目を瞑る


『そう思うなら、自分を擦り減らしてまで生きる必要はないだろう』

そっと伸びてきた冷たい手のひらが、緩やかに私の喉を押した。
傾いていく景色に、身体は強張った。
視界を埋める青は、酷く冷めた色を孕んで私の顔を覗きこむ。
届きもしない高見から、惨めで卑しい存在を見下ろすのはどんな気分なのだろう。
喉の奥が軋んだ。
映画の1駒1駒を丁寧に確認するように、目の前の景色はゆっくりと移り変わる。
何故、とは思わなかった。
彼の言い分は至極当然だ。

重力のままに、落ちていく。

硝子が砕ける散るような衝撃が背中に走る。
視界に水が流れ込む。
全身に水が絡みつく。
音が水でくぐもる。
呼吸が泡となって逃げていく。

遠ざかる水面の向こう側を思った。

生まれる前、胎児であったころは、母の羊水に浸かっていた。
四肢を固く閉じ、身体を丸め、目を閉じ、ただ生まれる瞬間を眠りながら望んでいた。
温かい海で育まれたこの身体は、しかし水に酸素を剥奪され死んでいく。
波に揺れる視界に彼の姿は映らない。
遠くで光の束が私を嗤っている気がした。

――そんな夢を見た。

彼は、きっと私を許さないだろう。





草臥れた便箋を飾り気のない白い封筒に戻した。几帳面に四つ角を合わせて折り畳まれたそれを広げたのは、2年ぶりになるのだろうか。おそらく最後に受け取ったであろうその手紙もまた、2年前の秋だった気がする。……そう考えると、最後に会ったのは2年半近く前になるのだろうか。3年は経っていないはずだ。

最後の手紙には肖像画について書かれていた。私がその手紙への返信をして以来、音信不通となってしまった。
私はそれに対して譲渡すると返信した気がするし、日取りに関しても書いた気がする。もうその日付も2年も前のものだ。
彼からの連絡は依然としてない。
肖像画がいらなくなったのだと言われてしまえばそれだけだ。
そもそも私と彼の関係は友人にも満たない。私は彼のことなどほとんど知らないし、彼は私に関心などないだろう。
そんな淡泊な関係だ。
私には彼を語る資格はおろか、語るだけの情報すらない。

「だから、私が提供できるものはその手紙くらいですよ」

テーブルに散らばる封筒と便箋に視線を落としながら、向かいに座る青年へ言葉を差し出した。
彼の灰青の瞳が暗く淀んで見えるのは、雨が降っているからだろうか。
今朝から鼓膜に張り付いて剥がれないざらついた雨音に、窓の向こう側はくすんでいた。灰色に滲んだ外へと視線を向け、彼の言葉を待った。

――「N」と名乗った青年がここを訪れたのは、ほんの小一時間ほど前の話だ。
こんな雨の日に、何の前触れもなく、アトリエのドアを叩いた来訪者に初めはひどく戸惑った。
町外れの海辺の辺鄙な場所だ。
画家であった祖父が、静かな場所での創作活動を求めて此処を選んだことは知っている。
しかし用もないのにこんな場所に来る人間はなかなかいない。
奇妙な来客に警戒心は強まるばかりだが、一方で私自身がその青年の発言に強い関心を持ったのも事実だった。

「……力になれなくてごめんなさいね」
「キミも、ゲーチスの行方はわからないんだね」
「あの人が会いに来てくれても、私から会いに行くことはなかったから。彼が何処から来て何処へ帰っていくだなんて、考えたこともなかったかも」

そう返すと、青年はぎこちなく笑ってみせた。
「ゲーチス」という名前の響きを頭の中で反芻し、視線を彼から部屋の片隅へと移した。
白い布に覆われた額縁が、沈黙して佇んでいる。
彼は、その絵を買い取る予定だったのだ。

