人の姿をした異形を『鬼』というのだと、祖母が昔言っていた。

部屋の片隅、薄く開いた襖から、何かがこちらを覗いていた。黒々とした丸い目が仄白く輝いている。薄ぼんやりとした輪郭もままならぬ影は、微々たる毒気を纏いなが呼吸をしていた。じっとりとした眼差しをこちらに向け、時折ぐにゃりと輪郭を歪ませてはまばたきをする。
……そんな物欲しそうな目をしたって、髪も指も血も心臓も、あげやしないのに。
一瞥をくれてやれば、それは黒い目を細めてケタケタと笑った。一体どうやって隠していたのかも分からない歯を剥き出しにし、目玉は笑う。そのたびに卓袱台の上の湯呑みが小刻みに揺れた。
耳鳴りがする。
吐き気と嫌悪感が口内を撫で回し、不快感に眉をひそめた。

「お、ニ」

――ノイズのような、ざらついた声だった。いや、声では正しくない。これは雑音だ。雑音が言葉という形を作っている。ケタケタとそれは笑った。
笑うたびに湯呑みが揺れる。耳鳴りが増す。
すう、と音もなく襖が僅かに開いた。それはニタリと笑って、一歩だけこちらにやって来る。毒気が軌跡を残し、畳に僅かな焦げ後が残った。

「人、喰う」
「人、人、人」
「キキ、キキ鬼哭」
「親喰った」

――煩い。
おもむろに手を伸ばし、黒い目玉を掴む。手のひらにすっぽりと収まってしまうそれに目を細めた。キイ、と。まるで金属が擦れ合うような嫌な音が鳴る。それは鳴き声を上げた。いや、悲鳴といった方が正しいのだろうか。
構わず手のひらに力を込め、勢い良く握り潰した。
グシャリと、まるで泥団子を潰すような感覚だった。黒い泥のようなものが指の間から畳に飛び散る。しかしそれはすぐに塵のように宙に霧散して消えた。


「マツバさん?」
「!」

不意に鼓膜を突いた一言に我に返る。襖の向こう側で、水羊羹が乗ったお盆を持って、見慣れた顔が立っていた。

「どうかしたんですか?」
「何でだい?」
「すごく怖い顔してます」
「!」
「嘘ですよ。でも、何だか顔色悪いですよ」
「……」

力無く笑いながら彼女は言った。ゆっくりと膝を折り、お盆を卓袱台の上に置く。そして水羊羹を片手に、彼女は苦笑しながら「好きじゃありませんでしたか?」と口にした。それに同じように苦笑しながら、水羊羹を受け取る。
……まだ手のひらに感覚が残っていて気持ち悪い。受け取ったばかりの水羊羹を、ほとんど無意識に一度お盆に戻した。
チラリと片手を見て、ふとしたように立ち上がる。同時に水羊羹を食べようとしていた彼女は、目を丸くした。

「マツバさん?」
「うん、ちょっと手を洗ってくるから」
「?」
「さっき埃被ってた本を眺めてたんだよ」

言い繕うには充分な言葉だった。ゆっくりと洗面台に向かう。辿り着いて勢い良く蛇口を捻れば、不意に吐き気が込み上げた。
自分の手が気持ち悪くて仕方ない。餓鬼は昔から家にいたから、大して珍しいことでもないのに。幼い頃の再現のように、それは繰り返されてきたのだ。あれは悪いものだ。だからそれに触れた自分の手はゾッとするほど汚い。

餓鬼を握り潰した右手を、痛いほどにこすった。黒いどろりとしたものがまだ付いているようで、その感覚が蘇る。
汚い、気持ち悪い、汚い、汚い汚い汚い気持ち悪い。
水の流れる音だけが聴覚を支配する。どんなに水で流そうと石鹸で洗おうと、気が済んだことはない。そのたびに嫌気が込み上げた。
でも、決まってそんな時に自分の名前を呼ぶ声が鼓膜を突く。それに我に返るのだ。そしてそのたびに中断させて、居間に戻った。

「マツバさん、水羊羹食べちゃいますよ!」
「……!」

居間に戻るなり、少しだけムッとした表情の彼女が片手で団扇を扇ぎながら水羊羹を頬張っていた。それに苦笑を零す。
するといつの間にかやって来たゲンガーが彼女の周りを旋回し、水羊羹を取り上げた。驚いたように声を上げる彼女に、ゲンガーが笑う。

「ゲンガー! ダメです! それマツバさんのです!」
「いいよ」
「!」
「僕の分はいいから」

そう言うや否や、彼女の顔が少しだけ泣き出しそうに歪んだ。どうにも、僕は彼女の真意を汲み取るのが下手のようだ。
すぐに表情をいつも通りに戻すが、心なしか怒っているように見えた。無言で自分の分の水羊羹を口に運ぶ彼女に、小さな罪悪感が湧く。
今までの人付き合いなど表面的で薄いものだった。だからこそ簡単にボロが出る。彼女は比較的穏やかな性格だから関わり合いが続いているだけだ。
虚しくはないのかと問われても、おそらく慣れてしまっているから平気なのだろう。形容し難い感情が去来し、眼を伏せた。

