自殺という概念がある生き物は人間くらいだと誰かが言っていた。
生き物は皆、生きるという本能のもと動いている。
「生きる」という現象そのものが死に向かっていると言われるとそうなのかもしれないが、少なくとも今日、死なないために、動物は空腹を覚え、疲れを感じ、眠気に誘われるままに眠る。
いずれ訪れる死は驚くほど確定した未来で、そして途方もなく現実味を欠いている。
だから私は死ぬことは考えない。
だから私は生きているという漠然とした思いすら自覚しない。
明日はひどく曖昧で、そして恐ろしいほど確実に来る。
そしてそこに神様という存在を無視してしまえば、私にとってはすべてが空白なのだ。




「決められた明日ってのは、神様も知ってて回してるもんなのかな」

窓の外を眺めていた彼が言った。
不揃いに伸びた長い髪がうねる。
その表情はここからでは伺えないが、きっと疲れ切った顔をしているのだろうと思う。
その向こう側には、銀色の枠に切り取られた狭い空が覗いている。
いつも、こんな空だった。
叩いたら割れてしまいそうな薄い青を抱え、こちらを見下ろしている。
彼は窓辺に力なく座り込み、長く伸びた髪を風に遊ばせながら再度口を開いた。
独り言のように鼓膜に落ちる音に目を細めた。

「繰り返すことに、厭きるのはまだ早いんだろうな」

サイドテーブルに無造作に置かれた酒瓶やグラスが部屋の中を乱反射する。
流れている雲がそっと翳りを落とした。
彼の白い顎のラインが、力なく項垂れた。
その細い手に馴染んだ刃物を握りしめ、骨ばった指で刃先をなぞりながら、彼はおかしそうに息を吐いた。

「まだ、終わってないんだろうな」

何が。
ふつりと沸いた問を反射的に飲み込む。
長い旅路からこの街に帰った彼に、その道中を多くを背負いすぎた彼に、私のような人間がかける言葉はない。

たくさんの仲間と出会い、旅をして、彼が得た広い世界は、私には途方のない話だった。
その発端であったのは下町の水浸し事件だった。
町の噴水の魔核が盗まれたのだ。
そこから芋づる式に騎士団長の謀反が鎌首を擡げた。
そしてその戦いの結末の遺産は、文明の放棄と人類を天秤にかけた戦いまで呼び込んだ。
どれもこれも、新聞で大きな紙面を飾った事件だ。
今思うと、知らない国の史実を聞いているような気分になる。
しかしそれは確かに現実であり、その結末を迎え、彼は再びこの故郷である下町に帰ってきたのだ。

最初は下町の魔導器の魔核を取り戻すだけの、彼が故郷の手助けをするためだけの遠出だった。
それが世界の問題に発展した。
一体どこのお伽噺だと、彼は嘲るように笑う。
しかしそれらは確かに事実で、魔導器という文明を放棄し生き永らえたこの世界は、再び新しい技術の開発と成長を目指している。
その全てに、彼が讃えられるべき功績がある。
彼の親友も言っていた。
しかし彼は誉れなど受けとる権利がないと首を振った。

彼が町を出て、ここに帰るまでに、どこかの港町の執政官の変死と、どこかの砂漠の町を治める貴族騎士の行方不明があった。
どちらも新聞で見た。
そしてどちらも解決していない。
世界はそれどころではない。
新しい技術と民衆の生活の安定のために、国も騎士団も科学者も、皆が奔走している。
その2件の事件は、今では些細な事件となってしまった。

しかしそれらが、おそらく彼の原点なのだろう。
――彼は、人を殺したのだそうだ。
現実味に描ける告白であった。
だが執政官も、騎手も、確かに手にかけたと、彼は語った。
だが、その二人は民衆から多くの反感を買っていた。
多くの民衆を苦しめていた。
彼のその決断と行動が、人を救ったのだ。
一方で、彼は自身を責め殺した。

「許されちゃいけないんだよ」

「皆が救われたなんて大義名分は都合の良い解釈だ」

「貴族だろうが下民だろうが、等しく罪だと認識されるのが殺しだろ」

「いや、お偉い方は正当防衛だなんだと宣うか」

「結局、法はいつも身分が高い人間の味方だ」

法では裁けない。
裁く必要がない。
法は身分が高いものが都合の良い秩序を手にするための口実だから。
なら、それらに苦しむ弱い人間はどうすればいいだろう。
抗うほどに自分の首を絞める弱い人間はどうすればいいだろう。
彼は、その答えとして自身の両手を差し出したのだ。
彼の親友は、彼を許さないと言ったそうだ。
彼の仲間は、そんな彼を咎めることはなかったそうだ。
全てが終わった今、こうして日常に戻ってきた彼は、その汚れた手を引きずりながら己の在り方に疲弊している。
逃げることも、立ち止まることも、彼は自分に許さなかった。
彼は不義も悪行も裏切りも許さない。
しかし何よりも、彼は彼自身を許さない。
自分で自分を責め殺し、倒れることも苦しみを漏らすことも許さなかった。

