「大丈夫ですよ。お母さんちゃんと出てきますよ」
「うん」

右手を小さく握られる。しゃくりあげながら頷く少年に小さく苦笑した。一度立ち止まり、バッグからハンドタオルを取り出して涙でくしゃくしゃになった少年の顔を拭う。
あの後、不安に耐えきれなくなったのかこの子は突然泣き出してしまった。そうなってしまった以上、放って置くわけにもいかない。ひとまず母親がいる場所までついていくことにした。

しかし彼が案内する道は、私の記憶しているスズの塔への道だ。歩を進めるにつれ次第に足が重くなっていく。
ジリジリと焼き付くような蝉時雨が降り注ぐ。遠くで陽炎が揺れる。暑い。暑い。暑い。夏はもう、終わるはずなのに。
気が遠くなるような感覚に、無意識に手に力が籠もる。
少年の手は、予想に反してヒヤリと冷たかった。私の掌の熱が伝染することもなく、ずっと冷たい。ほんの僅かな違和感を覚えて、思わず緊張した。

「どうしたの?」
「何でもないですよ」

涙で赤く滲んだ瞳がこちらを見る。それに笑って答えた。

そして彼の案内でスズネの小道を抜け、スズの塔の前に辿り着く。不安に鼓動がドクリと波打つ。
こんなところに、人は籠もろうとするのだろうか。
そばにいるジュペッタが声を上げる。

ギシリと、塔の扉が軋んだ。

反射的に身構える。背筋を百足が這い上がるような不快感が駆け抜けた。
マズいと、本能が警鐘を打ち鳴らす。
一度戻った方がいい。そう思い少年に視線を向ける。しかし視界には誰も映らなかった。
辺りを見回すが、やはり姿はない。ギクリとした。これでは前回と同じだ。
ガサリと音を立てて左手に持った袋が落ちる。呆然とその場に立ち尽くす私に、不意に声がかかった。

「あんさん、何してはりますの?」
「!」

ビクッと体が大きく痙攣した。見ない方がいいのだろうか。あの少年が消えてしまったことを思うと、この場所で出会った人間が本当に人間なのか疑わしくなってしまう。早なる心臓を押さえ込み、落としてしまったビニール袋を拾った。「大丈夫ですか」と尋ねる声がやたら生々しく響いた。
傍らにいるジュペッタが私の肩にしがみつく。固唾を呑み、ゆっくりと声の主のいる方へ視線を向けた。

「そんなに怯えなくても、私は生きてる人間どすえ」
「あ……えっと」

視界に映ったのは、歌舞練場の舞台でよく見る姿の女性だ。綺麗に着飾り舞を舞う姿を昔何度か見たことがある。
しかし何故舞妓さんがここにいるのだろう。
紅を差した真っ赤な唇が、綺麗に弧を描いた。ゾクリと肌が粟立つ。

「あの、男の子見ませんでしたか? 十歳くらいの金髪の……」
「さあ。見てまへんな。それよりあんさん、関所はちゃんと通りましたか?」
「関所?」
「スズの塔へは、関所で許可をもらった人間しか行けまへん」
「え、でも私、今まで……」
「でしょうなあ。あんさんがマツバはんのお友達でっしゃろ?」
「!」

不意に出てきたその名前に、思わず目を丸くする。すると彼女は着物の袖で口元を隠しながらクスリと笑った。

「あのお人はここへの抜け道を知ってらっしゃいますからな。一般人が正面から立ち入ることができないのをわかって、あんさんの為に道を用意したんでしょ。」
「貴女は」
「私はタマオいいます。マツバはんの幼馴染ですわ。とは言っても、この間ずいぶんと久しぶりに会ったくらいですがな。」
「あ、はじめまして。私は……」
「マツバはんから聞いておりますわ。仲がよろしいんですなあ」
「いえ、そんな…私はただの友人です」
「ふふ」

楽しそうに笑うタマオさんに、苦笑を返した。
同時に思い出したかのように上空から蝉時雨が鳴りだす。ほんの少し前の出来事のせいで忘れていた汗や暑さ、手に持った荷物の重みがズシリとのしかかった。
早く帰りたいと、頭の奥深くで囁く自分がいる。
もうずいぶんと遠回りをしてしまった。マツバさんが心配しているかもしれない。買ったものだって、暑さでダメになってしまうかもしれない。早く帰らないと。

あの、と私が口から音が零れようとしたとき、突然背後から聞き慣れた鳴き声が聞こえた。
驚いて振り返ると赤い大きな瞳と目が合う。深い夜色の体躯が私の手から袋をするりと取り上げた。

「ゲンガー」

名前を呼ぶと彼は笑顔を浮かべる。遅いから迎えにきてくれたのだろう。申し訳ない気分になり、無意識に謝罪が口をつく。しかし構わず彼は私の手を引き、早く帰ることを催促した。
それに一度タマオさんを振り返る。

「それでは私はこれで失礼します」
「ツユキはん」
「!」
「1つだけお聞きしたいことがあります」

タマオさんの表情が僅かに歪んだ。痛みに耐えるように、その眉がひそめられる。蝉時雨が、遠退いた。

「あんさんは、マツバはんの母親のことを――」

しかしタマオさんがそこまで口にしたところで、それを遮るようにゲンガーが鳴き声を荒げた。

「え、げ、ゲンガー?」

ここにいたくないと言わんばかりに、彼は強引に腕を引っ張る。タマオさんに視線を向けるが、彼女はただ小さく苦笑するだけだった。
軽く会釈をして私はゲンガーに引かれるままにその場を立ち去った。

マツバさんの家に向かいながら、私はふと違和感を覚える。
あの少年はどうして、マツバさんと全く同じ抜け道を知っていたのだろう。
偶然にしては奇怪さが纏わりつく出来事に、傍らにいるジュペッタを抱き締めた。






20100828




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