苦しい、と繰り返していた唇が弧を描いた。
壁を引っ掻き回していた手が止まる。
爪が割れて血が滲んだ指先には、すでに痛みを訴えるだけの余裕はなかった。
あちこちに血が付着し、壁には斑な模様が描かれている。
鉄臭さと苔と土の湿った匂い。
一つだけポッカリと開いた方型の穴からは空が伺えた。
ひどく狭い空だった。
私は、そう、ずっと、その向こう側に行きたいのだ。
だがその向こう側へ行くには、体が少し大きい。
体を小さくせねばならぬ。
腰を折り、頭を折り、腕を折り、脚を折り。
それでもまだ少し大きい。
脚がつっかえてしまう。
そうだ。
脚が邪魔なのだ。
もっと上手に折らねばならぬ。
腕も脚も頭も腰も。
もっと、もっと上手に小さく折らねばならぬ。
しかしそれでも頭が邪魔だった。
仕方ない。
なら頭は諦めよう。
木々がざわめく。
青々と木々が生い茂ったその森は、日の光がただでさえ届きにくかった。
ゴトリと頭が落ちた。
転がっている頭部についた眼球を動かす。
魑魅が穴から入り込んできた。
ああ、魑魅か。
ボタリと眼球が地に落ち、眼窩が空洞になる。
早く、早く行け。
向こう側に行け。
何かがプツンと切れた。
体は糸の切れた傀儡のように崩れ落ちる。

絶命してゆく体に歓喜し、狂ったように笑った。






「とうとうバテてしまいましたね」
「ははは……」

座布団を枕に、縁側で横になっているマツバさんは気だるそうに寝返りをうった。額にはヘアバンドの代わりに冷却シートを付けている。服装もゆったりとした薄手の生地の浴衣で、風鈴がある風通しのよいこの場所では、ずいぶんと風情を感じさせる姿だ。
しかし当の本人は夏バテになってしまったらしく、ダウンしている。最近あまり顔色が良くなかったので、いつかかかるのではないかと懸念していた矢先だった。
幸い彼のパートナーたちは悪戯好きな反面しっかりしている子たちばかりだから、心配には及ばないだろう。

右手に持った団扇で横になっている彼をパタパタと扇ぐと、その目元に落ちた金糸が柔らかく揺れた。前髪が少しだけ長いように見える。

「髪、伸びましたね」
「そうかな」
「暑くないですか?」
「君の方が髪は長いよ」

そう言って徐に彼の手がこちらに伸ばされた。しかしそれは躊躇うようにピクリと止まり、私に触れずにだらりと投げ出される。

「暑くないですよ」

その様子に胸中が僅かに軋んだ。目を伏せそう返す。

宛もなく落ちた彼の腕は、力無く宙を掴んだ。この行動は前からよく見られるものだ。じゃれ合いの一環として伸ばされた手は、他人に触れることを極端に厭うているように見える。
思い返すと、出会った当初の彼の拒絶のしようは酷かった。私が彼と関わるきっかけになったのは、一年前の彼の祖母の葬儀だ。当時の彼は他人に触れるのも触れられるのも極端に嫌悪していた。法事の席で何かの拍子に触れてしまった手を勢い良く振り払われた記憶さえある。
最近でこそこうして接することができるが、やはり彼のそのような様子は少しだけ寂しかった。

「1つに結ってありますから」
「そう、か。そうだね」
「……」

ただ静かに笑う彼は、私の方を向いていた顔を中庭へと向けた。項を隠すように伸びた髪が、風に揺れる。団扇を扇ぎながらその横顔を眺めていると、不意に彼の表情が歪んだ。何かを睨むように険しくなる。そして唇が小さく動いた。

「……だから……あげないって言っただろ……」
「え?」
「……いや、何でもないよ」

中庭を気にするような素振りを見せながら彼は言った。それに思わず中庭を見るが、特に何があるわけでもない。いつも通りの風景だ。
風鈴が鳴る。
彼は、瞳にどこか暗い影を孕んだ。それにジワリとシミのように不安が広がる。私はそれを掻き消すように、口を開いた。

