おそらく今晩だ。
今晩、少女は彼女を本気で奪いに来る。

ここまで来てしまったら無視はできなかった。彼女の首と足首にある赤い痕が、禍々しい邪気を発している。彼女を彼岸へ連れて行こうと手招きをしている。
俯き怯えた様子の彼女の隣に座り、水羊羹を差し出した。しかしチラリと見るだけで受け取ってはくれなかった。チクリと痛んだ胸中に、先日の彼女もこんな気持ちだったのかと、今更後悔した。

「おかあさんと君を呼んだんだね?」
「はい……」

ギュッと体を縮こまらせる彼女に、やりきれない気分になる。
あの少女は間違いなく80年前まで行われていた悪習の犠牲者だ。なら、きっと迎えを待っているのだろう。彼女を母≠ニ呼ぶのは、迎えに来てもらえると思っているのが母親たちだったからか。ならあの少女は、ホウオウではなく母親を待っている。
……80年も昔だ。母親が生きてる可能性は、皆無だろう。

「私、死ぬんですか……」
「!」
「あの子はどうして私ばっかり……私何もしてないのに……どうして……」
「ツユキさん…」
「どうして」
「……」


どうして?

僕だって、同じだ。
どうして、どうして見えるのだろう。
どうして僕だけなのだろう。
どうしてこんな気味の悪い目を。
どうして。
呪いだ。
嫌がらせだ。
神様は酷い。
酷い。酷い。酷い。
神様は。

エンジュの神様はね、ホウオウなんだよ

祖母の言葉が蘇る。
神様?
神様、ねえどうして僕だけ。
不公平だ。
酷い。
酷い。
普通≠ノ戻してよ。
僕は鬼≠ネんかじゃない。
聞いて。
なのにどうしてスズの塔に戻らないの。
聞きたいことがいっぱいあるんだ。
戻ってきてよ。

僕は、


「僕は、君を守れると思うよ……」
「!」
「だから、そんなこと言わないんだよ」

でないと、僕の方が絶望的だから。
泣きそうな顔で礼を口にした彼女の頭を撫でる。
日は空高く、天頂にあった。





1人が怖くてたまらなかった。
朝での一件で、マツバさんや彼のポケモンたちが常に目の届く場所にいてくれるが、漠然とした不安が胸中で淀んでいる。物音にひどく敏感になった。ゲンガーが笑わせようとしてくれるが、どうしても笑えない。怖い。あの子はどうして、私に目を付けたのだろう。


夕食を終えた今、ただ呆然と鏡の前に立ち尽くした。首に赤い手形がある。絞められた痕だ。それを見るたびに恐怖にかられ叫びたくなる。無意識に震える体を、押さえつけるように手のひらを握った。
すると鏡越しにフワライドが映る。心配で見にきてくれたのだろう。後ろを振り返りお礼を言えば、フワライドは笑い声を上げた。
それにつられて頬が緩んだ。

「!」

しかし一瞬でフワライドの表情が変わる。
それに戦慄が走った。
反射的に鏡から離れようと体に力が入る。
それよりも先に、何かが首を掴んだ。

真っ白で氷のような手だった。

「―――っぁ、が、あ…!」

手は鏡の方へと凄まじい力で引っ張った。呼吸器が締め上げられる。それにフワライドが黒い塊を鏡に向かってぶつけた。シャドーボールだろう。鏡から歪な和音のような悲鳴が響き、手が離れた。
すかさずフワライドと共に洗面所を飛び出す。しかし今度は足に何かが引っかかり、私は転倒した。
痣に沿うように白い手のひらが足首を掴んでいる。

「―――っ!!」

私は自分でも驚くほどの金切り声を上げた。そして全力で走り出す。廊下を抜け、裸足で中庭に出た。背後で笑い声が聞こえる。何かが迫ってくる。無我夢中で走り抜けた。どこに向かおうとしているのかなんて知らない。恐かった。訳の分からない叫び声を上げながら、私は裸足のまま走りつづけた。背後に迫ってくる気配から逃れるために。冷えた地面を走り抜け、人気のない道を通り、思えば私は少女に誘導されるままに走っていたのだろう。

たどり着いたのは、スズの塔だった。

でもスズの塔にたどり着いても、まだ背後で笑い声は響いていた。私は階段を登り始めた。疲れもなにもない。がむしゃらに階段を上った。足が悲鳴を上げる。喉が焼け付くような痛みを訴える。それでも走った。

私が立ち止まったのは塔の頂上だった。

気配も笑い声もピタリと消えた。助かったのだろうか。ひどい疲労感が全身にのしかかる。日が沈みきった塔の中は暗い。かろうじて慣れてきた目が辺りの輪郭をとらえ始めていた。

冷たく湿った空気が呼吸器に流れ込み、心臓が冷えた。
途端に何故自分がここにいるのか、そんな疑問にかられる。フラついた足を動かした瞬間、腹部に圧力を感じた。

「おかあさん」
「迎えに」
「きて」
「くれたの」

「え、?」

骨盤が軋んだ。
腰に回った細い骨のような腕。
ギシギシと私の体を締め上げ、少女は私の腹部に埋めた顔を上げた。
ニタリと笑う、真っ黒な瞳が私をとらえる。
真っ黒な少女の髪が生き物のようにうねりながら伸び、徐々に床を埋めていく。

少女の髪が私の首を緩やかに締め上げる。
嬉しそうに笑う少女の顔が、おぞましかった。






20100804




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