管狐 壱

小さな指が松虫草を引き千切った。
青々としたか細い茎が、糸が切れたように力無く項垂れる。
花を労わる、という表現もおかしいかもしれないが、女がそうも無造作に、可憐さの欠片も見せずに花を手折る姿というのも、見ていて気持ちの良いものではない。
この年の少女ならば、まるで割れ物を扱うかのように花を摘み、無為に髪に飾ったり集めたりするものだ。
女は花を愛でたがるものだと思っていた。
しかし目の前で行われているのは、純粋に花を引き千切ってはその辺に放るという無意味で残酷な所業だ。
信心深いか、或いは寺社仏閣の敷地内に咲いてるものを同じように扱ったりしようものなら、間違いなく罰当たりな行いだろう。
此処が所有者のない山地の草原だからこそ、咎めるような人間がいないだけだ。

土の湿った匂いと草花の青い匂いに無為に頭上を見上げた。
朱色の空に藍が滲みだしている。
晩夏に差し掛かったこの時期は、日が傾き始めると暑さは嘘のようになりをひそめる。
濃く深く伸びていく影法師が、明かりも温度も食い荒らしていくようだった。
……こんな時期なら尚更、放っておいても草花の命は枯れて朽ちていくだろうに。
わざわざそれを引き千切るようなことをする理由がわからない。

琴をでたらめに弾くような蜩の鳴き声が鼓膜をひっかく。
もうじき帰らなければ。
夕餉の刻に遅れると父と母が怒る。
先ほどから彼女の行動を倣うように花を引き千切っている幼い弟を見やった。
遠くから響いている蜩の鳴き声が、いっそう強く悲痛に辺りに響き渡った。

「イズナ」

随分と黙り込んでいたせいか、妙に怠い舌を動かして弟を呼ぶ。
弟は丸い目を大きくし、こちらを振り返った。
小さな右手が淡い紫の花弁を握っている。
その幼い手のひらの中で、音もなく散るそれを眺めているとため息が出た。
その傍らで、ミズハが尚も無言で花を毟り続けている。
……感化されなければいいが。
そんな小さな懸念を抱く自分に、倦怠感を覚えた。

――気味の悪い娘がいる。

ここらの集落では有名だった。
山の麓の、神社の傍らの屋敷に住む親子の噂だった。
どこからどうそんな噂が流れて、自分の耳に入ったのかは覚えていない。
ただ、一族の女たちの会話だったようにも、戦から帰ってきた兄からだったようにも思える。
もちろん噂という時点でさほど鵜呑みにはしてなかった。
父や母もそうした淘汰的な噂を嫌っている。
その話をむやみやたらに口にした兄が、父に叱られるところも見た。
戦乱の世とはいえ、情に厚いこの一族なのだ。
敵でもない近隣の村に住む親子を差別することは芳しくない。
倫理的にも人道的にも、それがごく当たり前と言えばそうだろう。
しかし戦争は、人の不満も苛立ちも疲労も、澱のような感情を沈殿させていく。
その掃け口として、些細なことをきっかけに標的が選び出されることもある。
それがその親子だっただけのことだ。

本当に――くだらない。

素直な感情がそれだった。
しかしそれも全て他人事だから思えることだ。
こうして当人を前にすると、複雑な気持ちがあることも事実だった。
花を引きちぎっているミズハの横顔をそっと視界の片隅に入れる。

きっかけは、幼い末の弟のイズナだった。
戦争では、使える戦力を最大限に出さなければ勝利など得られない。
幼い子供もまた戦力となる。
そろそろ忍術の修行もつけ始まってもいいだろうと、父に言われて弟をこの山に連れ出した。
もともと組手まがいの遊びはよくしていた。
今更改まって体術を教えることもなかった。
イズナもじゃれ合いの延長線だと思っていたのだろう。
オレも深く考えず、弟を連れてきては家での遊びと大して変わらないようなことをしていた。

初めて山に連れてきた、その翌日だったろうか。
山に行った際、イズナはオレが目を離したすきに見事に迷子になってしまった。
そんなイズナを助けたのが噂の当事者であるミズハだった。
何事もなかったような顔をして、見知らぬ少女と現れたイズナに怒りと安堵の感情の飽和に耐えきれず怒鳴ってしまったのだ。
当然のごとくイズナは泣いた。
それを慰めたのも彼女だった。
以来イズナはミズハに懐いてしまった。
彼女自身はというと、年の近い友人は嬉しいと素直に喜んでいた。
その時こそ噂は所詮噂だと気にはしなかった。
だが、彼女には確かに奇行が見られたのだ。
……火のないところに煙は立たないとはまさにこのことだ。
現に彼女はこうして花を摘むのではなく毟っている。
家に持って帰って母親に見せるわけでもなく、ただ千切って捨てているのだ。
他には誰もいないところで鞠を放ってひとりで話し続けている姿を見たことがある。
挙句ひと月前に死んだ行脚の男と昨日会ったと言っては笑った。
噂が立つわけだ。

しかしミズハ自身、それを除けばごく自然な少女だった。
年も聞いた限りではオレと同じらしい。
イズナは姉ができたようだと言って喜んだ。

「イズナ、帰るぞ」

緩慢な動作でそちらに近づき、しゃがみこんだままのイズナの腕を引っ張った。
そこでやっとミズハの意識がオレに向いた。

「まだ明るいよ」

言ったのはミズハだった。
確かに日は沈みきっていない。
しかし沈みきる前に家に着かなければ意味がないのだ。
イズナも彼女を倣って「まだ明るいよ」などと反芻する。
苛立ちに近いものがこみ上げ、それを押し殺すように低い声音で言葉を紡いだ。