「だけどな、死なずにすんだはずの命も、あったんだよ」

ギルドの主の介錯をも、その手に請け負った。
殺したくなんかなかった。
誰だって好き好んで自分の手なんか汚したくない。
奪いたくない。
しかしそれを背負わなければならない。
逃げてはいけない。
引きずって生きていくのだ。
そうして日常が、平生が、彼の首を絞めるなら、そこから離れてしまえば、彼は総てから解放されるのではないのだろうか。
安直な考えだと思う。
それでも抜け出せるならと、私は幼稚な血路を口にした。

「どこか、誰も何も知らないところに逃げてしまおうよ」
「馬鹿言うなよ」
「知らない顔して、知らない場所で、全部放り出して、何もなかったかのように暮らそうよ」
「なんだよ、プロポーズ?」
「絆されるの嫌いの知ってるからそんなつもりないよ」

それ以前に、私をそんな風に見てはいないことも知ってる。
からかうように彼は笑った。
続けて「逃げても『此処』に戻されるだけだ」と付け足した。

「俺が死んだって戻るんだ。逃げたらその瞬間戻るさ」

――死んだことが、あるのか。
繰り返した明日に気が狂いそうだと言った。
同じ人間を繰り返し手にかける明日に吐き気を覚えたと言った。
逃げても逃げても、その繰り返すは簡単に彼を飲み込む。
決められた『明日』が、彼を食い潰す。

「もう、いいよ」

風が、冷たい。
耳鳴りがした。
窓の向こう側で誰かが彼を呼ぶ。
おもむろに立ち上がる彼の横顔に俯いた。

「けじめはつけるつもりだ」
「ユーリ」
「オレにできることを、諦めたらそれこそ無責任ってもんだろ」
「ユーリ」
「まだ、何かできるはずなんだ。何かできたはずなんだ。これはチャンスなんだよ。だから、いいんだよ」
「……」
「お前は、先に行ってていいんだ」

大きな音が辺りに響いた。
同時に眩暈がする。
ばたばたと階段を駆け上がる足音が響く。
また始まった。
始まってしまった。
彼はおかしそうに笑う。
風が冷たい。
水が迫ってくる。
音が聞こえる。
彼が持っていたはずの、刃物が消えていた。

「ユーリ! 大変だよ!」

始まる。
彼は力なく笑った。

「でかい声出してどうしたんだ、テッド」

ほら、あれ。
テッドは先ほどまでユーリが座っていた窓のサッシに身を乗り出した。

「また水道魔導器が壊れちゃったよ!」

何回目だろう。
視界が暗転する。
ユーリは笑っていた。
彼は何度、これを繰り返すのだろう。
同じ事件、同じ旅、同じ戦い、同じ対峙、同じ仲間、同じ展開。
信頼し合った仲間との1からのやり直し、倒した敵との戦いの1からやり直し、解決した事件の1からのやり直し。
彼はその最中で、殺しを犯したときに、繰り返しを思い出すのだそうだ。
彼はその繰り返しを、自分にはやり直すべきことがあるからだと言っていた。
気付いていないだけで、何か、できたはずのことがあるのだ。
それを回収しなければ。
救えるモノを、その手に掬えたはずのものを、折れてしまいそうな腕に抱え直さなければ。
繰り返しは決して終わらない。

いつの間にか戻っていた自室のベッドの上で、ぼんやりと天井を見上げた。

「いってらっしゃい」

彼がまた町を出ていく。
殺してくれと、いつだったか、そう言った彼の顔が蘇える。
思い返せば、あの時が繰り返しの始まりだったのだろうか。
あの時殺していれば、彼はこのループから抜け出せたのだろうか。
あの言葉が、唯一の彼の甘えだということにすら、私は気が付かなかった。

ならば、未だに救われていないものは、ユーリ自身だ。

20130909

※ループする世界とそれを自覚する主人公と毎回ラゴウ殺害時にループを思い出すユーリの話。




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