「えっと、何か、欲しいものありますか?」
「!」
「飲み物とか、食べ物とか。あ、お昼はどうしますか? 私作りますよ」
「いいよ。君が大変だ」
「そんなことないです。マツバさんが具合悪い方が大変です」
「……」
「ジムの方でもおばあさんたちが困ってましたし。早く元気になってもらわないと」

身を乗り出して団扇を扇ぐ力を強める。目が乾くと笑いながら横を向いた彼につられて笑い、昼食の準備のための買い物に向かった。





霊感は移る、と誰かが言っていたような気がする。
なら私も彼と一緒にいたらいつか見えるようになるのだろうか。そんなことをふと買い物の帰りに考えた。
それに、最近ジュペッタがマツバさんの前だとやたらと落ち着かない。理由はわからないが、あの家に行くと挙動不審になるのだ。それどころか今日はボールから出てこようともしなかった。
マツバさんも今日とうとう体調を崩してしまったし、今までのことを思うとそれらが関係あるのではないかと懸念してしまう。
漠然とした不安が痼りのように体の中心に鎮座している。

私が彼のように視える人間なら、その原因もわかるのだろうか。

左手に持ったビニール袋とは反対の手で、ジュペッタの入ったボールを取り、見詰める。
強い霊媒体質の人間の側に長い間いると、影響を受けるという。私は彼と親しくなってもう一年は経つ。

(でも、見えるのは怖いですね)

彼の見ている世界とは、私の想像力などきっと及ばないものだ。この間の少女にさえ気を失うほどの恐怖を抱いた。いつか見えるようになろうものなら、私はきっと耐えられないだろう。

だとしたら彼の日常とは想像を絶する苦を伴っている。今回体調を崩したのも、そういったストレスが一因しているのだろう。どんなに笑っていようと、時折見せる暗い表情が示唆している。傲慢な思いだが、彼の負担を和らげたらと願う自分がいた。
だが私がいつまでも彼と一緒にいるのかと聞かれたら、きっと答えは「いいえ」だ。
彼はいつか綺麗な花嫁をもらって、私もいつか誰かと結婚するのだろう。そんなとき、彼を生涯支えられるような伴侶が現れてくれたらと思う。

優しい花嫁を。
綺麗な花嫁を。
強かな花嫁を。
支えられる花嫁を。

途端に彼が、ひどく遠い存在のように思えた。不安以上に、寂しさが肥大する。
小さくため息を付いたあと、手に持ったままだったボールをしまおうとすると、不意に白く発光してジュペッタが出てきた。

「大丈夫ですか? 具合とか悪くないですか?」

フワリと浮かんでこちらを見る赤い瞳は、出会った当初から依然として無機質に見える。しかし時折笑う姿が、この子が確かに生きているのだと実感させるのだ。
ジュペッタは表情を変えずにずっとこちらを見ている。そして不意に、小さな手を私の背後に向けた。

――同時に服の裾を小さな力で引っ張られ、思わず飛び上がる。

「お姉ちゃん」
「わ、うわ、あ……あれ?」

後ろを振り返ると、10歳前後の男の子がいた。それを確認するとジュペッタが私の腕にしがみつくようにやってくる。赤い瞳が不安げに私と少年を交互に見た。
それに一度、ジュペッタを宥めるように見てから少年に視線を戻した。

金色の髪に、菖蒲色の瞳。見覚えのある色は、マツバさんとそっくりだ。顔立ちもどことなく似てる気がして思わず息を飲む。しかしただの他人の空似だと、言い聞かせて笑みを作った。

「どうしたんですか?」
「お母さんが」
「お母さん?」
「出て来てくれない」

こちらをじっと見つめる瞳が、不安げに揺れる。何を言っているのかよくわからなかった。怒られたか何かしたのだろうか。少し考えてもしっくりくる答えが見つからず、首を傾げながらもう一度尋ねる。

「えっと、どこから出て来てくれないんですか?」
「あそこ」
「……?」

そういって彼が指さした方には漠然と道が続いている。
まだ日が高く気温も高いこの時間からか、遠くで陽炎が揺れていた。
少年が私を見て、今一度言う。

「お母さんが、出てきてくれない」

その道はスズネの小道やスズの塔へと続いている方角だった。







20100827




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