吐き出す息が異様なまでに熱かった。
体中の関節がギシギシと軋みをあげている。
体が鉛のように重い。
動かない。
苦しい。
頭が痛い。
耳鳴りがする。
気持ち悪い。
痛い。
熱い。
痛い。
痛い。

「う……」

小さな呻きが口内で弾けた。額に浮かんだ玉のような汗がこめかみを伝う。
――誰だ。
呼吸器が強い力で締め上げられる。視界には黒い靄のようなものが映っていた。厄介なことに金縛りをかけられたらしい。体が動かないせいで、それを振り払うこともできない。
彼女が買い物に出て行って、微睡んでいたときだった。こちらが弱っていることを嗅ぎ付けたのだろう。一体どこから入り込んできたのか、たちの悪い異形がいたものだ。気を抜いた瞬間には、このざまだった。運悪くゲンガーは先ほど彼女のあとを追って出て行ってしまった。

「あ、ああ、坊や」
「……?」
「坊や、坊、や」

子供を探しているのか?
目を凝らすがそれは黒い靄のままだ。もしかしたら不調のせいで目が一時的に使い物にならなくなっているのかもしれない。余計なときは視えるくせに、肝心なときは視えないなんて。しかしこれは女性なのだろう。前回は母親を探す子供で、今回は子供を探す母親か。
せめてもの強がりで睨み付けてはみるが、何の効果もない。唇を噛み締めた。


「マツバさん! 遅くなりました、すみません」
「!」


玄関の方から、声が響いた。ビクリと黒い靄が蠢く。呼吸器を締め上げる力が緩んだ。バタバタとこちらにくる彼女の足音が響いている。
黒い靄はそちらを見つめている。

「あ、は……」

ニタリとそれが笑うのがわかった。金縛りが解けない。全身の熱が一気に冷却される。心臓がバクバクと雑に鼓動を打つ。背筋を冷や汗が滑る。金属音にも似た耳鳴りがした。
――違う。これは警鐘だ。
頭が割れんばかりの警鐘が鳴っている。
ダメだ。止めろ。止めてくれ。
声帯が機能せず、言葉が音にならない。彼女がこちらにやって来る。
足音が、鼓動に重なる。
ダメだ。来ちゃダメだ。来るな。ダメだ。逃げろ。

「マツバさん!」

襖の向こうから彼女の声が響いた。
黒い靄は僕の上から、滑るように彼女の方へと行き、消えた。

「あ……ッ」

そこでやっと体の機能が戻る。喉から漏れた音は、言葉という形にすらなりきらなかった。体の内側を、じっとりとした失望が侵食する。

「! マツバさん顔色が真っ青ですよ」

慌てた様子で彼女はこちらに駆け寄ってくる。そして上体を起こした僕を支えるように、背中に手を添えた。ジワリと、彼女の腕や手のひらから熱が伝わってくる。形容し難い感覚にとらわれ、肩が強張った。同時に自分の体からいかに熱が抜け落ちてしまったのか、それを知っては情けない気分になる。あんな妖一つに、僕は怯えているのか。

「わ……汗びっしょりですね。着替えないと風邪引いちゃいますよ。」
「そうだね。あ、もう大丈夫だから」

そっと彼女の肩を自分から遠ざけるように押しやる。そして風呂に入ってくると告げて、その場から逃げるように風呂場に向かった。





「……ッ」

風呂場に辿り着き、その姿見に映る自分の体に絶句した。
浴衣を脱ぎ捨て、剥き出しになった真っ白な肌。食欲がないせいで肉が落ち、痩けた体はやたらと骨の形が皮膚に浮き上がっていた。その首筋から肩にかけて。肌の色が変色していた。青黒い痣のようなものが、まるで刺青のように浮き上がっている。心臓が飛び跳ねた。
――呪詛だ。
あの妖の仕業なのか。
込み上げくる嫌悪感に吐き気に近いものを覚えた。
姿見から目をそらし、風呂場に入る。桶に水を汲んでは無造作に頭からかぶった。

「頭を冷やせ」

あの妖は彼女にも何かしたはずだ。手立てを考えろ。焦ったら取り殺される。ひたすら言い聞かせるように念じ、水をかぶった。しかし水の冷たさも衝撃もわからない。

「……」

掴んだ桶がギシリと軋みを上げる。目を伏せ、首筋を強く押さえた。







「あ、大丈夫ですか?」

台所に立つ彼女の声が響いた。足元に落ちていた視線を上げると、両手で皿を抱えた彼女と目が合う。同時に香ばしい匂いがフワリと鼻孔を掠めた。

「お昼は野菜炒めです」
「僕も手伝うよ」
「まだ顔色が悪いですよ。いいから座ってください」

眉をひそめながら言った彼女に、苦笑を返す。身を屈め、テーブルに皿を並べる彼女は平生の彼女だ。だがその姿をぼんやりと眺めていて、気付いてしまった。

首筋、の。

彼女はおそらくまだ気付いていない。さっき付けられたものだろう。
僕と同じ場所に、同じ痣。
ドクリと心臓が波打つ。
彼女にはただでさえ前回ひどく怖い思いをさせてしまったのだ。今回は、また、あんな思いをさせたくない。
昼食の準備のために、せわしなく動き回る彼女を見る。
すると流しの近くに浮いていたゲンガーが、不安げな表情を見せながらこちらに来た。

「……わかるかい?」

大きな赤い瞳を見つめ、苦笑しながら問う。彼は複雑そうに表情を歪めた。そしてその瞳を彼女へと向ける。どうやらいち早く気付いていたらしい。大丈夫だと、くしゃりとその頭を撫でた。
ゲンガーの視線の先を追う。流しやガス台の前を行き来している彼女は、こちらに視線を向けては首を傾げた。何でもないと首を振ると、そうですかと彼女は笑う。
そして冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップを用意してから席に着いた。

「いただきます」

いつものように昼食をとる。いつものように会話をする。いつものように片付けをする。



だけど日常にいてはいけない黒い影が、部屋の片隅で笑っていた。







20100903




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