管狐 弐

夜明けはまだ遠い時間帯だった。
ふとしたように持ち上がる目蓋に、外気の冷たい空気が滑り込む。
すっと冷えていく頭蓋の内側に、意識が冴えていく。
隣では穏やかな寝息を立てているイズナの姿がある。
瞬きを繰り返しながら、緩慢な動作で上体を起こした。
ついでに捲れているイズナの被り布団をかけ直してやる。
僅かに開いた障子の隙間からは、一縷の青白い月明かりが射し込んでいた。

イズナの枕元には、ミズハからもらったという犬の面がある。
月明かりを受けて、その犬歯が鈍く光っていた。

イズナ――というより、彼女と言った方が良いのか、彼女が言った通り、今日の母は調子が良いらしく、ひどく穏やかだった。
帰宅したのが日暮れ後だった。
普段なら癇癪を起してもおかしくはない。
それが今日はなかった。
彼女の発言全てを疑っているわけではないが、信じているわけでもない。
それだけに、なんとも言えない複雑な気分にもなった。
しかしそれ以上に、母に叱られなかったことに安堵している自分がいた。

深く息を吐き出し、せめて夜明けまでは身体を休めようと再び布団の中へと潜り込む。
同時に障子の向こう側で、とことこと軽い足音が響き渡った。

「!」

反射的に横にした身体を持ち上げる。
耳を澄ますが、それっきり足音が聞こえることはなかった。
イズナに目を向ける。
しかし気づきもしなかったのか、起きる気配もない。

――気のせいだろうか。
首を傾げる。
しかし。
忍の、うちはの頭領たる父がおわす家だ。
寝首を掻こうと敵対する忍集団が訪れることは否めない。
だが、それに兄や父が気づかないはずがない。
それとも、今のは家族の誰かが厠の帰りに様子見に来たのだろうか。
忍としての技術が幼い自分には、判断するすべがない。

今一度イズナに視線を向ける。
そして覚悟を決めて障子を開けて部屋を出た。
……父や兄なら、それで済む話だ。
だが、万が一何者かが忍びこんだなら。
そう考えるだけで不透明な不安がシミのように肥大する。
中途半端な不安を抱いて眠れるほど、太い神経を持ち合わせてはいなかった。

息を殺して障子の向こう側に身体を押し出す。
辺りの気配を探るように、音を立てずに廊下を進んだ。

廊下はしんと静まり返っている。
月明かりに青白く不気味に浮かび上がる景色は、自分の家であるはずの場所が知らない場所だと錯覚させた。
音も、明るさも、気配もない。
空気が冷たい。
ひたりと肌に張り付く冷たさに、指先の熱が削がれていく。
だというのに、何故だか握り締めた手のひらや額にはじとりとした厭な汗が滲む。
自分の呼吸音がやけに耳についた。
――そういえば、眠りに就く前はあれほど煩かった蛙や虫の鳴き声がしない。
動物や虫も完全に眠りに就くような、そんな死にもっとも近い時間帯もあるのだろうか。
幼いなりに思考を巡らせ、ひとまず父の部屋を目指した。
父の元に辿り着けば、何故だか事態が無事におさまるという確信があった。

廊下の角を曲がる。

同時に、背後から足音が響いた。

「!」

反射的に振り返る。
何もない。
しかし確かに何かが走り去る音が響いた。
確かに聞いた。
何かいる。
息を呑む。
ぶるりと震えた背筋を叱責し、足音が消えたであろう方向へ向かおうと踏み出す。

「マダラ」
「!」

同時に響いた声に、飛び上がる。
しかしよく聞き慣れたそれに、次いで安堵がじわりと溢れ出した。
訝しげな顔をした父が、其処にはいた。

「こんな夜中にどうした」
「え……」

足音は。
出かかった言葉を飲み込む。
侵入者ではなく、父だったのだろうか。
しかしだったらそんな行動をした意味がわからない。

「どうした、眠れないのか」
「う……うん」

まだ九つでは子供だしな。
父は苦笑しながらオレの頭をくしゃりと撫でた。
燻っていた不安感が、すんなりとなりをひそめる。
意味もなく泣きたくなった。

「イズナが、最近友人ができたとはしゃいでいるらしいな」
「うん」
「良い子か?」
「変な、やつだよ。すごく。……こんな言い方すると父様嫌がるだろうけど、あの噂の、親子の子」
「確か、あの辺りには神社があったな。信仰心の強い家系なら、独特な感性の持ち主なんだろう」
「そうかな。イズナは、すごく懐いてる。姉さんができたみたいだって」
「そうか。なら、今度うちに呼んで遊んだらどうだ。お前もイズナも、喜ぶだろう」

