知っている。
この子は。この少年は。この男の子は。


――ああ、会いたかった


 も ひ とり のぼ く


「――っ!!」


――僕=c…?

少年が笑う。僕が笑う。視界が歪む。音が遠のく。辺りは暗がりに包まれた。銀幕が現れる。映っているのは。
そうだ、あの人は。待って。母さん。待って。
僕は女性の背中を追いかけている。暗い夜道を走っている。女性は振り返らない。遠くに摩天楼が聳え立っていた。あれが母さんを喰い殺すのだ。いつかは僕も。だから母さんを止めなければ。
ダメだ。ダメだよ。戻ってくるんだ。
叫んでも聞こえない。斜めに傾いた世界は黒く塗り潰された。手を伸ばす。あの背中に届けば助かる気がした。
だから。

『呼ぶべき名前を間違ってはいけないよ。でないと鬼になってしまうから』

祖母の声が反響する。目の前にある背中は。母ではない。ならあれは。あれは誰だろう。僕は知っている。母さんと同じくらい大好きな人だ。ああ早く名前を呼ばないと。手が届くうちに呼んで引き留めないと。彼女も行ってしまう。彼女、は。


「 ツユキ 」



唇が形をつくり、声帯が音を零した。同時に暗かった視界が明るくなる。視界を白い蛍光色が埋め尽くした。目の前には彼女の顔があった。

「マツバさん! 良かった……起きました……」
「……?」
「びっくりしました。突然倒れてしまわれるから……」
「え?」
「覚えてませんか? 私が玄関開けて、マツバさんが出てきて、ゲンガーと一緒に居間に向かおうとした途端に倒れたんですよ。だからヨノワールに頼んで居間に運んでもらって」
「あ……」

夢を、見せられていたのか。
上体を起こすと、そこは見慣れた自宅の居間だ。
ただいつの間に日が暮れてしまったのか、外は真っ暗だった。部屋の中は蛍光灯特有の白い明かりに包まれている。

「具合が悪いなら無理したらダメですよ。最近はジムのお仕事とか大変なんじゃありませんか?」
「まあ、そこそこ、ね」
「明日もあるんですか?」
「ないといえばないけど、あるといえばあるかな……。挑戦者次第だね」
「明日くらい休んだ方がいい気がします」

眉を下げながら、彼女は力なく言った。それはもちろん、ジムリーダーという大役に一般人が口出しできるわけもないことを知っているからだ。苦笑しながら大丈夫だと返すと、彼女はかすかに痛ましげに目を伏せた。

「そんな顔をしないんだよ。余計に参ってしまうじゃないか」
「この間夏バテしたときだってそうじゃないですか。ヨノワールが慌てて私を呼びにきたんですから。少しは自愛してください」
「……」
「私だって、人並みに心配してるんですから」

言われた言葉に何故か妙にこそばゆい気持ちになる。思えば「心配している」だなんて言われること自体ずいぶん久しい。だからだろう。小さく苦笑を返し、しかしふと思い出したことに不安が胸中にジワリと染みた。

「ツユキ」
「はい?」
「最近、その……妙なこととかはなかった?」
「妙?」
「何というか、変な人に会ったとか……あ、いや違うんだ。警察沙汰とかの意味じゃなくて……」
「何もないですよ。でも、そういえばマツバさんと同じ名前の男の子に一週間近く前に会いましたよ」
「!」
「なんだか神出鬼没な子でした。ああ、でも、とてもいい子でしたよ」
「そ、なんだ」
「? 大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ?」
「うん。ならいいんだ。何もないなら」

ドクリと跳ね上がる心臓に、体温が一気に下がる。指先が抜け落ちていく熱に、不安が心臓に絡みついた。

「あの、本当に顔色悪いです。病院に行った方が……」
「大丈夫。大丈夫だから」
「なら私、今日は泊まります。今のマツバさんを一人にしたら万が一体調が悪くなったとき大変ですし」

眉をひそめながら彼女は言った。だが、それの方がいいかもしれない。あの夢がただの夢とは限らない。それに呪詛のこともある。妖に、あの少年に、散らばった悩みの種なら一カ所に集めてしまった方が解決しやすいはずだ。

「ありがとう」
「どういたしまして」

彼女は笑う。そして荷物をとりに行ってくると一度その場を去っていった。

テーブルの上には、菖蒲の花が飾られていた。








20100915




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