「暴力を行使するために必要なことはなんだと思う?」

唐突な一言に思わず思考も動作も止まる。
彼から渡されて目を通していた書類が乾いた音を立てて指からすり抜けた。
先日分隊長に就任して、大それたデスクに腰をかける彼は、涼しげな顔で書類を眺めている。……次回の壁外調査の予算やら作戦やらと、一般兵の私などが携われない情報の確認でもしているのだろう。
テーブルに散らばった書類を持ち直し、先ほどまで読んでいた頁を確認するようにもう一度最初から軽く目を通す。3頁目からで良かったんだったか。
仕切り直すように、一度手元にある紅茶を一口口に含んだ。
横目に見た彼は、依然としてポーカーフェイスを崩さない。いや、この男が取り乱すような場面など、そうそうないのだが。
最も、彼は書類の確認の片手間に、他愛のない会話を投げたに過ぎない。
私は再度書類を軽く読み直し、詰まらない答え合わせをする心持で答えた。

「この間連れてきたっていう地下街のゴロツキの話?」
「それにこだわったことではないよ」

書類に目を落とす。
答えが出ず、誤魔化す。
「Levi」。
ついでにそう書かれた文字に首を傾げた。
なんて読むんだろう。
渡された書類は、彼が先日地下街から連れてきたという人間たちの資料だ。
その単語も、そのうちの一人の人間の名前だろう。
書類を彼に向け、3頁目の最初の段の文字を指さした。

「これ、なんて読むの。誰かの名前? だよね」
「リヴァイ」
「へえ。男の子?」
「男の『子』、という年齢かは分からないがね」
「彼が暴力的で手を焼いてる、わけではないか……」

そこで彼は初めて表情を変えた。
呆れたように苦笑する。

「君に悩みを相談するために呼んだわけではないよ」
「……そこまで自惚れてるつもりはないけど」
「純粋に、ひとりの人間の答えが欲しいだけだ」

暴力を行使するために必要なものの?
私の訝しげな顔に、彼はかすかに表情を緩ませた。
彼は私に正解など求めてないこともわかる。
彼の正解も答えも他人の中には存在しえないのだから。
彼の答えは常に彼の中にある。
彼の判断は彼の中にある。
彼の意志には、他人が干渉できるようなものなどない。
彼にとっての正解も答えも、何ひとつとして他人にはない。
だからといって、それらが悪や反逆だという形で糾弾されることもない。
それとも人類のため、王のため、そう豪語すれば、壁の中では全てが許されるのだろうか。
私には、理解しかねる次元の話だ。

「君の答えは?」

促すような言葉に、一瞬だけ詰まりながらも思考を回す。
言葉を慎重に選ぶように、吐き出した。

「痛みを、知る、とか」
「……」
「次に覚悟とか、えっと、ああ……あれだ、人を人だと思わないようにするとか」
「……暴力自体は、人間に元来備わっている気質だと?」
「う……ん、なんか前に本で見た。なんか精神分析とかなんかで、人間には生の衝動と死の衝動があるって。死の衝動って、攻撃とか、つまり、他人を排除したい衝動でしょ」
「それは怖いね」

微塵も思ってもないことを。
書類をデスクに置き、彼は息を吐き出しながら言った。
私もその行動に倣い、手に持っていた書類を置いた。
彼はそんな私の動作を確認し、要点をまとめるように先ほどの会話をまとめる。

「君の考えはこうだ。人間には先天的に攻撃性がある。それは痛みを知り、痛みを与える覚悟を持ち、対象を人だと思わなくなった瞬間に、暴力は行使される」
「まあ……うん」

補足された部分を自分の中で咀嚼し、頷く。
つまりは、そういうことでいいだろう。

「何故、人に暴力をふるってはいけないんだい?」
「何故って……それは、自分が暴力振るわれないためじゃないかな」
「報復への恐怖」
「誰に対してもふるっていいと思っているなら、今こうしている間にも私はエルヴィンに殴り掛かっているよ」
「殴られない保証は殴らないことに由来するということか」
「それに、なんか、嫌だよね。柔らかくて温かい人間を殴るのって。感覚残る。痛いし。だから、人間じゃないと思いたい。その瞬間だけ」
「その考えでいくと、連続殺人鬼などは、人間を人間と見られなくなってしまっているね」
「でも、自分を人間として扱ってくれる存在がなかったら、そもそもそういう共通倫理的な感覚は培われないよ」

だから無法地帯な地下街では、倫理も一般論も通じない。
あそこは子供ですら身体を売って金を稼いでいると聞く。
幼い頃に自分の身体が金に換金できることを知ってしまったら、もう一般論が通じるような「人間」には戻れないだろう。
それは一種の諦めであり、悟りでもある。
賢く生きるためには、大人になるためには、まず「人間」でいることを諦めなければならない。
世界は不公平なのだと知らなければならない。