父の目が穏やかに細められる。
「さあもう寝なさい」と、再び頭を撫でられると不思議と眠気がこみ上げてくる。
足音のこともどうでも良くなってしまった。
素直に父の言葉に従い、部屋に戻る。
イズナは依然として眠っていた。
布団に残っている体温を抱えるようにして、その日は眠った。





翌日になり、山へ向かうとミズハは相変わらず花を毟っていた。その姿に躊躇いを覚えながらも、父の言葉をそのまま告げた。すると彼女は手を止め、目を丸くしたあとに嬉しそうに笑った。
イズナもひどく喜んだ。

「マダラのお父様、優しいね」
「普通だろ」
「マダラはお父様大好き?」
「すごく強いんだぜ。一族のみんなから慕われてるんだ。オレたちを守ってくれてるんだ」
「いいなあ」
「お前の父親はどうなんだよ」

特に考えずに出た言葉だった。
しかしオレの言葉に、彼女の顔からすっと感情が消える。
――彼女の口から親の話はあまり聞いたことがなかった。せいぜい母が花が好きだという話くらいか。
だからこそ、好奇心もあったのだ。
今思えば、止めておけば良かったと後悔している。
オレもイズナも彼女の答えを待った。
彼女はぺたりと笑顔を張り付けたあと、いつもの調子で答えた。

「帰ってこないんだ」
「!」
「母様、待ちくたびれてるのに。厭だよね」

何処に行っちゃったのかなあ。
彼女の言葉に、反射的に残酷な答えが喉元をついた。
それを飲み下し、「悪い」と不器用に謝罪をした。
オレたちが母親のことを口にしたくないように、彼女は父親のことをしまい続けていたいのだろう。
――だが。
――そうだ、だとしたら。
――ミズハは何故、オレたちの母親のことを知ったような素振りで話すのか。
イズナが話したのか?
思索を巡らせていると、彼女は笑いながら、話題を変えようと気を使ったのだろう、今日は遊びに行っちゃダメかと聞いてきた。
彼女の足元には、引きちぎられた花弁が無数に散らばっている。

「マダラとイズナのお父様に会いたい」
「今日は戦に出てるからいねえよ」
「なあんだ」
「ねえねえ、僕、ミズハの家に行ってみたい」
「ほんとう? じゃあ来るときは母様に頼んでご馳走作ってもらうね」

だから待っててね。
ぶちりと、音を立てて彼女の手元の花が根ごと引きちぎられた。
ミズハの目は、まるで笑っていなかった。





その晩も、真夜中にふと目が覚めた。
イズナは相変わらず眠っている。
その傍らには犬の面がある。
月明かりが射し込んでいる。
冷たい。
音がない。
奇妙な既視感を覚えながらも、眠ることに努めようと目をぎゅっと瞑った。

同時に、障子の向こう側をとことこと走る足音が響く。
――また。
また父なのだろうか。
だが、今日は父は帰ってこない。
では誰だ。
母か。
体を起こし、障子を少しだけ開けて廊下を覗いた。
何もない。
あるのは月明かりに浮かび上がる暗闇だけだ。

気のせい、と思うことが一番楽なのだろう。
足音は一度だけで、聞こえてこない。
気配もない。
障子を閉めた。
もう寝てしまおう。
イズナが眠っているのに、変に動いてしまって起こしてしまうかもしれない。
布団に潜り、深く息を吐き出した。

同時に、すう、と、引き戸を開ける音が響いた。
反射的に布団から飛び起きた。
心臓がどくどくと煩く鳴っている。
耳鳴りがする。
じっとりと、肌に汗が滲んだ。
だが、障子は開いていない。
気配もない。
気のせい。
気のせいだ。
気のせいに違いない。
必死に言い聞かせ、再び布団に戻った。
目を固く瞑り、息を潜めた。
耳を塞ぐ。
もう、足音など聞こえないよう。

