喉を圧迫するような苦しさを伴う感情はよく知っている。
黒い葬列。白い棺。不透明な言葉。黒い人の波は一様に同じ顔をしていた。白い壁に囲まれたそこは匣だった。顔も知らぬ他人が吐き出す言葉が、しんしんと空間に積もっていく。
僕はそれが恐くて、恐くて、恐くて。その場から駆け出して、母がいるドアへと向かった。何度も堅いドアを叩き続けた。

母さん、母さん、母さん

出てきて。
お願い。
お願い出てきて。
恐いんだ。
ここは恐いんだ。
早く帰ろうよ。
ここは恐いよ。
母さん。

たまらずボロボロと零れ落ちてくる涙は、あっという間に頬を濡らした。
ドンドンとひたすらにドアを叩く。叩きすぎて握り締めた指の骨が痛くなった。それでも母は出てきてくれない。黒い人の波がざわつき始める。
それが余計怖かった。
必死にドアを叩く。しかしその手は不意に伸びてきた手が制した。
祖母の、温かく骨っぽい皺のある手だった。

「もう、お母さんを休ませておやり」

嗚咽を飲み込む。
目の前にあるのは、ベコベコにへこんだ母の棺だった。



はらりはらりと稚児が泣く
帰りがわからぬ子らが哭く



―――物影で鬼たちがこちらを見て笑っている。




目を覚ますと日が暮れていて、ひぐらしの鳴き声が赤い景色に響き渡っていた。時折涼しげな風に乗せられ風鈴が鳴る。
上体を起こすと、いつの間にか体にかけられていたタオルケットがはらりと落ちた。

「アイス食べますか?」
「!」

聞こえた声に顔を上げると、縁側で座っている彼女が視界に映る。そういえば、彼女がアイスを買ってくると一度出て行った時に寝てしまったのだ。そうするとずいぶんと寝ていたことになる。彼女はわざわざ僕が起きるのを待っていてくれたのだろうか。申し訳なく思い、謝罪を口にすると彼女はただ笑う。そして「持ってきますね」と台所に向かう彼女の姿をぼんやりと眺めた。

「待っててくれたの?」
「せっかくだから、一緒に食べたいですし」
「ごめんよ」
「謝らないでくださいよ」
「ありがとう」
「……」

彼女は苦笑して、こちらにスプーンとカップのアイスを差し出した。受け取ると冷気が指先を包む。いつものように卓袱台を挟み向かい側に座る彼女は、蓋を開けながら「少し涼しくなりましたね」と笑った。風鈴が鳴る。朱色の空に藍色が滲んだ。ああ、もうこんな時間なのか。アイスを一度開けたものの、考え直すように再び蓋をする。そしてゆっくりと口を開いた。

「夕飯、食べていくかい?」
「!」
「何だか日が沈んできたみたいだから、せっかくだからアイスはデザートに」
「いいんですか?」
「うん」

彼女は目を丸くした後に嬉しそうに笑った。それにつられて笑う。さっそく準備をしようと立ち上がる彼女に、ジュペッタが応えるようにクルクルと旋回した。ゆっくりとした動作で台所に向かう。台所に辿り着くと、ヤミラミとゲンガーが壁をすり抜けて現れた。
それに彼女が手伝ってくれるのかと問うと、ゲンガーがはにかむように笑う。ヤミラミもゲンガーの隣に並びながら頷いた。すると負けじとジュペッタが流しの前に行く。彼女は苦笑しながらジュペッタの頭を撫で、さっそく調理に取りかかった。

だが残念なことに、冷蔵庫の中には大したものが入っていなかった。自分から夕飯に誘ったのに、まともなものが作れそうにない。思わずため息が零れる。ただ運良く素麺と麺つゆがあったので、今日の夕飯は必然的に素麺になった。
単に麺を茹でて冷水にさらすだけの作業なのだが、話をしながらすると幾分かかる時間の感覚だとか、効率だとかが違う気がする。
テーブルに運ぶものを運んで、腰を下ろした。
いただきますと口にして、笑顔で箸を運ぶ彼女の姿につい表情が緩む。ジュペッタやゲンガーも器用に箸を使って素麺を口に運んだ。

彼女と親しくなってから、こんなふうに穏やかな時間を過ごすことが多い。
いや、彼女自身はここエンジュの出身だ。しかし幼少時はまるで接点がなく、初めて言葉を交わしたのはほんの1年ほど前だった。

同じ街に長いこと住んでいて、今更という感じがあったが、彼女の方は僕がジムリーダーということもあり前々から知っていたようだ。
そう思うと、1年前まで、まるで彼女を知らなかった自分が馬鹿に思えてくる。反面、彼女がずっと前から僕を知っていたのだと思うと、少しだけ嬉しかった。

「ツユキ」
「はい?」
「そういえば散歩、まだしてなかったよね」
「あ……」
「涼しくなったし、夕飯が終わったら少しだけ歩こうよ」
「あの、だったらスズの塔まで行きませんか?」
「!」
「お花を、供えたくて」
「そうだね」

彼女は小さく苦笑した。ジュペッタが悲しげに鳴く。

「私はあの子に気付きました。だから、ちゃんと覚えてる人はいるんだって、わかるように」
「……」
「忘れられてしまうのは、やっぱり寂しいことですよね」

どこか遠くを眺めるような瞳で彼女は言った。ギシリと胸中が軋む。風鈴が鳴った。
箸を置いて、目を伏せる。

「うん」
「……」
「寂しいね」

なら、君は僕を忘れずにいてくれるのだろうか。
脳裏に母の葬儀の日がよぎる。
棺の向こう側で眠る母に、何度も呼びかけた。
会わなければ忘れてしまう。
顔を見ていないと忘れてしまう。
頭の奥深くで、ガラガラと音を立てて何かが壊れていく。
雑鬼たちが笑っている。
火葬され骨だけになった母を見た時の絶望感は、頭の芯をドロドロに溶かして、思考を汚泥で飲み込んだ。
人間の呆気なさに失望した。

みんないつかああなるんだ

知ってる人間も、知らない人間も。
自分の中で急激に冷めていく。
気付いたら周りには、恨み言ばかり吐き散らかす雑鬼ばかりがいた。

だからだろう。

「ツユキは僕のことを忘れないでね」
「あんなにすごいことあったんだから忘れませんよ。マツバさんこそ忘れないでくださいね」
「はは」




泣きたくなるほど、この時間が愛おしい。






20100817




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