目を覆う

音もなく目蓋を撫でる水泡に、私はふと視界に映る白を認識した。いや、私はおそらくずっと其処にいたのだ。ただ、それが白であることを知らなかった。まるで、その瞬間に自分が生まれたかのような不可思議な感覚だった。人間の乳幼児とは、果たしてこうやって事象を認知していくのだろうか。真新しく視界に映るものへの既視感に、またひとつ、水泡が浮き上がる。
そんな奇妙な離人感に、網膜は水を流し込まれたように視界を揺らがせていた。

「わたし」の体はゆっくりと爪先から沈んでいく。辺りに明かりはなく、色もない。無彩色の世界は白く溶けて意識を攪拌する。傾いていく白に、身体は緩やかに虚脱していく。
そして、深海魚のように足元の影に向かった。そこに私の意思はない。遠ざかる明るみに、ゴポリと水泡が弾ける音が耳朶を撫でる。途端に視界は暗転した。唇からは酸素が泡となって光の束に向かう。四肢には水が絡み付き、更に深く暗い場所へと意識を手招いた。
おそらく苦しくはなかった。これは夢であると、私は認識していたのだ。

どこか暗い海の底に向かうの体は、次第に水圧に押し潰され、細く小さくなっていく。爪は剥がれ、皮膚が剥離し、肉は溶けていく。手のひらにある5本の指は肉が抜け落ち、半透明の白い糸のような影だけが残った。頭を残して、体は透き通った糸のような影に作り替えられていく。痛みはない。体はどんどん軽くなっていく。水圧によって体から肉が削げていく感覚は、重い荷物を1つずつ手放すような解放感があった。

やがてヒトの殻が完全に抜け落ちた「わたし」は、大きく身を震わせた。周りの水を体で打ち、大きく前進する。白く半透明の、最早肉体ですらないゼリー状の体が海底に向かう。無数の足とも触手とも、糸とも取れる下肢が揺れた。

光の束が遠くでクスクスと笑っている。
いつかはその殻も死に絶える。体は潮水に徐々に融解し、跡形もなく溶けて消えていく。
「わたし」が生きた事実そのものも、海の中で融解するのだ。

しかしそれは、たいそうたちの悪い倖せである。




重たい目蓋を持ち上げ、小さく息を吐き出した。
意識に絡み付く眠気に、ゆっくりと瞬きをした。
身体が怠い。
全身に水圧が絡みつき、暗く深い底に縫い付けられているような重たさだ。
身体を動かすことがひどく億劫になる。
緩慢な動作で寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。
肺の空気を全て絞り出すように、ゆっくりと大きく息を吐き出した。

最近、奇妙な夢をよく見る。
いや、最近とは言っても、ずっと前から見ていたような気もする。
ただ、その夢を見ていると自覚するようになったことが最近なのだ。
その夢を見るたび、奇妙な陰鬱さに似た感覚が、意識の片隅に埃のように降り積もっていく。厚みを増すそれらに、判断力も思考力も曇り、鈍くなっていくような感覚さえ覚えた。
深く暗い、見えない底に落ちていくような、其処を漂っているような、そんな曖昧な不安に囚われる。
それらを振り払うように、ベッドから身体を引き剥がした。粘ついた疲労感を払いながら、無為に部屋の中を見回す。

テーブルに散らばる書類の数々に、息を吐いた。書きかけの履歴書や、切り刻まれた証明写真の切れ端がテーブルのみならず床にも散らばっている。……先日唐突に現れた訪問者に狼狽しながら、慌てて片付けた結果がこれだ。とはいっても、肝心の訪問者を通したリビングは祖父の遺した作品で溢れ返っていた。日頃から片付けを怠っていた。自業自得だろう。しかし彼は昔からどんな客人が訪れようと自分の作品を片付けるということをしなかった。
作品も同様に客人をもてなしているのだと、そんなことを言っていた気がする。
作品にとっては、置かれた場所が舞台なのだそうだ。
どのような舞台で、客人をもてなすか。
このアトリエの作品にとっては、それがリビングで客人が私や祖父の来訪者というだけのことらしい。
未だにほのかに残っている絵具が画材の匂いは、覚醒しきらない頭では祖父が生きている錯覚を与える。
此処に来てもう数年が経つが、不思議とそんな空気を作品たちはもたらすのだ。

ぱたぱたと、窓を叩く雨粒がせわしなく流れていく。
窓ガラスに尾を引きながら流れる水滴を目で追いながら、ふと、デジャヴにも似たものが去来するのを感じた。しかしそれをわざわざ思い出すことすら億劫だ。
……今日は買い出しに行こう。
そう思っていたつもりが、雨など降られてはすっかり行く気が削がれてしまう。しかしいい加減買い出しにも行かなければ、ここにある食料などの消耗品も底を尽きかけている。
次からは天気予報を確認してから買い出しの日取りを決めよう。
そんなことを思いながら、外出の準備に取り掛かった。




