翌日の早朝、突然訪れてきたマツバさんのゲンガーに、私は朝の四時に起こされることになった。突然窓を乱暴に叩く音が響き、カーテンを捲った先に焦燥した様子のゲンガーがいたのだ。
窓から見えた空は白み始め、薄ぼんやりと明るくなっている。暁だ。
しかし私は寝起きで思考がうまく回らず、状況に頭がついていかない。そんな私をゲンガーはどこかに連れて行きたそうに腕を引いた。
ひとまずパジャマなので身支度を整えてから外へ出た。

「ゲンガー、どうしたんですか?」

外に出た途端にグイグイと引っ張っていく夜色の体躯に首を傾げる。だが思い返してみれば、昨日会ったマツバさんはずいぶんと体調不良を訴えていた。もしかしたら彼に何かあったのだろうか。ただでさえ彼はあの広い家で一人暮らしだ。ポケモンたちがいるとはいえ、限界がある。
思うと同時に不安がシミのように体の中心に肥大した。そこに僅かな焦燥感がちらつく。無意識に足早になり、小走りになり、いつの間にか必死に走っていた。
――倒れてたりしたらどうしよう。
もうお盆は過ぎたが、まだまだ夏の焼き付くような日差しは弱まらない。熱中症という可能性もあるかもしれない。それに熱中症は酷いと命を落とすこともある。あの家は風通しが良く比較的涼しいので、杞憂かもしれないが万が一というのもある。
速く行かなければ。
着いたら冷水を用意して、病院にも連絡した方がいいのだろうか。しかしそのくらいならヨノワールがやっておいてくれるかもしれない。

速く行かないと。
速く行かなければ。
待ってるかもしれない。
速く。
手遅れになる前に。
辿り着かなければ。
速く。
あの人が呼んでいる。
速く。
速く。
彼が手招きをしている。
間に合わなければ。
彼は。
あの人を。

早く解放しなければ――。


「え――?」

今、何を思った?

とっさに立ち止まる。同時に息を呑んだ。前を走っていたゲンガーの姿がない。それに私が今走っていた道は、マツバさんの自宅への道でもない。
背筋を氷塊が滑った。
風が吹き抜け、肌に冷気が触れる。身震いした。指先から徐々に熱が抜け落ちていく。いくら夏の早朝とはいえ、こんな寒さを感じるような気温になるわけがない。
ゆっくりと辺りを見回す。空はずいぶんと薄暗く、家を出てきたときと何かが違った。心臓が跳ね上がる。

「戻、らないと……」

ドクドクと鳴る心臓を押さえ込むように、自分に言い聞かせた。大丈夫だ。今来た道を戻ればいい。そう思い、踵を返す。だが振り返った先も、見知らぬ道だった。

「……なんで……」

どうしよう。一体何が起こったのか。不安と焦燥感が一気に押し寄せ、思考の片隅に恐怖が発露する。
フラフラと二、三歩後退したところで、突然手首に圧力がかかった。喉で悲鳴が弾ける。唇からは空気が抜ける音が間抜けに響いた。全身を強ばらせ、手首を見る。白く小さな手が私の手首を掴んでいた。

「狸惑わし……」
「!」
「お姉ちゃん、変なのに騙されたんだよ」
「あなたは……」

私がよく知る人物とそっくりの色が揺れる。視界に映ったのは、昨日スズの塔のそばで姿を消した少年だった。菖蒲色の瞳を細めて、少年は笑う。

「僕が案内してあげる」
「え?」
「こっちだよ」

グイッと強い力で引っ張られ、体がよろめく。慌てて体勢を立て直すが、少年は私に構わず手を引いて走り出した。私は引っ張られるがままに走る。

「あの、ま、待って」

言うが少年に聞こえないのか。彼はどんどん走っていく。木々の間を滑るように抜け、草村を飛び越し、周りの景色が後ろへと飛んでいった。子供とは思えない身体能力だ。その上、今走っている道もまるで知らない獣道だった。薄暗くじっとりとした、木々が生い茂る空間。奥の方は暗闇で黒く塗りつぶされている。だが突然前方から光が差す。彼は迷わずそちらへと私を引いて走っていった。近付くたびに光は大きさを増す。あれは一体何なのだろう。徐々に近付いていき、私たちはそこに飛び込んだ。

辺りが無音になる。体から重力が消え、ふわりと浮かぶ。色彩も失われ、白だけが視界を埋めていた。
ここは。
しかしそう思った瞬間に、青々とした木々が視界に映り、蝉時雨が一斉に鳴りだす。太陽もだいぶ高く昇っていた。それを認識すると、体が途端に重くなった。ズシリと肺に重みがのしかかり、口から吐息が漏れる。目の前には引き戸が、足元には石畳が現れた。見慣れたそれは、マツバさんの自宅の玄関だった。

「!」
「着いた……」

少年の手がするりと抜ける。
一体何があったのだろう。獣道を走って、光に飛び込んだらここにいた?
そんな御伽噺みたいなこと……。
彼へと視線を向ける。笑顔を浮かべた少年が、良かったねと言葉を紡いだ。そうだ。この子は一体誰なのだろう。去ろうとする背中をとっさに呼び止める。

「あの、あなた、お名前は?」
「!」

すると彼は驚いたように目を丸くした。それは年相応のあどけないものだった。そしてすぐに笑顔になり、彼は答えを紡いだ。




「 まつば≠セよ! 」





突風が吹き荒れる。それに思わず目を瞑った。しかし次目を開けたときには、少年の姿はなかった。状況に頭がついていけない。ただ困惑だけが去来した。それに彼が口にした名前は。

「まつば=c…?」

一体何なのだろう。呆然とその場に立ち尽くした。
すると突然引き戸が音を立てて勢い良く開く。ビクリと肩を震わせてそちらを見ると、どこか焦った様子のマツバさんがいた。

「ツユキ……?」
「あ、あの、おはようございます」
「……っ」
「! マツバさん?」

突然深く息を吐き出し、彼はその場にしゃがみこんでしまった。やはり具合が悪いのだろうか。慌てて身を屈めて尋ねるが、彼は首を振って否定した。そして少しだけ情けない笑顔で、ホッとしたと呟く。

「どういうことですか?」
「いや、いいんだよ。それより少し休んでいって。疲れただろう?」
「あ、はい」
「……」

どこか苦笑気味に笑う彼の言葉に頷きながら中へと歩を進める。
その彼の背中を見ながら、あの少年の小さな背中を脳裏に描いた。どこか印象がかぶるのは、偶然だろうか。名前が同じなのも、偶然だろうか。
不思議な感覚にとらわれながら居間に向かうと、ゲンガーがヤミラミとじゃれている姿が映った。

あのゲンガーは、単なる私の思い込みで、全く別のゲンガーなのだろうか。
ふとして彼に視線を向ける。

「……!」

見間違い、なのだろうか。



彼の首筋から青黒い痣が見え、怖気が背骨に絡みついた。







20100904




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