目を抉る


「死」に対する憧憬というものは、誰もが持ち得るものだ。
その先にある未知を求める好奇心は、幼子が母に疑問を訪ねるような無邪気ささえある。
形も輪郭もない世界に手を伸ばす。
その向こう側に『あの人』がいるならば、私は落ちていくことすら厭わない。




後頭部に感じる硬質な冷たさに、鉛のように重い瞼を持ち上げた。白く褪せた蛍光灯の光が、瞳孔を貫くように視界を埋める。ガタンと大きく揺れた鉄の匣の中に、次は終点だというアナウンスが流れた。左右に長く伸びる椅子には、人の気配はない。傍らに無造作に横たわる自分の荷物を抱え直しながら、車体が止まるのをぼんやりと認識した。
――降りなければ。
乗り換えなければならない。直通の電車があれば楽なのだが、この時間帯になってしまうとそれもなくなってしまう。体の芯に纏わりつく倦怠感を無理やり剥がすように体を起こした。

肌に張り付く冷気に、足を引きずるように電車を降りる。右の手のひらに食い込む重みに、気だるさを覚える。足がひどくだるい。
買い出しのために外出したのはいいが、雨に降られ、不意打ちにも知人に合い、思いのほか重く感じる荷物のせいか、すっかり疲労してしまった。
ホームに響き渡る乗り換え案内のアナウンスに耳を傾た。……乗り換えの電車まで、まだ少し余裕がある。あと20分。そう頭の中で呟き、ベンチを探した。電光掲示板の灯りを頼りに、ガランとしたホームを歩く。荷物を持っていることもあり、とにかく座りたかった。今一度荷物を抱え直す。
そうして辿り着いたベンチに、ゆっくりと腰を下ろした。

座った途端にどっと溢れてくる疲労感が思考を包む。
薄い膜に包まれたように、不透明に曇る意識に目を一度瞑る。
きりきりと胃が痛んだ。
どろついた熱を持つ胃酸が食道を執拗に撫でる。
吐き気に限りなく近い胃痛に、唇を噛んだ。
それを誤魔化すように、荷物を抱え直した。
じっとりと滲みだす眠気に、深く息を吐いた。

早く電車は来ないだろうか。
……本当はもう1本早い電車に乗るつもりだった。しかしほんの1分2分の差でこの時間の電車になってしまった。
思考にべったりと張り付いた眠気を噛み殺しながら、再度時計を見ては深く息を吐き出した。

「やっぱりケーテだ」
「――!」

聞こえた声に肩が震えた。
聞きなれない声だった。
それとも、疲労感と眠気で思考が回らないだけだろうか。
斜め後ろに気配がある。
誰だろうか。
気持ち悪い。
動きたくない。
顔を上げるのも億劫だ。
しかし名前を呼ばれたのだから知り合いに違いない。
緩慢な動作でそちらを見る。

無機質な蛍光灯の色に照らされた白い顔が、そこにはあった。

「Nくん?」

数日前に聞いたばかりの名前を、確認するように口にした。
照明のせいか、やたら現実味に欠けるその姿に意識がぶれる。
古いモノクロの映画を見ているような錯覚さえした。
作り物のように見える彼の横顔に、昼間会ったアクロマさんの顔が重なる。
今日は妙に顔見知りと会う。
別に嫌っている相手ではない。
だが、それでもどうしても誰にも会いたくないという日はある。
胃の底で燻る熱を抑え込むように、笑みを張り付けた。
存外巧くできていた私の口はするすると言葉を続ける。

「偶然だね。まさかこの間会ったばかりの人に会うなんてびっくり」
「そうだね。……ずいぶんと荷物を持っているけど、買い物の帰りかい?」
「うん」

そう、と味気ない返答を口にした彼は帽子をかぶり直した。
……髪の色が。
そうだ。
N君は髪の色がゲーチスさんと同じなのだ。
何故か奇妙な焦燥感に駆られた。
不安とも恐怖ともつかない。
とにかくその感覚は厭だった。
そんな私の内面が、おそらくは顔に多少は出てしまったのだろう。
彼は影の中にある青い瞳を細め、眉を寄せた。

「顔色が悪く見えるよ」
「久しぶりに出歩いてこんな時間になったから。ちょっと疲れているだけ」
「次に来る電車で帰るのかい?」
「そうだよ。ほんとはもう1本早いので帰るつもりだったんだけどね。こんな時間になっちゃった」

