あの赤い振袖の子が見てるんです。

嘘じゃありません。本当です。気のせいなんかじゃないんです。ずっと見てるんです。あの日スズの塔で見かけたときから、こっちを見てるんです。ご飯を食べるときとか、お風呂に入る時とか、見てるんです。私のこと。私のこと見て笑ってるんです。真っ黒な、空洞みたいな目で笑ってるんです。怖いんです。家の人に相談しようにも、信じてもらえないんです。だって、他の人に聞いても見えないって。私、怖くて眠れなくて。夜寝るときも、押し入れの隙間とか、窓から見てるんです。ずっと、ずっと。どうしたらいいんでしょう。
私、怖くて――。





「心配し過ぎだよ」

笑いながら言った彼に、私は言い難い不安にとらわれた。ひぐらしが鳴き始め、辺りは赤く染められている。赤が連想させる存在に怖気が這い上がった。
いつものように彼の家を訪れ、居間でお茶を飲みながら打ち明けた現象に私はここ数日悩まされていた。僅かな物音にすら敏感になり、毎日異常なまでの緊張感を抱えている。誰にも相談できず、やっとの思いで打ち明けたというのに。彼にそんな態度を取られたのは絶望的だった。
ジリジリと心臓の辺りを焼かれるような錯覚に陥る。ひぐらしの一定した甲高い鳴き声に、ひたひたと夜が忍び寄っていた。じとりと汗ばむ手のひらに、背筋に怖気が滑り落ちる。不自然に鼓動を打ち始めた心臓に、不意に視線を感じた。

「い、今……今だって、その襖から……」
「なにもいないよ。気のせいだよ」

柔らかく笑う彼に、瞼がじわりと熱を持つ。違う。気のせいなどではない。本当にいるのだ。得体の知れない虚しさに俯く。しかしその刹那に、彼の菖蒲色の虹彩に囲まれた瞳が剣呑に細められたのを見逃さなかった。

彼は、見えてはいけないものが見えるという。
詳しくは知らない。
しかしそれが常世の住人であることは容易く想像がついた。だから彼の見てる景色と私の見てる景色は同じ物であって、全く質の違うものなのだ。此岸にありながら彼岸を見つめている。一体どのような気分なのだろうと思案する。生と死の境を目に宿し、身の内に抱える苦しみには私など到底及べはしない。
だから、彼はその手の話で私をよくからかう。その時は決まって悪のりをして「今もいるね」「ああ、通ったよ」などと口にするのだ。それが否定的な言葉を口にして、険しい表情を一瞬だけ見せた。私が戦慄するには十分だった。

「そんなに怖いなら今日は泊まっていくかい?」
「!」
「ここにはゴーストポケモンがいるし、彼らは君と遊びたいみたいだから」

言うと同時に、ゲンガーやムウマージが壁を通り抜けてやって来る。
彼の周りをくるくると回りながら笑い声を上げて、2匹は私の隣に腰を下ろした。
……ゲンガーがどこか遠くを気にするような素振りを見せる。

「男一人の家に上がり込むのは、抵抗あるだろうけどね」
「あの」
「部屋は空いてるのがたくさんあるから、好きなところを使っていいよ。不安ならムウマージを傍らにね」

彼の声に応えるように、ムウマージが声を上げた。そして私の頬を尖った帽子のような頭でつつき、笑い声をあげる。
それに「決まりだね」と微笑む彼に、私は家に電話すべく一度居間を出た。





1人の時間ほど怖いものはない。家にいるとき、決まってあの少女は私の前で笑っていたのだから。最初は見間違いや錯覚だと思った。しかし二度目の時、あまりに明瞭に見えた姿に、私は悲鳴すらあげられずに震え上がった。
こちらを真っ黒な空洞のような瞳で見つめ、血で塗り上げたような真っ赤な唇は絶えず弧を描いていた。土気色の肌に、骨が浮き上がった頬や首筋。ただ綺麗に切りそろえられた髪だけが、艶やかだった。