そっと布団から顔を出す。
ほら、なんともないじゃないか。
自嘲気味に笑って寝返りを打った。

押し入れの戸から、2つの目玉がオレを見ていた。





あの目玉だ、と思った。
濁りきった琥珀の虹彩に、黒く割れた瞳孔の目玉だ。
あれが足音の正体だ。

あのあと、結局途中で意識は途切れ、気が付いたら朝だった。
押し入れはやはり少しだけ開いていた。
中を確認したが、特に変わったところはない。
布団を畳んでしまい、閉ざす。
何の篇鉄もない押し入れだった。
朝餉の席で、兄と母にそれとなく昨日の晩に何か変わったことはなかったか尋ねてみた。
しかし返答は予想通り、何もないとのことだ。

そんな日が何日も続いた。
夜中に目が覚める。
足音が聞こえる。
しかし、気配はない。
すると戸が開く音が聞こえる。
押し入れから、何かがこちらを見ている。
それを確認すれば済む話だ。
しかしオレはその目玉を見た後に眠ってしまうのか、意識がいつも途切れている。
その繰り返しで、眠っても疲れがとれない。
小さな物音に神経質に反応してしまう。
疲れる。
頭が重い。
身体が怠い。
苛々する。
家族に相談するにも、これではオレが気を違ったようだ。
オレもまた母と同様に弱いことになってしまう。
詰まらない矜持が、均衡を保っていた。

――だが、そういえは、最近母は正気でいることが多い。

彼女から犬の面をもらってからだろうか。
あれは本当にお守りとして働いているのだろうか。
ふと。
真夜中の怪の相談相手に彼女のことが浮かび上がった。





「狐、お母様からマダラに移ろうとしてるのね」

花を毟っていた彼女が言った。
ここら一帯の松虫草は、もうほとんど花を散らされている。
彼女は手を止め、オレの顔をまじまじと見た。
イズナが不安げにオレと彼女を見ている。

「ねえ、見てもいい?」
「何を」
「狐」
「だから狐って、なんだよ。いねえって言ってるだろ。第一見てない」
「だから、その目玉、狐だってば」
「見てないだろお前」
「でも狐だよ」
「ふざけるなよ」

ふざけてるのか。
再び花を毟る作業を再開した彼女に舌打ちをする。
見てもないのに狐だと何故決めつけられるのだ。
同じ目にあったわけでもないのに。
だんだん腹が立ってきた。
勝手なことを云うな。
じゃあオレは動物に怯えているのか。
それだけのために眠れないでいるのか。
怯えている?
それではまるで弱いみたいだ。
ふざけるな。
弱いのは母だ。
オレは弱くない。
正気だ。
強くなければならない。
弱いだなんて許されない。
怯えるなんてダメだ。
そんなことは許されない。
お前に何がわかるんだ。
オレの何がわかるんだ。
勝手なことを云うな。
第一言っている意味がわからない。
言葉が通じない。
狐ではないと言っているんだ。
そんなものにオレは怯えない。
相談して失敗だったか。
何故だか無性に苛立つ。

「兄さん」
「訳のわからないことばかり言うな。だからバカにされるんだよ」
「兄さんってば」
「イズナは黙ってろ」
「落ち着いてよ」
「女のくせに好き勝手言って命令するなよ」
「マダラ」
「うるさい」

思わず大声が出た。
腹の底が煮えている。
むしゃくしゃする。
耳鳴りがする。
気持ち悪い。
暑い。
寒気がする。
彼女は顔色ひとつ変えずに、オレを見上げている。
それが余計に感に障った。
思わず掴みかかろうとしたところで、イズナが視界に入る。

イズナが泣き出しそうに顔を歪めた。

「兄さん、母様みたいだよ」

恐いよ。

その言葉に、急激に頭が冷えた。
無意識に強張っていた肩から力が抜ける。
イズナがぼろぼろと泣き出した。
ミズハがそれを宥めている。
オレは。
オレは何をやっているんだ。
惨めさと情けなさが目蓋に滲んだ。
自己嫌悪か喉を突く。

「マダラ」
「!」

ミズハがオレを呼んだ。

「管狐、追い返そうか」

壊れてしまわぬよう。
彼女の指がくしゃりとオレの髪を撫でた。
物悲しい花の香りがした。



20130428





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