「なんだかお疲れみたいですね」
「!」
「大丈夫ですか?」
「あはは、逆だよ。むしろ最近は家に籠もりっきりだったから」
「たまには外に出ないと体に悪いですよ」
「そうだね。じゃあ散歩でもしようかな」
「ご一緒しますよ」

笑いながら言った彼女に、つられたように笑った。皿の上にある残り少ない水羊羹を咀嚼し、ゲンガーも連れて外に出る。日差しは突き刺さるように濃く強く降り注いでいた。





散歩で行く場所は、決まってスズネの小道だった。そこに辿り着くまでには、古い寺社や民家が並ぶ道を通る。時折聞こえる太鼓の音は、おそらく祭りの練習だろうか。さまざまな音に包まれた空間を突き進むと、その場所はひっそりと季節を纏って佇んでいた。

暑中を迎えた今、スズの塔へと続く並木道は青々とした緑に包まれている。これがエンジュの名物である紅葉に染まるのは、あと2月は先の話だ。
蝉時雨が降り注ぐ中、斑に零れ落ちる木洩れ日を受けながら歩く。
隣を歩く彼女の横顔はどこか楽しげに見えた。

――しかし不意に彼女の顔から笑みが消える。どこか一点を凝視して動きを止めた。それに訝しげな視線を向けながら問おうとすると、温い風が吹き抜ける。
キン、と金属がぶつかり合うような甲高い音が脳内で響いた。音が波打ち、波紋し、耳鳴りに変わる。鋭い痛みが脳を駆け巡り、吐き気が込み上げた。

「マツバさん? どうしたんですか?」
「ああ、うん。大丈夫。それよりツユキさんこそどうかしたのかい?」
「いえ、さっきあっちの方に女の子が……」
「……」

彼女が指差した方へと視線を向ける。ちょうど、塔の入り口のそばの木々の間だ。生い茂っている深緑に、そこは暗くじとりとした雰囲気を出している。

「見間違いでしょうか。真っ赤な振袖みたいなものが見えて」
「……!」
「でもこんな季節に振袖は暑すぎますよね」

見間違いです、と苦笑した彼女に、曖昧な笑みを返した。耳鳴りが増して、背筋を氷塊が滑る。
今一度木々の間に視線を向けた。すると一緒に散歩についてきたゲンガーがそちらへと滑るように移動する。木々の間で何かを見つけたのだろうか。ガサリと茂みが揺れる音と共にゲンガーは戻ってきた。その手には、赤いものが抱えられている。差し出されたそれに、彼女は首を傾げた。

「日本人形?」

真っ赤な振袖を着た、小さな人形だった。しかし白い顔には泥が付き、髪もほつれてぼさぼさだ。ずいぶんと古い。

「お供え物かな」
「お供え物?」
「うん」

再び温い風が吹き抜ける。不思議そうな表情をする彼女に、昔自分が同じ反応を祖母にしたことを思い出した。

「祖母から聞いた話なんだ。赤い振袖の女の子」
「!」
「80年くらい前まではね、ホウオウを呼び戻す儀式として、七つの女の子が人柱にされていたんだって」
「人、柱」
「うん」

何年にか一度、七つの年を迎えた少女を神に嫁入りさせた。真っ赤な花嫁衣装を着せ、ひたすら神が戻るのを待つ貞淑な伴侶として。
しかしそれは所詮贄だ。伴侶など体裁を気にした呼び方に過ぎない。死んでいった幼い少女たちは塔に閉じ込められ飢えて死んでいった。
そんな下らないことで、彼の存在がこの塔に降り立つはずもないのに。それでも昔の人間は繰り返した。今では忘れ去られた悪習だ。

「だからさ、今でも彼女たちは待っているんだって」

降り立つはずもない存在を。

「バカな話だよね」
「それ、は」
「ホウオウは来たりしないよ。なのに彼女たちは犠牲になったんだ。食糧も与えられずに、空腹と喉の渇き感じながら塔の中で待ち続け、死んでいった。だから、後の世の人たちが必死で供養しようとしたんだろうね」

贄の七つの少女。己の時間すら止めて未だこの塔にいるのだろうか。

ふとしたように彼女に視線を向けると、表情を強ばらせていた。そういえば、この手の話は苦手だったかもしれない。笑いながら謝罪をすれば、彼女は一人では怖くて家に帰れないと困ったような顔をした。

「大丈夫だよ。彼女たちは、空を見上げて待っている」

真っ青な空へと向かって、突き刺すようにそびえる塔を見上げる。
蝉時雨が一瞬だけ遠退き、一斉に止んだ。
どこからか、鈴を転がしたような笑い声が響く。
隣にいる彼女には、やはり聞こえないのだろう。

「暑さに当てられてしまいましたか?」
「そうかもしれないね。それよりゲンガー、人形を元あった場所に戻しておいで」

素直に人形を抱えて彼は木々の間にそれを置いてくる。それに化けて出てこなければいいねと彼女に笑うと、そんな子供みたいに人を驚かせないでくださいと彼女は言った。
それに笑って謝罪すれば、蝉時雨が再び鳴りだす。
帰ろう、という言葉に頷いた彼女は、軽い足取りで帰路を辿りだした。
そんな彼女の隣を歩きながら、ふと、後ろを振り返る。



真っ赤な振袖を来た、市松人形のような少女がこちらを見ていた。






20100803
修正 20110710




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