白澤
*創設期うちは兄弟10代半ばくらい
夢の中に、白い獣が現れる。
私は黄金に輝く草原に立ち尽くしている。夜明けとも、夕暮れとも、どちらともいえないほど眩しく、そして昏い時間帯だった。空は真っ赤に燃えているようで、夜の気配を濃く残した藍色が滲んでいる。遠くからせせらぎが聞こえてくる。
――近くに川がある。その川の直ぐ傍に巨大な樹が立っていることを、私はなぜか知っていた。
その場所がどんな場所で、どんなモノが訪れる場所かを、知っていた。
獣は、私がその姿がはっきりと見える距離までゆっくりと歩み寄ってくる。地面は土と草で覆われているのに、まるで大理石を叩くような、硬質な足音だった。
獅子のような形で、頭に2本、背に4本の角があり、両の目のほかに額と左右の脇腹を合わせて9つの目がある。艶々と美しく磨かれた黒い蹄を持ち、その体躯を覆う毛は光を反射し透けるように真白に輝いている。
美しい獣だ。――だが、とても恐ろしい獣だ。
恐怖と恍惚に縛り付けられ、私は身動き一つできずに固唾を呑んだ。
獣は私の背後へと視線を向ける。金色の虹彩に囲まれた、割れた瞳孔が細められた。
ざわざわと不吉な音を立てて、背後で木が揺れる音がした。
振り返る。
背後には、遠くに感じていた川と巨大な樹があった。
巨大な樹の枝は大きくしなり、地面へと深く深くうなだれている。
枝の先に、首を吊った母の姿があった。
母の罪の重さは知っていた。彼女は地獄に落ちる。それも知っていた。だからこそ。
「識りたいのは、結果ではなく、それを回避するための手段です」
――どうか。
その対価として、私は私の持ち得るすべてを差し出そう。
脳裏に、あの兄弟の姿が浮かび上がる。
初めてできた友人だった。初めてできた繋がりだった。
失いたくはないのだ。
たとえ、それが母の最期の仕事であり、最後に呪った相手だとしても。呪詛が母や私に跳ね返るとしても。
――どうか。
どうか。
▼
茶屋の娘が卓袱台に並べた湯呑の数に眉を寄せた。
とっさに「あと1つ」と言いかけた俺の声を上から塗りつぶすように、ミズハが「大福2つお願いします」と抑揚にかけた声で放った。彼女のその言葉に、俺の隣に座る兄は「食いきれるのか」と、俺の表情を追うように眉を寄せた。
卓袱台には、俺と兄と彼女の前に団子が1皿ずつ並んでいる。
彼女の隣に目を向ける。
まだ、5つにも満たないであろう、幼い子供が通路側に座っている。
修行の帰り、偶然会った彼女とともにこの茶屋へ入った。その時の彼女が手を引いてきた子供だ。彼女も兄も、その子供に言及しなかった。襟合わせが逆で、袂が泥か何かで赤黒く汚れている。……これを見て、兄が「みっともない」とよく怒らなかったものだ。
子供は彼女の右手にしがみつき、大きな黒い眼でじっと彼女を見つめ続けていた。時折こちらに視線を向けては、緩慢に瞬きをして首を傾けた。梟の様な、感情の抜け落ちた動作に、奇妙な不安感――いや、これは、不吉さだ――を覚えた。
彼女が追加で注文した大福が届く。彼女はそれを、自分の隣に座る子供の前へと卓袱台の上を滑らせた。子供は真っ黒な目で、じっと自分の前に置かれた大福を見つめた。
その様子を見ながら、団子を1つ、頬張る。
大福をそのままに、お茶と団子を交互に口にするミズハに、兄が眉間の皺を深めた。
「食べるんじゃないのかお前」
「食べるよ、持ち帰る」
そこで初めて、彼女の隣にいるモノが、人ではないことを理解した。奥歯で噛み潰した団子が、味も触感もないものに変わる。
彼女の隣に座る子供は、梟の様に深く首を傾け、大福を見ている。真っ白な顔には無表情が張り付き、木の枝のように骨と皮だけの手が卓袱台の淵を引っ掻いている。
自分に見えている景色と、兄や一族が見ている景色が違うことを知ったのは、物心ついて少し経った頃だ。きっとそれよりもずっと前から、それは見えていた。ただ、死者を目にするのが当たり前過ぎて、死に対する意識があまりに低かった。
幼い俺は、「死」とは戦場で敗北したものが戦いから外れ、身内からも存在を認知されなくなる罰を受けるということだと思っていた。死んだ兄や一族の者がしばらく集落をうろついている姿をよく見ていた。しかし誰もが彼らに声をかけない。幼いなりに、それに倣っていた。そしてそれが恐ろしいとも感じていた。