思い出しただけで、そこにいるような錯覚を抱く。膝を抱え、きつく自身の体を抱き締めた。
傍らにいるゲンガーやムウマージがフワフワと私の周りを旋回する。今風呂にいる彼に代わってそばにいるという感じだろうか。
しかしよく考えてみればひどく図々しい行動だった。これが迷惑でないわけがない。そう思った途端に罪悪感が込み上げた。だが今さら帰るなんて言えない。
罪悪感と恐怖の二重の感情に惨めになった。

「……!」

不意に、肌にひやりとした空気が触れる。夏とはいえ夜は割と気温が下がるのだが、どこか違和感を感じた。扇風機は止まってる。窓は開いているが、何かが違う。
寒気が体に纏わりついた。まるで百足が背骨を這うような感覚に、体が動かなくなる。
―――いる。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌嫌嫌嫌嫌。止めて、来ないで、止めて。見ないで。見ないで。見えない。視ないで。違う。私は違う。人違い。違う。私は。


「 見、ィ
      つケ
         た 」


声、が。
声が声が声が。
首が無意識に襖へと向く。額に汗が滲む。全身が震えた。指先から熱が抜け落ち、息が細くなる。
ゲンガーとムウマージは。
先ほどまでそばにいたはずの2匹がいない。恐怖が一気に増した。

「―――っあ、ぁ!!」

見ている。
見ていた。
やっぱりだ。
やっぱりずっと見ていた。
いた。
いたのだ。
あの目が。あの顔が。あの赤が。隙間から見てる。
嫌だ。怖い。どうして。どうして。誰か。マツバさん。マツバさんは。
襖が音もなく開く。その向こう側には誰の姿もない。真っ黒な空間だけが映し出されている。
嫌だ。恐い。来ないで。止めて。止めて。止めて。

クスリと笑う声が鼓膜を突き、心臓が跳ね上がった。呼吸が上手くできない。苦しい。見ている。笑っている。赤が。苦しい。嫌だ。見ないで。苦しい。見ている。止めて。見ないで。怖い。見ている。怖い。恐い。怖い。嫌だ。嫌だ。違う。私じゃない。
冷たい空気が肌を包む。心臓にズシリと何かが絡みつく。息ができない。
止めて。止めて止めて止めて、

止め、



 「 おかあさん 」



目の前に、おぞましい少女の顔が現れた。
真っ黒な瞳。真っ赤な唇。真っ白な肌。真っ黒な髪。真っ赤な着物。真っ白な歯。
頭が割れるような頭痛に襲われ、私の意識は奈落へと沈んでいった。





夜中に悲鳴が聞こえて、彼女が寝ている部屋に駆け込んだ。半狂乱になり「見ないで」と泣き叫ぶ彼女に、彼女の警護をしていたムウマージがあたふたとしている。髪を振り乱し叫び続けている彼女のそばに寄り、必死に体を押さえつけた。しかしそれが逆に恐怖心を煽ってしまったのか、悲鳴が上がる。必死に呼びかけるが言葉が届かない。
叫んでいるせいでこちらの声が聞こえていないのだろう。このままだと過呼吸になってしまいそうな様子に、少し乱暴とは思いながらも彼女の口を右手で塞いだ。

「ツユキさん、大丈夫だから。あの子は今は消えたよ。もう大丈夫だ」
「……!」

何度目かの呼びかけに、彼女は泣いて真っ赤になった瞳で僕を見た。ピタリと止まる動きに体の拘束を解く。
涙で髪が頬に張り付いている。疲労しきったその顔には隈があった。

「マツバさん」
「もう、大丈夫だから」

放心した様子で、彼女は僕から視線をそらした。全身が震えている。血の気の失せた顔色に、今一度肩を抱きながら大丈夫だと繰り返した。

「わた、し」
「疲れたね。横になって、もう一度ゆっくりお休み」
「……」
「大丈夫だよ。ちゃんと僕が見張っておくから。だからお休み」

後から寝ぼけた様子でやってきたゲンガーに、それとなく催眠術を命じた。それにより再び眠りに落ちた彼女を見つめて、目を伏せた。

「これは」

彼女の首には、真っ赤な手形が付いていた。






20100803
修正 20110710




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