いつ迎えに来るの?

そのうちね。

お母さん?

いい子で待ってるのよ。

うん。

ちゃんと待ってるのよ。

大丈夫だよ。いい子で待ってるよ。

ええ。

だから迎えに来てね。
いい子で待ってるからね。
いい子にしてるから、ちゃんと迎えに来てね。
ちゃんとここから動かないで待ってるよ。
ここで待ってるよ。
お母さん。
寂しいよ。
でもちゃんと待つよ。
いい子でしよ?
帰ったらお母さんのおにぎり食べたいなあ。
お腹空いたなあ。
お母さん。
寒いよ。
でも、ちゃんと、いい子で、待ってるよ。
だから、

早く迎えに来てね……





頭の中に流れ込んでくる映像は何なのだろう。
真っ赤な振袖を着た少女と、大人の女性。寂しさ、苦痛、空腹、怒り。混沌とした感情が肌の下を這いずり回っている。嫌だ。気持ち悪い。痛い。苦しい。離して。怖い。嫌だ。嫌だ。誰か。
ミシリと音をたてて、少女が私の体を絞める。
長い黒髪が四肢に絡みつき、少女は空洞の瞳で笑っていた。

「待って、た、よ」
「いい子でしょ」
「ね、」
「いい子に」
「して、た、よ」

知らない。わからない。そんなこと言われても、私にはわからない。暗く淀みきった空間で、どろついた感情が肺腑に絡まる。苦しい。

「おかあさん」

ギュウッと、骨のような腕の力が増した。背骨が軋む。首にかかる圧力に、ふと意識が遠退いた。
時だった。


「彼女は君の母親じゃないよ」


「!?」
「!」

どろついた空気の中に、凜とした声が響いた。遠退く意識がそれに強引に引き戻される。少女の顔は歪み、悪鬼羅刹を思わせる形相になっていた。
声の方へと視線を向ければ、菖蒲色の瞳が悲しげに伏せられている。

「こちらの声が聞こえるあたり…君には話が通じるみたいだね」

マツバさんだ。
理解すると同時に、一気に安堵感が広がる。瞼が熱くなり、必死に髪から逃れようと体を動かした。
しかし四肢に絡まる髪が千切れんばかりに手首や足に巻き付く。

「置いて、いく、の」
「ヨノワール、シャドーパンチだ」
「また……わた、し、を」

彼の真横から黒い影が風のように現れ、赤い少女に何の躊躇いもなく拳を入れた。
あまりの速さに少女はついていけずに、勢い良く吹き飛ぶ。そのまま壁に叩きつけられ、ゴキッという鈍い音とともに、少女の首がおかしな方向に曲がった。尚もこちらを見る瞳に、全身が総毛立つ。
拘束が緩んだ一瞬の好きに、私は彼の元へと駆け出した。

「待っ、て」
「!」
「おかあさん」

しかしすかさず足と腕に髪が巻き付き、私はそのまま転倒する。しかし痛みに意識が向くほどの余裕が私にはなかった。うまく立ち上がれずにもがく私に、彼が私のそばまで駆け寄ってくれた。そして体を起こすのを手伝ってもらう。しかし尚も巻き付いた髪は離れず、キリキリと肌に食い込んだ。

「厄介だね」

彼が私の手首に巻き付いた髪を掴みながら、険しい表情をした。床にも生き物のように髪が這っている。
赤い少女はおかしな方向に首を曲げたまま、こちらに音もなく近づいてくる。

「ゲンガー、シャドーボール」

近づいてくる影に、彼のゲンガーが黒い塊を投げつけた。黒い塊は少女の肩の付け根にぶつかる。そしてそこから腕をさらうようにもぎ取り、後ろの壁に消えた。カンッと、まるで木製のものが床に落ちるような音が響く。少女の腕が壁にぶつかり床に転がった。
ギシギシと音を立てて少女は首を回した。もともと歪に曲がっていた頭は更におかしく歪んでいく。有り得ないほど首は回り、その体はこちらを見ているのに、頭は真後ろを見ていた。
すると転がっている腕がひとりでに動き、少女の首のあたりに張り付く。真っ白な指が器用に動いた。
その姿に、全身に怖気が走る。腹の底からすえた匂いが込み上げ、吐き気が喉元まで迫ってくる。
とっさに口を両手で覆えば、不意に伸びてきた彼の手が私の目を覆った。

「見るな」
「……!」
「大丈夫だよ」

言って、彼は私を背後に押しやる。そして淡々とゲンガーやヨノワールに指示をした。目をそらし俯くと、少女の絶叫が響き渡る。幾重にも重なった歪な不協和音のような悲鳴が、空間を震わせた。

「なん、で……!どう、して!どうして……!」
「どうして、邪魔、する、の……!」
「帰り、たいの、に」
「帰、りたい……!」
「おいてかないで」
「い、か、ないで、!」
「いや、だ!」