それがミズハと出会い、その直後に母が亡くなったことをきっかけに思い知ることになった。
『あれは目を合わせちゃだめなものだよ』
母の葬儀の日、ミズハは死んだ母を見つめる俺の目を覆い、そう言った。
生きているものと死者の境界は、そこにあるのだと。
見えないことはそのまま存在しないことに直結する。それが世界の条理で、人間のあずかり知らぬ存在が決めた掟であると。
『イズナは優しい子だから、神様がよく見える目をくれたんだよ』
見えれば知っていることも増える。知識があれば、それだけで自分の命が豊かになる。いざというときに、自分や周りのものを助けてくれる。そんな知識を得る機会を、目を持っているのは、きっと知識の神様に気に入られているからだ。
ミズハはそう語った。
では、ミズハもそうなのだろう、と当時幼かった俺が言うと、彼女は少しだけ寂しそうに「私は違うかな」と言った。
そういえば、彼女は死者だけでなく、俺たちとも目を合わせない。
彼女の目を見て、話せたことがない。
「食い物を粗末にするな」
露骨に不機嫌になった兄が、低い声でミズハに言った。
注文したにも関わらず、今食べずに持ち帰ると言い出した彼女に、案の定兄は苛立っていた。
うちは一族はまだ比較的裕福ではあるが、この乱世では他の里はもちろん、木の葉の里においても、貧困に苦しむ地域がほとんどだ。一族の次代の頭領を約束され教育された兄にとっては、食事ひとつにも責任を伴うものであったようだ。
「ちゃんと食べるよ」
「俺の目を見て言え」
「やだよ。マダラは幻術かけてこようとするでしょう」
「そんな写輪眼の無駄遣いするわけないだろう」
「はいはい」
ミズハは眉を下げて笑う。
彼女の隣に座っていた子供が、真っ黒な瞳を大福からミズハに移した。
兄は眉間の皺を深めたまま、串に残った団子を2つまとめて荒々しく咀嚼した。
「あ」
座っていた子供が、音もなく立ち上がり、外に向かう。
ミズハはそれに、慌てた様子で財布からお金を取り出し、卓袱台に置いた。
「おい」
「ごめんなさい。お代。ちょっと用事思い出した。先に行く」
「金はいらねえよ。おい、ミズハ」
兄の言葉を強引に振り切り、彼女は子供の後を追って店を出て行ってしまった。
「本当に……唐突なところは昔から全然変わらねえな……あいつ」
「あはは」
「落ち着きがない。大福も思い切り置いて行ってる」
「あとで届けてあげようよ、兄さん」
「いい、ミズハが悪い。イズナ、お前が食ってしまえ」
腰を浮かし、兄は自分の前に置いてある大福を俺の前へと皿ごと移動させた。
先ほどまで団子が乗っていた皿が退かされ、代わりに大福の乗った皿が目の前に置かれる。
彼女はきっと、あの子供に供えるためにこれを注文したのだ。
兄にはあの子供が見えていなかったが、自分には見えてしまった。そのために、彼女の行動の意図と、それ故に兄のこの提案を受け入れることができない。
店員を呼び、懐紙をもらい、それで大福を包む。
「これ、届けてあげよう」
兄は今一つ、納得はいってなさそうだが、俺の提案に渋々頷いた。
そしてひとまずは茶屋を出るため、席を立ち上がろうと、何気なく視線を下に落とした時だった。
卓袱台の下から、あの子供がじっとこちらを見ていた。
一瞬息が詰まる。
背筋を氷塊が落ちた。
卓袱台の影の中で、感情がごっそりと抜け落ちた真っ黒な目玉が一対、こちらを見上げている。聴覚が遠のく。耳鳴りがした。
「イズナ?」
「! あ……いや、なんでもない。早く帰ろうよ」
兄の声で我に返る。
卓の下にいた子供は消えていた。
▼
大好きだったでしょう。
二つ並んだ大福を差し出す。
甘いお菓子で、大きな福、なんて名前。
それを欲しがる子供なんて、自分や母の姿を見ているようだ。
人を呪わば穴二つ。
私と母の分。
それを埋めたいという、生前の母の細やかな願掛け。
昔の話。
正気だったころの母の話。
今日で四十九日を数える。
おそらく死後の裁判は終わっただろう。彼女の魂の行く先は、想像に難くない。それでも死後の苦しみが少しでも和らげばと、願わずにはいられない。