「共通倫理、か。一般論と受け取って良いのかな」
「どうぞご自由に」
「では、一般論とはなんだろう」

立て続けに投げ掛けられる質問に眉を寄せる。
彼は書類から私へと、注意の対象を完全に変えていた。

「……多数派の意見、とか」
「ならば、調査兵団は一般論を持たない人間の集まりだ」
「それは質が違うでしょう。巨人から住処を取り戻したいって思ってる人間はたくさんいるし。巨人を恨む人間だってたくさんいる」
「……」
「ただ、力がなければ巨人に敵わないことを知ってる。解ってる。それに、力があったって運が悪ければ命を落とすことも知ってる。誰だって、死にたくない。調査兵団にいる人間は、そこの葛藤をクリアした人間ってだけだよ。憎しみとそこを行動に移すかどうかっていう行動の階層的な問題だよ」
「巨人への憎しみが一般論、か」
「それに、調査兵団に対して死に急いでる印象を持ってる民衆が多いのは事実だけど、誰だって巨人に食われたくないし、死にたくなんかない。生き残りたい」
「本当だろうか」
「そりゃあ、世の中自殺願望持ってる人間がいないわけじゃないけど。その人にはその人の人生と価値観があるわけだし」
「そこではないよ。果たして本当に、生き残りたいと思っているのだろうか」
「……今日はずいぶんとセンチメンタルだね」
「『いっそのこと、あの時食われていれば』」
「!」

死んでいれば良かった

「君はその『足』になって、本当にそう思わない日がなかったのか」

向けられた視線の先にある、自身の足に視線を移す。
1年前の壁外調査だった。
巨人に右足を食いちぎられ、以来右足には義足がつけられている。
巨人に食われた右足の行方は知らない。
あの巨人はもう誰かが殺してしまったのだろうか。
取り戻したって、もう二度とこの足に戻ることはない。
私に足を見た母が悲壮な顔して泣いたことを覚えている。
母のお腹で養われて守られて、無事に五体満足で生まれてきたのに、全く持って親不孝な娘だった。
『これじゃあ嫁の貰い手もない』
そう嘆いた母の顔を覚えている。

右足を失ってからは専ら調査兵団の事務業務に従事している。
戦前からは退いたものの、こうして兵団の仕事をもらえている。
私は恵まれている。
今回、エルヴィンのもとに来たこともその延長線上だ。
イレギュラーな入団をした新兵の書類を整理していた。

「話がだいぶそれてしまったな」
「ああ、最初何の話してたっけ」

暴力の話だっけ。

「君の意見から考えるならば、私の意志は暴力そのものだな」
「は」
「仲間を喪う意味を知っている。知りながら痛みを与える覚悟を持っている。頭のどこかで、兵士たちを犠牲することも厭わない、人だと思わなくなる瞬間がある」
「人間を人間だと思ったまま、犠牲を生むことは苦行でしょうよ。正当防衛でしょう。それに、犠牲を悔やんでいては前に進めない。過去に失われた命全てを清算するには、犠牲を覚悟で突き進まなければならない。って、私に教えてくれたのはエルヴィンでしょう」

その結果、私は自分の部下と右足一本を代償に生き延びたのだ。
――果たしてそこまでして生き延びる価値があったのか。

「でも、兵団の心臓を預かっているのはあなただ。兵団のみんなはあなたを信頼して心臓を託した。好きに使ってくれと」
「有り難いものだよ」
「死んだ兵士たちの血の海に溺れるほど、泳ぎが下手ではないでしょう」

大量の屍に溺れることも、血の海に足を取られることもない。
仲間は彼を信頼している。
彼は仲間を信頼している。
心臓が傘となって降り注ぐ血から彼を守っても、屍が彼を責め殺す雨となって降り注ぐことはない。

「エルヴィン、私は」
――「分隊長、お時間です」

私の言葉を遮るように、ドアの向こう側から声が響いた。
彼の視線は依然として私を見ていた。
喉元まで出かかっていた言葉を飲み下す。
彼はゆっくりと瞬きをした後、席から立ち上がった。

「今日は急に呼び出してすまなかった」
「いいえ。仕事をもらってる身ですし?」
「途中まで送ろう」
「結構。これでもだいぶ歩くの上手くなったんだから。書類を片付けてから帰るから。気にせず先に行って」
「……気を付けて」
「いってらっしゃい、分隊長」

ドアの向こう側に消えた背中を見届け、机に散らばった書類をまとめ、封筒に戻す。
部屋から出ようと立ち上がると、義足の付け根がギシギシと軋んだ。

――雨でも降るのだろう。
家を出るとき、傘を持ってきて正解だった。

気圧の変化で古傷が痛む。
さすりながら立ちあがり、部屋を出る。
途中すれ違った団員の話から、小雨が降り出したことを聞いた。

傘をさす。
頭上に広がる傘布が歪んでいた。
どうやら骨が一本折れてしまってるらしい。
柄をくるくると回しながら、折れた骨の部分を指でなぞった。

「まあ、こんなものだよね」

私の足と同じだ。
折れた傘を差しながら、家路をたどった。


20140206




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