管狐 結

「死んだね」

髪を梳いていた母の声に、私は背筋が粟立った。
肩まで被った布団に鼻先を埋め、ふと息を止める。
母は長い髪を梳かしながら、鏡越しに私を見た。
鏡の中の目玉は、行灯の赤を宿してぼう、と揺れている。
破れた障子紙の隙間から覗く目玉たちがけたけたと笑った。

「狐は家に憑くから、わからないけど」

――ミズハ、関わったね?
からんと音を立てて、畳の上を竹筒が転がった。
痩せ細った老人の腕のような、草臥れた細い竹筒だ。
筒の中から、無数の目玉がこちらを見ている。
遠くから赤ん坊の泣き声が聞こえた。
しんと空気がはりつめる。
体幹は熱を持っているのに、爪先が冷たい。
思わず息が震えた。
布団をきつく握りしめ、身体を丸めた。

「一匹足りない」
「……」
「依頼人からの預かりモノだから、返さなけれらばならない。……もっとも、ご主人には見えなんだ。数が減ろうが増えようが、わからないだろうけれど」

母が櫛を鏡台に置く。
同時に屏風の縁に枯れ木のような手が置かれた。

「人を呪わば、穴ふたつ」

母はそっと私の傍らに寄り、私の髪を撫でながら言った。
白魚のような手に、温度はほとんどない。
布団の隙間からそっと顔を覗き込むと、窶れた母の顔がある。
隈が深く刻まれ、唇は乾き、頬が痩けている。
行灯の明かりに塗り潰された顔は、無機質なまでに色がなかった。
――こんな生業のせいで。
金も糧も得られる。
しかしその代償は、母自身である。
そんなこと、幼い私にも理解できた。

「一族の長を失脚させてほしい、だなんて。竹筒ひとつ渡す依頼人も、依頼人だけれどね。狐は放ってみたが、逃げてしまうし。結果として誰か死んだのだから、まあこれで良いのでしょう」

母は目蓋を伏せる。
――死んだのだから、良い。
その言葉を咀嚼し、私は背筋が凍り付いた。
良いものか。
良いわけがない。
亡くなったのは、彼らの母なのだ。
彼らの母がどのような人間で、彼らがどう思っていたのか。
少なからず、彼らの親子関係に蟠りがあることは気付いていた――彼らの兄と言う人が教えてくれたのだ。
しかし、マダラもイズナも泣いていた。
大切な家族を失って泣いていたのだ。
母は――彼らの母の死の一端を担ったのだ。
依頼で彼らの母を殺して、金をもらって、糧を得る。
自分がのうのうと呼吸をしていることに、ぞっとした。

なんて汚ならしいのだろう。

汚い金で汚い飯を食っている。
この着物も、布団も、行灯も、屏風も、家も、全て。
全て汚い。
穢らわしい。
私は汚泥を啜って生きている。
いや、むしろ私自身が既に汚ならしい存在なのだ。
――嗚呼、厭だ。
どんなに綺麗な着物を着たって、それが血塗れの機織り機で作られたものなら酷く心地悪い。
柔らかく温かい布団も、それが死者を横たえたものなら酷く気持ち悪い。
行灯の明かりが、人間の油を使っているなら酷く不気味だ。
私はそういう存在なのだ。

やり方が違うだけで、皆同じことをしている。
母はそう言っていた。
理屈はわかる。
だが、罪悪感や嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

殺したのだ。
死なせたのだ。
見殺しにしたのだ。
もう、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
彼らにそれを伝えたくても、伝えるのは怖い。
私にそんな資格はない。
私は穢らわしい存在だ。
私は。
私は。
――丙午生まれの女は、災いを持ち込むのだ。
私は災いを持ち込むのだ。
やはり、私がいけなかった。
私が駄目だった。
私が。

私は、生まれてきてはいけなかった。
そう尋ねるたび母は私を胸に抱き、囁いた。

「私が愛したあの人との大切な宝物。大好きよミズハ」

母様。
母様。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
――マダラ。





四十九日が過ぎれば、家の外に出られる。本当は喪が開けるまで控えた方がいいのかもしれない。だけど、外に出るならミズハに会いに行こう。
礼を言わなければならない。
なんとなくそんな気がした。
具体的に彼女が何かをしてくれたのかもわからない。
しかし彼女が訪れ、母が亡くなり、不可思議な日常は簡単に閉じたのだ。
真っ暗な井戸の底を覗き込むような、そんな途方のない漠然とした不安だけが未だ尾を引いて漂っている。
事の顛末の真相も知らずに、勝手に解決したのだと思っていた。

「兄さん」

イズナに呼ばれて我に返る。
目の前にある墓石と花に、ふと、胃の底から込み上げてくるものがあった。
「帰ろうよ」と、今にも泣き出しそうに口にした弟に、妙に分厚い現実感が足にまとわりついた。
生返事を吐き出しながら、地面に張り出した根を引きちぎるように踵を返す。
その小さな手を取りながら、ゆっくりと帰路を辿った。

「あ」
「なんだ、イズナ」
「ううん」

何に気付いたのか、イズナは振り返っては嬉しそうに手を振った。
それにつられて振り替えるが、何もない。
ただ墓石と冷たい地面が佇んでいるばかりだ。

木の葉が一枚、無為に視界で舞った。



『松虫草』
――不幸な愛、私は全てを失った。


20130526




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