陰摩羅鬼 前

 それはまだ幼い、母を亡くして間もないころの話だ。

 鳥居で首を吊った女の姿を見た。
 真っ白で上質な着物を着た女だった。打掛には銀糸で大輪の花の刺繍が施されており、黄金の日を受けてキラキラと揺れていた。解れた髪が、白い布地の上ではい回るように揺れる。
 こんな高価な着物を着ているということは、どこかの大名の娘だろうか。
 深く擡げた首のせいで、顔は見えない。血の気のない無機質で真っ白な肌に、切り込んだような、真っ赤な紅を差した唇が、艶やかに張り付いていた。
 真っ赤な夕日を浴びて、鳥居の影が大きく長く伸びている。影は嫌に黒く濃く、まるでそこにぽっかりと穴が空いているようだった。その影の縁――鳥居の足元に、追いかけてきた毬がひっそりと佇んでいた。
 毬を持って、早く兄とともに家に帰らなければ。
 冷たい風が髪を撫でる。
 鳥居に吊られた白い着物の女は、ぴくりとも動かない。
 ――だが、こんな高価な着物で、こんな山奥の神社で命を擲つ理由は何だろう。どうやってあんな重たいそうな着物を着て、あんな高い鳥居に縄をかけたんだろう。
 あれ?
 毬を拾ったところで、ふと、鳥居の影の間に、その首を吊った女の影が、ないことに気が付いた。
 思わず顔を上げた。
 縊られた女が、吊られたままオレを見下ろしていた。

「イズナ」
「!」

 心臓が跳ね上がる。
 背後にミズハが立っていた。
 ああ、母の四十九日明けに会うのは、今日が初めてだ。一昨日喪が明け、兄と何度か彼女を訪れたが、彼女は家にいなかった。どこで何をしていたのだろう。

「イズナ、こっちにおいで」

 ミズハの顔が強張っている。
 必死に笑みでも浮かべようとしているのだろう。歪に持ち上げた頬と口元が、震えている。
 彼女のそんな顔は、初めて見た。
 いつも奇妙な言動をしていて、異様なものを前にしても動じない彼女が、いつになく怯えているようだった。
 それだけこの白い着物の女は、危険だったのだろう。
 冷たい空気が指先に、頬に、足に、張り付いていく。

「イズナ、こっちにおいで」

 ――全く同じ声が、頭上で聞こえた。
 首を吊った女が、こちらを見下ろしながら、彼女と同じ声で言った。
 途端になぜか、この女がひどく哀れで、もの悲しく感じてならなかった。心臓がぎゅっと何かに掴まれたような、息が詰まるような切なさが去来する。
 背後でもう一度ミズハがオレを呼ぶ。
 オレはそれが聞こえていながら、縊られた女をじっと見上げた。
 ミズハのオレを呼ぶ声が切羽詰まったものになる。
 拾い上げた毬が、指をすり抜けて再び地面に落ちていく。

「行ってはだめ」

 ああ、この女は、もしかして。

 ――「いつまでも戻ってこないと思ったら、ミズハも一緒だったのか」
 「!」

 兄の声が響いた。
 途端に冷えた空気が一瞬で払拭された。

「久しぶりだな、ミズハ」
「マダラ……」
「なんだよ、変な顔して……って何で泣いてんだよ」
「兄さん」
「イズナまでどうしたんだよ、二人して一体……」

 兄の姿を確認した途端、彼女はぼろぼろと泣き出した。
 それにつられて、オレもなぜか、先ほど胸の底に沸いた悲しみが解けて熱が込み上げてきた。
 鳥居には、あの白い着物の女はいない。
 兄はオレと彼女の様子に困惑しながらも、オレが落とした毬を拾いながら、オレの手を引き、彼女に声をかけて歩きだす。
 ミズハが嗚咽で息を切らしながら、途切れ途切れに「ごめんなさい」と、突然泣き出したことに対してか、謝罪を口にした。





「落ち着いたか?」

 夕日に照らされた縁側で、つま先で空を蹴りながら呟くように尋ねた。
 目元が赤く腫れたミズハは、虚空を見つめていた瞳をこちらに向け、眉を下げて口元だけで笑った。視線はすぐに、彼女の足元へと戻された。
 イズナは遊び疲れて、奥の座敷で眠りこけている。
 昼下がりにミズハの家に向かった。しかし家に人の気配はなく、不在であったのを確認して、その付近の神社でイズナの毬遊びに付き合っていた。
 日が傾いてきたところで、帰ろうとした時だ。
 少し強めに蹴った毬が神社の方に飛んでいき、イズナがそれを拾いに行った。イズナがそれを持って戻ってきたら、帰宅しようと考えていた。
 しかし神社の方に向かっていったイズナはすぐには戻って来ず、様子を見に行ったところで、鳥居を前に立ち尽くすイズナと、神社の入り口に佇むミズハを見つけた。
 彼女はオレを見るなり泣き出し、幼いイズナもそれに驚いたのか、つられて泣き出した。何があったのか聞いても、彼女は謝罪を繰り返すばかりだった。このまま放っておくこともできず、まだ日没まで時間もあったので、この間の礼も兼ねて彼女を屋敷へと連れ帰った。
 オレとミズハの間には、丸い盆の上に乗った冷めたお茶と饅頭が沈黙している。

「マダラはすごいね」

 止まっていた時が動き出すような、密やかな声だった。
 彼女は俯いたまま、庭の玉砂利をじっと見つめている。
 冷たい風が夜の気配を運んでくる。

「イズナはきっと、あのままだと行ってしまっていたから」
「……」
「やっぱりマダラは、すごいね」

 要領を得ない言葉に、眉を顰める。
 しかし彼女の表情が暗く重いものであるため、悪態をつくことは躊躇われた。
 ……彼女の奇怪な行動は今に始まったわけではない。それに、この間の件は彼女のその行動が終結へと導いたかのようにも思えた。
 子どもながらに、直感的に理解はしていた。彼女とオレの見えているモノは違う。ただ、それが瞳術で補填されるような、生きた人間に対応できるものなのか、はたまた血継限界のような、特異体質的なものなのかはわからない。――仮に後者だとしたら、それは一般的には理解しがたいものをその目に映していることになる。
 信じられるか。そんなもの。そんなものが見えるなんて、誰が信じるものか。

「マダラが来ると、怖いものはみんな逃げていくんだよ」
「ふうん」
「私、母様以外でそういう人、初めて見た。マダラは、強いね」
「……お前の母親がどんな奴なのか知らねえけど、忍なのか?」
「違うよ」

 ミズハは擡げていた首を持ち上げた。西日が彼女の白い頬を朱色に塗りつぶす。
 緩慢な動作で、彼女は顔をこちらに向ける。――しかし視線はオレの背後へと向けられていた。真っ暗な瞳が、悲し気に揺れた。

「だからきっと、私もマダラに祓われてしまうなあ」

 その言葉の意味を、オレはきっと知ることはないのだろう。
 彼女のその向こう側で、白い影が翻る。――白無垢を着た人影のようなものが、見えた気がした。
 彼女はお茶にも饅頭にも口をつけることなく、その日は帰宅した。
 夕餉前に目を覚ましたイズナが、怖い夢でも見たのか、奇妙なことを口にしていた。

「兄さん、あれはミズハだったよ」
「兄さん、ミズハが呼んでたんだ」
「呼んでいたのに、ダメだってミズハが自分で止めたんだ」
「兄さん、ミズハが鳥居に吊るされちゃうよ」



20210615




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