「?」

名前を呼ばれたような気がして、後ろを振り返った。財布から中途半端に取り出した小銭が指先から滑り落ちて床を転がる。そばにいたジュペッタが慌ててそれを拾い、私のそばまでやってきた。首を傾げるその子の頭を撫で、小銭を受け取る。
気のせい、だろうか。

「どうかしたんかい?」
「あ、いえ」

笑顔で首を傾げる店のおばあさんに、慌てて首を振る。手に持った小銭を渡して、アイスが2つ入った袋を受け取った。
袋の中からフワリと冷気が溢れ出す。溶けてしまう前に早く帰ろう。足早に店を出て、陽が爛々と降り注ぐ道を急いだ。
アスファルトの道には陽炎が揺れている。頭上からの陽と、足元からの地熱に汗が滲んだ。

こんな中を散歩なんてしたら、マツバさんは確実に倒れてしまうだろう。
ここに来る前、「散歩に行こう」と言った彼の言葉を思い出した。いつも私が機嫌を損ねたような様子を見せると、彼は散歩に誘ってくれる。私はそれが嬉しかった。いつも私ばかりが彼に要求を押し付けるから、彼からのそういう言葉が何よりも嬉しかった。
いつだって何に対しても無関心に近いものしか見せなかった彼の関心は、常にこの街の伝説に向けられている。私はきっと、彼にそれ以外のものに視線を向けてほしいのだ。彼に、ひとりで寂しげな顔などしてほしくないのだ。

(でも、そんなものはただの傲慢か……)

全身に浴びるような蝉時雨に、そんなことを思っては小さく苦笑して歩いていく。隣をフワフワと浮きながらついて来るジュペッタが首を傾げた。その子の頭を撫で、歩を進めていく。

すると不意に、ジュペッタが立ち止まる。そしてどこか落ち着かない様子で辺りをキョロキョロと見回した。

「どうしたんですか?」

首を傾げながら立ち止まっているジュペッタに問いかけるが、ジュペッタはどこか不安げな表情を私に向けるだけだった。
それに私も辺りを見回してみるが、特に何もない。首を傾げた後に、やはり動かないジュペッタを抱き上げて再び歩き出した。

「!」

同時に、聞きなれない音が耳朶を打った。思わず立ち止まる。もしかしたらジュペッタは、これを聞いて止まったのだろうか。

「赤ちゃんの泣き声……」

鳥のようにも聞こえたが、よく聞いてみるとやはり赤子のようだ。近くの民家に赤ん坊がいるのだろうか。しかしそんな話は最近聞いていない。いや、私が聞いてないだけなのかもしれないが。
蝉時雨が一瞬だけ遠退く。ジュペッタが不安げに私の服を掴み、小さく鳴いた。それに不安が伝染する。

「……早く帰らないとアイス溶けてしまいますね……」

自分に言い聞かせ、不安を誤魔化すように歩き出した。
キン、と頭の中で金属音がした。蝉時雨が遠くで鳴っている。何か、近付いてくる。少しずつ。気が遠くなる。これは何なのだろう。単に暑さにやられてしまったのだろうか。
一瞬だけ無音になる。


耳元で、赤ん坊の大きな泣き声が響いた。


「……っ!!」

それを合図に私は走り出した。全身から体温が一気に抜け落ち、心臓が嫌な鼓動を打つ。早くマツバさんのところに帰らなければ。得体の知れない不安と恐怖にかられ、走って彼の家に向かった。




ガラリと玄関の引き戸を開けて、私は大きく呼吸をした。走ってきたせいで汗が一気に溢れ出てくる。心臓が今だ五月蝿く鳴る中、呼吸を整えるべくもう一度深呼吸をした。

「マツバさん、戻りました」

息が整ったところで、靴を脱ぎながら奥へ呼びかける。少しだけ返事を待つように動きを止めるが、返事がない。聞こえなかったのだろうか。もう一度大きな声で呼びかけてみたが、やはり返事はなかった。
それに何故か、無意識に先日のことを思い出してしまい、一気に不安にかられた。汗が引いて背骨に冷気が絡みつく。ジュペッタを抱きかかえ、袋を持ったままゆっくりと廊下を進んだ。
ひやりとした風が奥から流れてくる。いつもは涼しくて心地良く感じた風が、妙に緊張感を煽った。

「……マツバさん」

中庭が臨める居間に向かう。居間は私が買い物に出て行く前と何ら変わりなかった。しかし彼の姿が見えず、心臓が跳ね上がる。縁側にいるのだろうか。ゆっくりと歩を進めれば、壁から突然大きな影が出てきた。

「ひ……!」

変な緊張感を抱いていたせいか、悲鳴が喉から零れ落ちる。しかし現れたのはタオルケットを抱えたヨノワールだった。
ホッと息を吐き出せば、ヨノワールは首を傾げる。それに謝罪すると彼は居間に向かった。

居間には畳の上で寝息を立てるマツバさんの姿があった。廊下から姿が見えなかったのは、横になっていたせいか。
それを確認した途端に全身の強張った筋肉が弛緩する。ヨノワールは抱えていたタオルケットをマツバさんにかぶせて、再びどこかに行っていまった。

「……なんだか、早とちりしてましたね」

これも前回の事件の余韻からだろう。脳裏に蘇る断末魔や炎に苦しむ彼の苦悶の表情に、胃がキリキリと痛んだ。
……もう、あんな思いはしたくない。
静かに寝息を立てる彼の傍らに腰を下ろし、その横顔を眺める。

自身の体を抱き締めるように体を丸め、目を閉ざしている姿は、外界を拒絶しているようだった。
母親の胎内で、羊水の海に浸り眠る胎児のようだった。

「……」

風鈴が鳴る。何気なく中庭を見ると、何故か中庭の池から彼の傍らまで水跡が点々とあった。誰かの悪戯だろうか。
不意にジュペッタが私の腕をすり抜ける。そして気になるのか、畳に点々とついた水跡をじっと見詰めていた。

沈黙が訪れる。

まるで体の内側が空っぽになったような錯覚にとらわれた。袋のアイスが溶けてしまうのも忘れて、私は彼の横顔を見る。色を失った白い肌は、先日見た赤い少女を連想させた。
そのたびに漠然とした不安に襲われる。
彼はいつか連れて行かれてしまうのではないだろうか。わけのわからないものに連れ去られて、ある日突然消えてしまうのではないだろうか。

「……いなくならないでくださいね」

そっと呟くと、ジュペッタは池の方を見た。
どこからともなく赤ん坊の鳴き声が聞こえてくる。


私にはそれが、彼が泣いているように思えてならなかった。







20100815




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