泣く子笑わせ、母の唄
鬼を哭かせろ、父の笛
蓮の庭から母さまが
蜘蛛の糸を垂らして笑う
賽の河原の石積み遊び
待てどそちらに行けぬと父は言う
そこに眠るは思い出か
唄うはあの日の母さまか
取れよ取れよ蜘蛛の糸
人に譲れよ縷々の糸
鬼灯が爆ぜる夜行の道に
父が吹く笛の音響く
人の子ならば母を呼べ
獣(けもの)の子なら父を呼べ
鬼の子ならばなんとする
獣(しし)でも呼べと子らは笑う
鬼なら唄えよ鬼の唄
はらりはらりと稚児が泣く
帰りがわからぬ子らが哭く
母さま父さま繋ぎましょう
手のひら重ねて子らは帰りましょう
帰りがわからぬ子らは泣く
己は鬼かと鬼灯が問う
ならば帰れよひらひらと
家を探して帰りなさい
己一人で帰りなさい
着いた先に呂伴がいよう



ならばどこへ帰ろう。





「マツバさん」
「!」

眼球に触れた声音に、指先から箸が滑り落ちる。視線を上げると不思議そうな顔で彼女がこちらを見ていた。もぐもぐと口を動かしながら、彼女は右手に持った箸に残り少ない冷やし中華の麺を掛ける。それに自分の手元に視線を落とすと、まるで減っていない掛け蕎麦があった。

「麺伸びちゃいますよ」
「ああ、うん」

漸く我に返り、昼前に彼女が来て出前をとったことを認識する。
箸を持ったまま静止していた右手を、思い出したかのように動かした。口に運んだ麺は思ったよりも柔らかく、やはり伸びてしまったようだ。そんな僕の些細な表情の変化に気付いたのか、彼女は膝の上のジュペッタに視線を向けて笑った。
先日のスズの塔の一件で出会ったジュペッタは、今はすっかり彼女の手持ちとなった。だがトレーナーとして素人な彼女はポケモンの扱い方をよく知らない。しかしトレーナーだからといってバトルを強要されるわけではない。生活の相棒として傍らに置くのもまた一つの在り方だ。ボールを持っていないという彼女に、まだ使用していないモンスターボールを与え、ジュペッタを捕まえることを勧めた。ジュペッタ自身もそれを望んでいたのだろう。進んでボールの中に入っていった。

「ジュペッタはボールに慣れたかい?」
「あ……どうでしょう。ボールより外にいる方が好きみたいで……」

やっぱり慣れた方がいいですか、と不安げに尋ねる彼女に思わず笑ってしまう。先日さんざんな目にあった原因は、その子にも一応あるのだ。片や命を狙っていて、片や命を危うく落とすところだった。それすら忘れて穏やかに時は刻んでいく。
……でも、だからだろうか。
あの時の恐怖も何もかも忘れてしまったかのような彼女の様子には、たまに不安になる。

そうやって人の中には、どんどん新しい感情や記憶が降り積もっていく。古い感情や記憶はどんどん奥深くへと埋もれ、色褪せて、忘却される。いつか忘れたことさえ忘れて、生きていくのだろう。
僕もいつか、忘れてしまうのだろうか。
彼女もいつか、僕を忘れてしまうのだろうか。

「マツバさん?」
「なに?」
「最近ずっとぼうっとしてます。夏バテですか?」
「……」
「夏バテならちゃんとご飯食べなきゃダメですよ。あと睡眠もきちんと取って、無理もダメです」
「うん」

苦笑しながら答えれば、扇風機の風に髪がフワリと揺れる。風鈴が時折涼しげな音を鳴らした。

「あ、マツバさん」
「ん?」
「明後日夏祭りがあるそうですね」
「ああ……」

そういえば、そんなものもあったか。行事に対しては特に頓着がないせいか、気付いたら終わっているということの方が多い。それに人が多い場所が嫌いなことも加わり、行事に参加するなんてことはめったになかった。
……盆が近い夏祭りなんかは余計だ。
常世の釜の蓋が緩むから、呼んでもいないものまで這い出てくる。河原は特にひどい。賽の河原との境が朧気にでもなるのだろう。あれほど気分の悪くなるものはない。
しかしジムリーダーという肩書きやスズの塔の守人という立場上、街の行事を全く無視できないのだ。ここ2年続けて上手く逃れてきたが、今年はさすがに無理だろう。
考えるだけで気が重くなった。
それに、彼女もこういう話題を切り出すということは、祭りに行きたいのかもしれない。