「父様に怒られる」
「……」
「夕餉に間に合わなくなるぞ」

母様だって。
出かかった言葉を飲み込む。
ふつりと胃の辺りが不快な熱を持った。
それを押し殺しながら今一度帰ると繰り返す。
するとオレが言わんとしていることを察したのか、イズナは幽かに顔を歪めた。
そこでぼんやりとオレの顔を眺めていたらしいミズハが再び口を開いた。

「今日は大丈夫だって」
「!」
「だからもう帰った方が良いよ。たぶん今日はいないみたい」

その発言に眉をひそめる。
彼女の奇行のひとつだ。
突飛もなく発せられる意味の分からない発言には、慣れてはきている。
脈絡も趣旨もまるで読めない。
こいつの言うことはまるで理解ができない。
いちいちまともに相手をしていたら、体力を殺がれるだけだ。
しかしイズナは、何故かそれを読み解くことができているような素振りをする。
幼さゆえ、単に言葉の響きを楽しんでいるだけなのだろうか。
それとも、ふたりで何か結託しているのだろうか。
彼女が大丈夫だと笑いながら言うと、イズナは喜んだ。
そして握りしめていた松虫草を放り、代わりにオレの手を握った。
さっきまで花を握っていた小さな手は、妙に生ぬるい。

「お前ももう帰れよ。暗くなるぞ」
「うん。でも、明るいから大丈夫だよ」
「だから、もうすぐ暗くなるから帰れって言ってるんだよ」
「うん」

うん、じゃない。
イズナがオレと手を繋ぐのを合図に、彼女は再び松虫草を毟り出した。
風がいよいよ冷たくなってくる。
日がだいぶ傾いてきた。

「知らないからな。オレたちは帰るからな」
「うん」
「……迷子になっても知らねえぞ」
「大丈夫だよ」
「!」

言ったのはイズナだった。
思わず目を見張る。
イズナはオレの手を引き、彼女に「またね」と手を振り帰路を辿り出す。
彼女もそれに「また遊ぼうね」と笑って返すだけだった。
妙な疎外感を感じながらも、踵を返して家に向かう。

その道中で、ふとイズナに尋ねた。

「なんであいつの言うことよく聞くんだよ」

大丈夫ってなんだよ。
母の顔が脳裏を蘇える。
何が大丈夫なんだ。
何も大丈夫なことはないだろう。
母様は今日も食事を作って待ってる。
遅れたりしたら、また癇癪を起すかもしれない。
甲高い声でわめき散らす母の顔が去来する。

――母は、長男と二男にあたる兄が死んで以来、精神を病んだ。
もともと身体が弱く、伏せることが多かった。
それが肉体のみならず、精神までをも病んでさらに伏せることが増えた。
いくら戦争とはいえ、立て続けに子供を喪ったことに耐えられるほど、あの人の心は強くなかったのだ。
以来突発的に癇癪を起すようになった。
夜中に唐突に泣き叫ぶこともあるし、ひどく些細なことで怒鳴り散らすこともある。
物に当たることもあり、居間の障子や襖は何度も何度も破れては張り替えている。
そしてひどい時はそれが暴力へと悪化する。
オレ自身、何度か叩かれたことはある。
イズナも。
母自身の体力が落ちきっているため、怪我に発展するほどのものにはならない。
しかしそれはそれで幼心は深く傷付くものだ。
以来イズナは母を恐れるようになった。
普段は父がいるからこそ事態は易く収集する。
母がどんなに暴れても、父が幻術で眠らせてしまうからだ。
しかし父が戦場に出てしまっている時、家で母と共にいることはひどく恐ろしかった。
――怒らせてはいけない。
――悲しませてはいけない。
――弱い母を、守らなければならない。
そう思わなければ、あの人の傍らにはいられなかった。
特に食事――夕餉の時がそうだった。
あの人は家族で食事を取ることに異様な執着を持っていた。
体を病もうと心を病もうと、台所に立つことだけは止めなかった。
だから少しでも時間に遅れようものなら、母は怒った。
泣き叫び、暴れた。
まだ幼いオレたちに、あの人を止める力はない。
ただ、それだけの話なのだ。

イズナは黒い瞳を瞬かせた後、まるで良いことを思いついたように答えた。

「兄さんも母様が怖いんだね」
「そうじゃなくて」
「ミズハね、わかるんだって」
「は?」
「母様、怖い時は狐がそばにいるんだって。わかるんだって。でも今はいないんだよ。だから母様、今日は恐くならないって」

良かったよねえ。
ふにゃりとイズナが笑った。
狐などと言う訳の分からないことを言うなど、彼女らしい。
しかしそれでイズナが納得して家に帰れるなら、それはそれで良いことなのだろう。

「あとね、これ、お守りなんだって。もらった」
「?」

イズナが着物の袂から何かを取り出す。
どうやら面のようだ。
これは。

「犬の面?」

簡素な造りの犬の面だ。
顔の部位を描いた塗料は、ところどこと剥がれている。
だが、口元の牙らしきものは本物の犬歯を埋め込んだように見える。
こんなものが、いったい何のお守りになるというのだ。



20130428




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