目の前の子供は、無表情のまま、鳥居の手前で私を振り返る。
目を合わせてはいけない。
これは母から教わったことだ。そして、私と同じく、人ならざるものが見えるイズナに教えたことだ。
この見るなの禁を破った先に、自分が会いたいと願う死者がいるのなら。あの兄弟たちが恋焦がれ、願う家族がいるのなら。――それでこの乱世の呪詛や憎しみに終止符が打たれるのなら。
そんなもしもの話、非力な女がひとり、空想したところで何も変えられないとわかっている。
私は目を閉じる。
辺りは黄金の海に変わる。
背後にはあの白い獣が佇んでいる。
目の前には鳥居と、巨大な川が流れている。
川辺には、輪郭がぼんやりと霞んだ人影が佇んでいる。
鳥居は巨大な樹へと変形し、子供の姿は歪に変形し、その枝に吊られる。
枝は大きくしなだれる。
吊られた影は地面に叩きつけられ、どこからともなく現れた無数の手により船に乗せられる。
船はその先の暗がりへと向かう。
吊られた子供は、おとなしく、その船に横たわっていた。
遠ざかっていく船に、両の掌を合わせ、俯く。
乾ききった胸の底から、焼き付くような痛みが湧き上がってくる。それを必死に黙殺しながら、気づかないふりをしながら、押し殺すようにきつく目を閉じた。
「珍しく辛気臭い顔してるな」
「!」
がしっと頭を何者かにつかまれる。
突然の頭部への圧迫感に、心臓が跳ね上がった。
辺りは黄金の海から、見慣れた山の麓の景色へと変わる。
背後には、白い獣ではなく、真っ黒い獣のような男がいた。
「マダラ……」
「何呆けている。お前、大福を持ち帰るとかいって忘れていっただろう」
「あ」
彼の言葉にハッとする。
マダラは私の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
なんとか彼の手から逃れ、ぼさぼさになった髪を整える。
そんな私の反応を見てから、マダラのすぐ後ろにいたイズナが「はい」と懐紙に包まれたそれを渡してきた。
「今日、ミズハの母上の四十九日なんだろう?」
これ、お供え物でしょう?
どこかもの悲し気な笑みを浮かべて、イズナは私が受け取ったそれを見つめた。
――最後の裁判を終えた母を、送り出したくなくて引きずり回してた私を、イズナだけは見えていた。
イズナから受け取ったそれを、母の墓前に供える。少し時間が経ってしまったせいで、大福の皮は少しだけ乾いて固まっていた。しっとりとした白い粉が指先についた。
「ごめんね、私、これ忘れてきたうえに、追いかけてきてもらっちゃって」
「俺はお前の家族を尊重する行動だけは買っている」
「あはは、恐れ入ります、頭領」
「バカにしてるのか」
「私はやっぱり白い神様より、黒い獣の方がホッとするかな」
私の言葉に、きょとんとした表情で二人は顔を見合わせた。
「確かに兄さんは服とか髪とか含めて全体的に黒い……」
「おい、獣って俺のことなのか?」
「気性も……」
「イズナ」
マダラはむっとした表情でイズナの頬を抓った。イズナはからからと笑いながら、その手を押しのけて、私の背後へと身を翻した。
そして「あ」と声を上げた後、懐から包みを取り出した。
「ミズハ、それ、母上の分で注文しただろ? だから、これ、兄さんが」
3人で改めて食べようと思って。
包みの中には練り切りが3つ包まれていた。――沈丁花を模して作られたようだ。それらは3つ、ぴたりと身を寄せ合っていた。
「ありがとう」
胸の底にあるひりついた思いが、じわりと溶けていく。
今は見えなくなった黄金の草原のその向こう、巨大な川を、母だった少女は暗闇に向かって降りていく。
白い獣が私の代わりにそれを見送っていく。
私がそれを追いかけようとした時、マダラの手によって現実に引きずり戻された。
もし、あの時、マダラとイズナが私を追ってこなかったら、どうなっただろう。
乾ききった大福が2つ、墓前で沈黙している。
「帰るぞ」とマダラが私の肩を叩いた。前を歩く二人を追う。そのふたつの黒い影を見つめながら、ひとり立ち去って行った母を思った。
なんだがひどく、泣いてしまいたくなった。
『沈丁花』
――栄光、不滅、勝利、不死。
20210523