安っぽいビニール傘だろうと、可愛らしいデザインの高い傘だろうと、叩く雨の音は変わらない。肌に纏わり付く湿った空気も、ざらついた雨音も、爪を立てる冷たさも、全て煩わしい。
……雨の日は嫌いだ。
買い出しの為に街まで出てきたが、どうにも気分が優れない。電車とバスを乗り継いで来たが、雨のせいか随分と混んでいた。その窮屈さも相まって、憂鬱さに拍車をかけた。
世界の不幸を寄せ集めて膨らみ重たげな色を宿した雨雲も、耐えきれず泣き出した空も、息が詰まるような閉塞感を与えてくる。思考に膿が溜まっていく。
頭上でパタパタと忙しない音を奏で続けている傘を握り直しながら、冷たく濡れた路面を進んだ。

「ここには、彼が残したたくさんの空があるでしょう」

ふと、そんなことを言っていた彼の横顔が去来した。先日訪れた『N』という青年のせいか、妙に感傷的な気分になってしまう。

――あの日も、こんな雨が降っていた。
何度目の訪問になるのか、アトリエを訪れた彼を快く迎え、珈琲を出したのだ。
そして他愛ない話の中で、雨が嫌いだと言った私に彼は苦笑混じりにそう返したのだ。

「雨雲が見たくないのなら、ゲルハルトが描いた空を見れば良いでしょう」

「彼の作品には空を描いたものもある」

「ここには、彼が描いたたくさんの空があるでしょう」

その横顔も表情も、言葉すら、彼のものは全て作り物のように見えた。
冗談混じりの言葉であったことは知っている。
私自身、深く考えずに適当に笑って返したのだ。
――彼のように賢い人間の考えることはわからない。
どう足掻いても届き得ない場所だ。
手を伸ばせば遠ざかる。
突き進もうとすれば空回りする。
私みたいな人間は、『そう』なれないのだ。
私のように愚鈍で卑屈な人間には、わかり得ないのだ。

「!」

無意味な思考に耽っていたせいか、背後からの小さな衝撃にふらついた。
いつの間に人通りの多い通りまで来ていたらしい。
先に見える大きな交差点では、信号待ちの人だかりができていた。雨に霞む雑踏に流されるように緩慢な足取りでそちらに向かう。
こうも人が多くては、傘で信号の色など埋もれてしまって分からない。
ただ周りの気配に合わせるように歩幅を調整していると、再び背後から衝撃が走った。
しかし思いの外力が強く、体勢を整えることができなかった。信号も青に変わったのか、後ろから人の波が押し寄せてくる。

体が大きく傾く。
左肩がドンと鈍い音を立ててぶつかる。
反射的に「すみません」と謝罪が口をついた。
私がぶつかってしまったらしい人物がこちらを振り返る。……こんな街中で白衣を来てうろいているというのも珍しい。そんなことを思いながら、体勢を直しながら相手の顔を見ないように頭を深く下げて再度謝罪を繰り返した。
じわりと肥大する惨めさに、傘を持つ手に力がこもる。

「……ケーテ?」
「!」

何の前触れもなく耳朶に触れた音に、肩が震えた。同時にその音が自分の名前を意味するものだと理解し、訝しげに顔を上げた。
こんな人混みの中で、自分の名前などそうそう聞いたりしない。こんなところで会う知り合いに心当たりもなかった。
傘から覗くようにその顔を窺う。
……こちらを見据える琥珀の瞳には、見覚えがあった。目を見開き、呆然とその名前を口にした。

「アクロマ、さん」
「驚きましたね。こんなところで学生時代の後輩に会うとは」
「お久しぶりです。すみません」

顔を隠すように傘を前に掲げると、彼は可笑しそうに「お気になさらず」と笑みを溢した。……信号は赤に変わってしまった。渡りそびれてしまったようだ。
しかしそれ以上に、こんなところで古い知り合いに会うとは思ってもみなかった。そちらの驚きの方が大きい。何よりも、彼は私のような詰まらない人間は覚えない質であると勝手に思っていた。こうして記憶の片隅でも自分を留めて置いてくれたことを、失礼ながらも意外だと思ってしまう。
人の波がピタリと動きを止める。
それに逃げ場を失い、戸惑うように言葉を探した。
彼はごく自然に言葉を紡いでいく。

「大学卒業後はすっかり音沙汰無しでしたからね」
「アクロマさんは、相変わらず研究一筋だとか聞いてますよ」
「否定はできませんね」
「お元気そうで何よりです」
「貴女の方は?」
「――え」
「就職でしたか。上手くいってますか?」
「そう、ですね。たぶん……」
「……そうですか。お互い頑張りましょう」

――何を。
卑屈な自分が鎌首を擡げた。
喉元を突いた嫌悪感を飲み下し、「そうですね 」などと笑みを貼り付ける。
胸中にどろりと滲み出す自己嫌悪に、雨音が内側で迫るように鳴った。
そしてほどなく青に変わった信号に、逃げるように前に踏み込んだ。

「すみません。私、用事の途中で」
「そうでしたか。お気をつけて。それと」
「?」
「あまり、深みで眠らないよう。忠告だけさせていただきます」

言葉の意味はわからなかった。
適当に会釈して踵を返した。
傘の向こう側で、アクロマさんは穏やかに笑っていた。
信号が点滅している。



20130407




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