「ここの縁側からって、花火見られますか?」
「ああ、うん。見られるよ」
「じゃあ明後日の夜お邪魔してもいいですか?」
「!」

突然身を乗り出し、目を輝かせながら言った彼女に、反射的にのけぞる。戸惑いながらも頷くと、彼女はひどく嬉しそうに笑った。

「祭りは行かなくてもいいのかい?」
「え?」
「友達が、一緒に行こうってきっと誘ってくるよ」
「私人混み苦手で」
「焼きそばとか、かき氷とか、りんご飴とか……食べたくないの?」
「マツバさんは食べたいですか?」
「僕は別に……」
「あ、なら人が混む前に私買ってきます。それで、ここで食べましょう」
「……」

嬉々と語る彼女に、つい笑ってしまった。彼女の膝の上にいたジュペッタも少しだけ驚いたのか、一歩後ろにフワリと下がる。一瞬だけ沈黙が訪れ、なんとも絶妙なタイミングで風鈴が鳴った。そんな周りの様子に我に返ったのか、彼女は途端に元の位置に正座して小さな声で謝罪を口にする。それが余計におかしくて、再び笑ってしまった。

「笑い過ぎです」
「ごめんよ」
「笑いながら言われても」
「わかったから」

拗ねたように視線をそらす彼女に今度はこちらが謝罪する。ジュペッタが定位置に戻る。少しだけ間をおいてから、いつものように「散歩する?」と尋ねた。しかし今は日が高い夏の白昼だ。ここは風通しが良い上に扇風機がついているから、比較的過ごしやすい方だ。何よりも彼女自らここはクーラーなしでも大丈夫な場所だと言っている。だが外はあの焼け付くような日がかんかんと照っている。アスファルトからジリジリと焼ける音が聞こえるんじゃないかというほとだ。自分から誘っておきながら、少しタイミングを間違えたような気分になった。

「やっぱり暑いから夕方になってからにしようか」
「こんな暑い中歩いたらマツバさん倒れちゃいますよね」

苦笑すると彼女は笑う。そして不意に立ち上がった。それに疑問の念を向けると、彼女はアイス買ってくると言って笑った。そういえば、近くの駄菓子屋では夏場になるとアイスを安く売ってくれていたか。

「じゃあちょっと買ってきます。マツバさん、出前のお礼にアイス奢ります。何がいいですか?」
「ありがとう。君と同じのでいいよ」

笑顔で頷き、彼女はジュペッタを伴いながら部屋を出て行った。
途端にその空間でひとりぼっちになる。頭にズシリと重いものがのしかかる感覚に、深く息を吐き出した。

「……」

そのままドサリと真後ろに倒れる。ふとしたように香る畳の藺草の匂いに、妙な違和感があった。

――視線を感じる。

突然、風鈴が突風に煽られたようにけたたましくなる。もちろん風などない。
仰向けになったまま、ゆっくりと首を回す。中庭の池から、小さな丸い目がこちらをジッと見ていた。
彼女がいた時から、感じていた視線の正体だ。
池から目だけを出したそれは、ゆっくりと縁に手をつき、這い出てくる。ずるり、ずるりと緩慢な動作と共に、水にずぶ濡れになった体が現れた。藻がところどころについていて、ぬらぬらと日の光を反射するそれは、爬虫類を思わせる動きでこちらによってくる。

びちゃりと、ぬめりを帯びた手が首に触れた。

すぐ隣まで寄ってきたそれは、緩慢な動作で僕の首を掴んだ。畳の上で仰向けになっている僕は、必然的にそれを見上げる形になる。

「……なに?」

しかしそれの視線は、先ほどまで彼女がいた場所を見つめていた。ひどく聞き取りにくい、喃語のような声で音を吐き出している。

……ぁ……あ……
「……」
いぃ……あ……
「ダメだよ」

首を掴んでいる手に、爪を立てる。ジュウッと焼け焦げるような音がそこから響いた。異形の体が大きく痙攣する。

「彼女はお前たちになんかあげないよ」

ボロボロと、爪を立てた場所からそれの体は砂の城のように崩れていった。甲高い悲鳴が部屋の中に反響する。
まるで赤子の泣き声のようだった。
その騒ぎを聞きつけたのか、ゲンガーがやってくる。

「ゲンガー、大丈夫だよ」

鬼の子ならばなんとする


仰向けから寝返りを打ち、横を向いた。不安げにこちらを覗き込んでくるゲンガーの頭を撫で、目を伏せる。

己は鬼かと鬼灯が問う
ならば帰れよひらひらと


目を閉じればどこからともなく餓鬼や雑鬼たちの唄が聞こえた。



家を探して帰りなさい
己一人で帰りなさい
着いた先に呂伴がいよう






20100813




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