適当に自嘲的な笑みを浮かべながら話す。
何も嘘を言ってるわけではない。
しかし妙に落ち着かなかった。
まだ電車は来ないのだろうか。
もうすぐ列車が来るだろうか。
彼もその電車に乗るのだろうか。
ホームにある備え付けのアナログ時計を見上げる。
同時にアナウンスが耳朶を打った。
それに重なるように、私は問を口にする。

「N君は、どうしたの」
「!」
「何か、用事の帰り?」
「そんなところかな」

曖昧に笑った彼は「来た」と言って私から視線を外した。
彼は私から離れ、白線の内側ギリギリの位置に立つ。無邪気な子供さながら、少し身を乗り出して遠くを眺める背中に苦笑した。「危ないよ」と声をかけながら、私はベンチから立ち上がった。身体がやはりひどく怠い。気持ち悪い。動きたくない。しかし電車に乗らなければ。

「たぶん、途中まで一緒だろ?」
「!」

僕かキミが降りる駅まで。
付け足された言葉に、彼が同じ電車に乗ることを確認した。同時に、妙にそれに居心地の悪さを覚える私がいる。
それを振り払うように、その背中を眺めた。

「なんだか体調悪そうだから途中まで送っていくよ」

そんなことしなくていいいよ。
そう告げようとした唇は、何故か閉ざされた。
代わりにふつりと芽を出した考えに、目の前がくらりと揺れた気がした。

――同時に私は自身の中で首を擡げた考えにゾッとしたのだ。

間入れず列車が目の前に滑り込んでくる。N君の萌黄色の髪が大きくうねり、風に踊った。
女声のアナウンスと共にドアが開き、中から数人降りてくる。真横を通り過ぎていく、人の気配を感じながら、私は彼に呼ばれて慌てて乗車した。思いのほかガランとした車内に、「この時間は空いてるね」と言う彼の声が聞こえた気がした。
適当に空いている席に座る彼の隣に腰を下ろす。注意が足りず、座る際に荷物が手を滑った。

「大丈夫かい」
「ああ、うん、平気」
「買い出しに来たってことは今日は休日だったんだろ? ずいぶんと疲れているね。普段はどんな仕事をしているんだい?」
「……」

その言葉に、胃が引きちぎれるような痛みを感じた。
人がほとんど乗ってないにも関わらず、膝の上に抱えた荷物を抱きしめた。
彼は邪気のない仕草で首を傾げる。
私は曖昧に「大したことはしていない」と返した。
ゴトンと鈍い衝撃と音を伴い、鉄の匣は動き出す。少しずつ加速していく列車の揺れに微睡みを覚えながら、窓から見える景色を眺めた。

想像してしまった。

網膜には白線に立つその背中が焼き付いて離れない。
あの薄い背中を外側へと押し出したら、どのような光景を手に入れられるのだろうかと。
黒い感情を嚥下した。

――例えばあの背中を突き落としたとして。
その先の結末が死、或いは、死に限りなく近いものだったとして。
その細い肢体からは赤が飛び散るのを空想する。肉片、血液、ついその瞬間まで生きていた体、それが人から肉へと変貌を遂げる瞬間だ。皮膚を突き破った骨。そこから覗く内臓。ドロドロと流れる、赤黒い塊。濃厚で粘着く朱色の匂い。肌に張り付く、血生臭い、死の匂い。
白い肌を染める、折れ曲がった真っ赤な色。

それはまるで、折れたアネモネの花のようだ。
地下に咲くそれは、きっとどんな赤よりも美しいのだろう。
歪んだ衝動に視界がぶれる。自身の奥深くに眠っていたモノが下卑た嗤いを上げて顔を出す。

同時に、漸く思い出した。
彼が訪れなくなった理由を、私は誰よりも知っているはずだった。
暗い井戸の向こう側から、這い出るように去来する記憶に息をひそめた。
広いが薄く細い背中だった。
触れた手のひらに肩甲骨のごつりとした感触が蘇える。
手の甲を撫でた柔らかい髪が蘇える。
彼は私を振り返り、穏やかに笑って見せた。
私は彼を。

私はあの日、彼を突き落としたのだ。



20130426




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