管狐 参

翌日、ミズハを屋敷に呼んだ。
ちょうど父もその日は家に居たので軽く紹介してオレとイズナの部屋へと通した。
文台と箪笥と、行灯と押し入れしかない殺風景な部屋だ。
少女が遊べるような人形や玩具など一切ない。
彼女からしたら詰まらない部屋だろう。
何よりも父もその友人というのを男だと思っていたらしい。
ミズハを見た瞬間、父は不意打ちを食らったかのように呆けた顔をしていた。
家に呼んで遊べとは言ったが、残念なことに飯事ができるようなものもない。
代わりに父からの気遣いで大量の菓子を渡されたのだ。
ミズハはそれを上機嫌で食べながら、優しいお父様だね、などと間の抜けたことを言っていた。
そして食べ終わり、落ち着いて話でも始めようとした頃だ。

不意に障子が開いた。
最初は父かと思った。
だが、全くの見当違いだった。

「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」

母様。
反射的に身体が強張った。
ミズハは笑顔で「お邪魔しています」などと常套句を口にする。
母は、至極穏やかな顔でオレとイズナを交互に見た。
……今日の朝餉では、母は珍しく姿を見せなかった。
父が声をかけても、「ごめんなさい」と答えるばかりで部屋から出てこなかったらしい。
そのせいか、何故だか母がひどく恐ろしかった。

「男兄弟ばかりだから、女の子が喜べるようなものがなくて。ごめんなさいね」
「マダラとイズナと、お話してるだけでも楽しいです」
「ありがとう。――マダラ、イズナ」

母に名を呼ばれ、びくりと肩が震えた。
同時に、名前を呼ばれるのはどのくらい久しいことなのだろうと、ふと考えた。
母の痩せ細った白い手が伸びてくる。
打たれる。
皮肉にも、そう思ってしまった。
「邪魔だ」「うるさい」「やめろ」と、意味のない叫びを上げながら、自分を容赦なく打った母の姿が脳裏を過る。
ただ黙って痛みに歯を食い縛る自分が思い出される。
しかしその手は優しくオレとイズナの頬に触れるだけだった。

「しっかりやっていくのよ」
「!」

手が離れる。
その言葉の意味が、理解できなかった。
母はそれだけ言って部屋を出ていった。
一体、どうしたのだろう。
茫然と立ち尽くしているのは、イズナも同じようだった。
だが、彼女からしたらそれは大したことではないのだろう。
母が去ったのを見計らい、彼女は何の躊躇いもなく布団が入っている押し入れを開けた。
確かに押し入れから目玉か見ていたとは言ったが、こうも行動的に動かれると言葉を失ってしまう。
押し入れを開けた彼女は、中を覗いて「あ」と大きな声をあげた。
まさか、本当に何かいるのか。
慌てて駆け寄って中を覗きこむ。
しかし視界には布団しか映らない。

「なんだよ、何かいたのか」
「うん。逃げられた」
「逃げられたって、おい」

何も見なかったぞ。
眉をひそめると、彼女はオレを押し退けて部屋の障子を開ける。
その手には、いつの間に犬の面が握られていた。

「ミズハ」
「部屋から出ないでね」
「は?」
「うん、ごめんなさい。間に合わなかったかも」
「何の話だよ」

訳が分からず、首を傾げる。
するとイズナが不意にオレの腕にしがみついた。
その顔は青ざめ、怯えている。
小さな手が、あり得ないほどの力でオレの腕を掴んだ。

「イズナ?」
「おにが」
「どうしたんだ」
「鬼」

障子の向こう側を、イズナは指差した。
何もない。
気配も、影も、何もないはずだ。
ミズハが部屋を小走りで出ていく。

「おい待て」

彼女はオレの言葉など聞かない。
廊下を走っていく。
それを慌てて追った。
……今日初めて足を踏み入れたこの屋敷で、何故迷いなく進むことができるのか。
同時に彼女が向かう先に、胸中がざわついた。

母の部屋だ。

普段は父しか近寄らない部屋。
オレとイズナは決して寄らない場所。
怖い場所。
恐ろしい場所。
ミズハはそこに躊躇いなく向かっていく。

そして躊躇いなく、その戸を開けた。
少し離れたところから、イズナの泣き声が聞こえた。
ミズハは力なくその場に崩れ落ちる。
どうしたんだ。
彼女に声をかける前に、オレは部屋の中を見てしまった。
……離れた場所でイズナが泣いている。
見てはいけないものなのかもしれない。
しかし目にはそれが確かに映っていた。
眼前に広がる光景は、ずいぶんと現実味を欠けていた。
部屋の中は、何故だか綺麗だ。
いつもなら、母が癇癪を起こして暴れるために物が散乱している。
だが、その日は何故か何一つ散らかっているものなどなかった。
ただ、奇妙なことに昼であるのに関わらず、布団がしまわれてない。
布団の中心には母がいる。
横になっている。
先ほど、確かにオレたちのところに来たことが嘘のように、母は綺麗に布団の上で仰向けに横になっていた。

――背後でとことこと足音が響いた。

「あっちいけ!」

ミズハが、何もない廊下に向かって、叫びながら犬の面を投げつけた。
足音が遠ざかる。
面は無惨に割れた。
彼女から部屋の中に視線を戻す。

中には、眠るように死んだ母がいた。





衰弱死だそうだ。
明け方に息を引き取ったのだろう。
眠るように死にいったことが、苦痛がなかったことが、幸いだと言っていた。
父を呼び、医者を呼んだ結果言い渡されたものだ。
言われてみれば、ここ数日、母は正気を保っていた割にはほとんど食事をとらなかった。
もともと身体が弱かった。
子供を生んで、長生き自体が難しかったらしい。
だからこれは訪れるべきして訪れたのだそうだ。
天命を全うした。
父は、母の亡骸を抱き締め「よく頑張ったな」「ゆっくりお休みなさい」などと言葉を溢していた。
もちろん、その死をすんなりと受け入れられることもできなかった。
突然過ぎた。
それに明け方死んだなら、オレたちのところに来たのは。
しかしそれ以上に、悲しかったのだろう。

母の葬儀の日、オレはずいぶんと久しぶりに泣いた。
イズナも泣いていた。
あれほど恐がっていても、やはりあの人は母だった。
穏やかな死に顔に、母が父からもらって大切にしていた紅を差した。
精神を病む前の、穏やかで優しい母の顔が其処にはあった。

以来、真夜中に奇怪なことに見舞われることもなくなった。




20130430




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