青行燈――語り手


鬼を談ずれば怪に至るといえり。


ひどく眠かったのだ。
肩にずしりとのし掛かる布の重さに目を細める。
施された化粧も、見せるための白無垢も、どうにも荷が重い。
しかし母が囲炉裏の傍らで嬉しそうに笑っているのだから、私は笑みを作らねばなるまい。
母は腕に嬰児を抱いている。
あれは――誰との子供であろうか。
ただはっきりしているのは、私の妹か弟になるであろう血を半分引いていたことだ。
青白い顔をした赤子だ。
黒い目玉が、ぼう、と揺れて母を見上げている。
次いで私を見る。
――厭だな。
口には出さずに、茫洋と呟く。
なんだか鼻の形があの男に似ている気がする。
彼奴は嫌いだ。
彼奴はあの子を――記憶に違いがなければ、私に懐いていた近所の男の子を、確か打ったのだ。
打つだけでなく、何か、酷いことをしたとも聞いた。
あの子の兄が怒っていた。
そんな奴だ。
母も彼奴と好きでまぐわったわけではあるまい。
母は寂しかったのだ。
家を空ける父の帰りを待つことに疲れていたのだ。
窶れ、痩せ細った枯れ木のような母の肩を思い出す。
待てども待てども、父は帰ってこなかった。
戦争に巻き込まれて死んだとも、私たちを捨てて逃げたとも、新しい女を見つけて去ったとも、周りの人間たちには言われてきた。
だから諦めろと。
母は、諦めきれなかったのだろう。
それだけだった。
だって父は母を愛してくれてた。
しかし彼奴は金をくれただけじゃないか。
ふつりと、腹の底で熱がうねる。
下卑た笑いを浮かべながら金を出して、母を貪った男の顔が灰汁のように浮かび上がる。
――厭だな。
ひどく汚い。
そんな汚れたものでモノを食い、着物を買い、この家で育ったのか。
汚泥を啜って生きてきたようなものではないか。
買った着物も帯も簪も下駄も、皆綺麗なものばかりだ。
この白無垢さえも、もしかしたら汚いもので得たのかもしれない。
確か、桜は根本に埋まる死体で花を染めると聞いた。
この生活とそれは、限りなく近いものではないだろうか。
――本当に、厭だな。
嬰児に男の顔が重なり、苛立ちがこめかみをなぞる。
途端に、赤子は火がついたように泣き出した。
猫のような泣き声だ。
随分とうるさい。
そんな声が、はたして人間の声帯から紡がれるのだろうか。
母は笑っている。
そして一定の間隔を刻みながら、とんとんと赤子の背を優しく叩いている。
視線は依然として私を見ていた。
かあさま。
私は乾いた舌を動かして母を呼んだ。
母は小首を傾げて私を見ている。
その静かな笑みは、昔の美しく穏やかな母の顔そのものだ。
どこか満足げに細められた目が、私を見て瞬く。
……やはり、正しかったのだ。
あの日母は笑っていた。
帰ってきた父の背に凭れ掛かり、笑っていた。
あんな男など、やはりさして重要ではなかったのだ。
かあさま。
もう一度母を呼ぶ。
母は赤い唇で綺麗な弧を描いて見せた。

「呼んでいたのよ」

ずっと。ずうっと。
母は嬰児から手を放した。
ゴトンと鈍い音を立てて赤子の頭が畳に転がった。
泣き声が止む。
いや、最初からそんなもの聞こえていなかったかもしれない。
畳に転がっているのはしゃれこうべだ。
真っ白な頭蓋骨の眼窩は、途方のない影を孕んでいる。
暗闇が私を見ている。

「あの人、どうしようもないから。私の代わりに」

母がゆっくりとした動作で立ち上がる。
その動きに、頭蓋骨から視線を母に戻した。
母の着物が、下腹の辺りが真っ赤に染まっている。
母はまるで滑るように畳の上を歩く。
音も立てずに襖を開ける。
襖に描かれていた鶴の羽が裂けた。
どこからか赤子の鳴き声が聞こえ始まる。
それに重なるように、鳥の鳴き声のようなものも聞こえてきた。
煩い。
ひどく煩い。

「呼んできてくれないかしら」

外で猫も鳴いている。
鈴が鳴っている。
赤子が鳴いている。
鳥が鳴いている。
足音が聞こえる。
話声が聞こえる。
読経が聞こえる。
――どうにもうるさい。
部屋の中に滑り込んできた空気が肌に張り付く。
べったりと湿度を孕んだ生ぬるさが気持ち悪い。
母が開けた襖の向こう側にもうひとつ、襖がある。

母はそれを開けた。

その向こう側に、首を吊った母の亡骸がぶら下がっていた。
母はそれを見て恍惚と笑い、「来た」と呟いて消えた。
ふと気が付くと、首吊り死体の傍らには骨が転がっている。
ああ、父がやはり帰ってきたのだ。
私も早く、準備をしなければ。



20130428




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