調査兵団に入るなら、たぶん、誰もが一度は彼を憧れはするだろうと思う。
人類最強という子供が喜びそうな代名詞はしかし、今の人類にはかつてないほど甘美な響きなのだろう。
曖昧で具体性の欠片もないその称号は、彼が壁外から帰ってくるほどに分厚く根強く降り積もり、彼の中で、彼の人間性と、彼の兵士としての強さを隔てる強固な壁となった。
私たち一般の兵士が知るのはその壁の内側である。
とても狭く限られた兵士としての彼である。
並外れた立体機動の戦術、戦闘時の的確な判断、仲間への温情。
兵士という枠の中の彼。
しかしその外側を私たちは知らない。
彼の本名も、出身も、生い立ちも、何も知らない。
彼の人間たる部分を私たちが知ることはおそらくない。
何も知らずに彼の背中の自由の翼を讃えている。
彼の背中の翼は、壁外へ赴いて消えた命の数の集大成だ。
それを強さと私たちは讃えた。
飛ぶどころか引きずるだけでも一苦労の羽根を背に、彼は壁外へ行っては帰ってくる。
引きずるだけの羽根が、さらに重みを増す。
いつしか彼自身を押し潰さんばかりに。
それでも飛ぶと言うのなら、彼は何のために戦うのだろう。
彼の心臓は彼のものではなく公のものである。
彼の胸を開いても、彼はいない。
それは兵士であれば例外なく私たちもそうなのだろう。

「……生きて帰ることだけを考えろ」

目の前で、私を庇って仲間が死んだ日、彼はおそらく名前も知らないであろう一兵士の私にそう放った。
私は、帰りたくなかった。
食われたのは訓練兵時代から一緒の友人だった。
友人が食われて、助かってよかったなどと思えるはずがなかった。
――いや、本音はもっと別のところにあった。
きっと、友人の死の報告も遺品も、私が遺族に届けなければならない。
私のせいで死んだのだ。
遺族にどんな恨み辛みを吐かれるのか。
どんな言葉で責められるのか。
私のせいで死んだ。
違う。
私は好きで生き残ったんじゃない。
私は悪くない。
友人だって死は覚悟していたはずだ。
仕方のない結末なのだ。
壁外からの生存率など、誰だって知らない。
危険なことは誰だって知っている。
死は常に付きまとっている。
私は。

友人の遺族へ遺品へ返還しに行った日、彼が同行した。
私のせいで死んだのに、責められたのは彼だった。
何故助けてくれなかったのか。
何故守ってくれなかったのか。
何故私たちの子供が死んだのか。
彼はただ黙って頭を下げていた。
泣き叫ぶ遺族を前に、ただただその感情の全てを受け止めていた。
責められるべきは私だった。
私のせいで死んだ。
彼は、確かにあの日友人が死ぬ瞬間を見ていた。
しかし彼はあの瞬間別の巨人を殺していた。
それで救われた命があった。
彼は人を救った。
私のせいで友人は死んだ。
目の前にいる女性が責めるのは、私のはずだった。
恨みも辛みも悲しみも苦しみも怒りも、彼に向けられるべきではなかった。
理不尽にも思える言葉すらあった。
しかしその全てを彼は黙って受け入れ、頭を下げていた。

まるで、ぐずる子供を前にした母親だ。
他者の全てを受け入れ、背負おうとしている。
自身の身を休めることすらせずに、人の為に摩耗している。
心臓のない胸の内をさらに擦り減らし、彼には何が残っているだろう。

その手は剣を握り過ぎて痛々しく血が滲んでいる。
その目は仲間の死を目の当たりにし過ぎて深い隈が刻まれている。
その足は重い翼を引き摺る為に疲労に凝り固まっている。


……これは、私の妄想に過ぎない、仮定の話だが、もし、彼の元に心臓が戻れば私たちは彼の人間である部分を知ることが叶うだろうか。
壁が消え、世界が平和になれば、それは叶うのだろうか。
例えば仮に、彼に、もし、彼に愛する人ができたら、彼はその心臓を再び捧げるのだろうか。
しかし二度目は、きっとその胸を開いたときに彼の愛する人がいるのだろう。
剣ではなく人の手を握り、戦いではなく繰り返すだけの単調な日常に身を浸し、ただただ生き続ける平和が訪れればいい。

起伏のない、淡々とした穏やかな日々に微睡むことができればいい。
彼が、人間として生きることができる日常が訪れればいい。

巨人に首を食いちぎられる刹那、ぼんやりとそんな夢を思った。



20130408





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