肌が粟立つ。
異様なまでに、心臓が脈を強く打った。

「おかあさん、」
「おかあさん」
「おかあさん」
「おいてか、ないで」
「いい子で、待つから」
「帰りたい」
「お腹すい、た」
「疲れた」
「帰りたい」

―――可哀想。
ふと頭によぎる感情に、言いようのない虚しさが込み上げる。しかしすかさず同情してはいけないと、呟いた彼の言葉にひどい罪悪感に襲われた。

「帰りたい」
「!」
「もう、」


私たちは、こんな場所から逃げ出すんだ


足元が不意にグニャリと沈んだ。無数の髪の毛が散らばっている。それらが足に絡みつき下へと引きずりこもうとしている。
赤い少女が笑った。

「ツユキさん!」

振り返った彼が私の腕を掴み、そちら側へ強く引いた。
少女が嬉しそうに微笑みながら、首に癒着した腕をこちらに翳す。
そして指先から何か、青白いものが彼の肩へと放たれた。とっさに叫んだ。しかしそれよりも早く、青白い炎のようなものが彼の肩にとりつく。彼の表情が歪み、焦げた匂いが鼻孔を満たした。

「マツバさ……」
「大丈夫だよ」
「怪我を……」
「……っ」

手で払うが、炎は消えない。それどころか彼についた青白い炎は、徐々に彼を飲み込み始めた。衣服が焼け、剥き出しになった肌が炎に焼けただれる。少女がケタケタと、鳥の鳴き声のような声で笑った。悪寒が全身を巡る。
主の異変に気付いたのか、ゲンガーとヨノワールが同時に少女に飛びかかった。しかし何か障壁があるのか、二匹はいとも簡単に弾き飛ばされ、壁に打ち付けられる。
尚も少女に飛びかかろうとゲンガーが身構える。それに彼は低く言い放った。

「ゲンガー、道連れだ」
「!」
「僕とその子を同時に、ね」

ゲンガーの動きが止まる。躊躇うように彼を見た。しかし早くと急かす彼にビクつき、ゲンガーは技を発動させる。
ゲンガーの赤い目が仄白く光り、彼と少女をとらえた。マツバさんの影が伸び、少女の影と重なる。同時に少女にも炎が燃え移った。

「あ゛あああ、あ、があ」
「…――っ!!」

炎が大きくなる。少女は絶叫し、彼は前のめりに倒れ込み、呻きを上げた。音もなく彼を侵食する火は、確実に命すら焼いていく。

「マツバ、さん」

足に千切れるような痛みが走る。しかし構わず彼のもとに向かった。髪が更に絡みつく。

「いかないで!!」
「!! ……っぐっ」

声と共に何かが首を掴む。足元の髪が無数の手へと形を変えた。まるで冥府から縋る亡者の手だ。冥府に引きずり込もうとする死者の手だ。子供のような小さなものから、老人のような骨っぽい手、女性のようなもの、男性のようなもの。幾つもの手が、影から現れ全身を掴んだ。

「あ、ああ、あ」
「ツユキ!」

体が影に沈んでいく。凍り付くような冷たさが、足から全身に流れ込む。少女が笑いとも悲鳴ともつかない声で言葉を紡いだ。

「あ、ははっあが、ぐ、い、やだ! いかないで、おいてかないで、寂しい、お腹空いた、寒い、帰りたい」

体がズルリと沈む。彼と少女を包む炎がさらに大きくなる。彼が呻きを上げた。少女が絶叫する。

「あ、あ゛あああ゛あ、あ助け、助けて、痛い、あつい、あついよ、ああ゛、やだ、怖い、痛い痛い、助けて、いや、ああ゛あ」

どろどろと少女の肌が崩れていく。真っ白な肌が赤黒く焼けただれ、ドロリと落ちる。その下からは真っ白な骨が現れた。
そのおぞましい光景と、彼の苦悶の表情だけが視界に映っていた。ズルリとまた体が沈む。縋りつくような手が、首を絞める力を強めた。

ああ、もう、ダメだ。

私の頭にあったのは、諦めと絶望感だけだった。死ぬんだ。きっと。みんな死ぬんだ。
ズブズブと体の半身が沈み、意識が遠退いた。
諦めるように目を閉じる。
同時だった。

「!?」

突然、辺りが明るくなる。夜明けだからではない。まだ、夜明けは迎えない。背後に巨大な気配が降り立った。

鳴き声が聞こえる。これは獣の鳴き声だろうか。勇ましく力強い鳴き声だ。猛禽類かもしれない。しかしその中に繊細で透明な音色が伺える。綺麗な音だ。そうだ。これはきっと、鳳笙の音だ。


七色の羽根を舞わせ、神と謳われたそれは現れた。






20100805




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