画家であった祖父が最後に描いた作品は、首のない女性だった。
一体どんな意図をもってその肖像を描いたのかはわからない。首を除いた手足や衣服、椅子、背景は細かく描き込まれている。黒いワンピースも、そこから伸びる白く細い腕も、うっすらと影を残す鎖骨の輪郭も、椅子の材質も、背景のカーテンの皺も、より現実を映したように描かれている。首が存在すべき位置にも、その背景は丁寧に描かれていた。首は意図的に描かれなかったのだ。
同時に、これは肖像画であるが、空想画でもある、という声もある。つまり描かれている女性は実在はしないという見方もあった。

しかし事実モデルとなる女性はいたし、その顔を私は朧気ながらに覚えている。もう、15年は前になるのだろうか。初めて祖父のアトリエに行った時だ。
私は偶然この絵画の作成過程を見たのだ。
幼いながらに、彼女が被写体としては申し分ないほど美しかったことを覚えている。彼女は、ずっと見ていた。どこか憂いを滲ませた瞳は、祖父ではなく、もっと別の、何かを見ていたのだ。その表情が穏やかで慈愛に満ちたものだったと私は記憶している。
しかし祖父はその顔を描くことはなかった。優しげな瞳の色も、漣のように流れる透明感のある髪も、総てを許容するような慈愛の笑みを作る唇も、それらのピースを嵌め込む輪郭も、まるで存在しなかったかのようにそこにはない。被写体やその関係者からしたら、不吉極まりない作品だっただろう。
それでも、私はこの肖像画を祖父の作品の中でもひどく気に入っていたものだったと思う。

この肖像画は、2年前のあの日に新しい持ち主の元へ渡るはずだった。いや、それとも彼女は帰る、と言った方が正しいのだろうか。ぼんやりと眺めていた額縁の中に、私はふと小さな寂寥を抱いた。祖父のアトリエで、この絵画の被写体である女性の夫が、ゲーチスという男性が、迎えにくるはずだった。
しかし彼は来なかった。
もう、此処を訪れることすらない。
なんとなく、そんな気がしてならなかった。
そうしてすっかり彼の存在が記憶の淵に埋もれたころに、それを掘り返すようにこの青年が現れたのだ。

――彼に育てられたのだそうだ。
なら、彼女との子供ではないのだろうか。
そう問いかけると、N君はひどく驚いた顔をした。
確かに彼は親代わりのようではあったが、自分は彼に拾われたのだと、そう言った。
そのころには、彼はひとりだったのだそうだ。
だから彼に生涯添い遂げる相手がいたことを知らなかったらしい。
確かに、私があの女性に会ったのはもう15年は前だ。
その数年で彼女が何らかの理由で姿を消すか消息を絶つことがあれば、その前後で拾われたこの青年は知らないことは無理はない。
何でもいいから知っていることを話してほしい。
そう懇願した青年に、私は彼との手紙の一部を差し出したのだ。

「手紙は、これで全部?」
「全部ではありませんよ。他にもあったけど、すぐに探し出せたのがそれくらい。探せばまだあるんだけど、何処にしまったのか忘れちゃって」
「そっか。……えっと」
「ケーテです」
「ケーテ、ケーテは、ゲーチスとは親しい友人なんだね」
「そうでもありませんよ。ただの、社交辞令のようなものです」
「なら、ケーテにとってゲーチスは何なんだい?」
「何って、言われても」

祖父の友人。客。知人。
ひと通り単語を並べて思案する。
祖父の友人、と言っても、私は彼と祖父がどう知り合い、どの程度親交を深めていたのかを知らない。祖父は一時期大学で非常勤の講師をしていたと聞くし、その時の教え子なのだろうか。
私はただ、15年の前のあの日、彼の妻であろう女性を、祖父が被写対象として描いていたところを見ただけだ。
祖父亡き後、このアトリエと作品の権利を全て譲渡された私に、彼が例の肖像画を買い取りたいと接触を持ってきただけだ。
……私自身には、彼が接触を持とうとするような価値はない。
頭のどこかで嫌でも気付いていた。
――あの目は、私など映していない。
私は窓から見える風景程度の、無機物にしか映っていない。
それでも。

「ケーテ」
「え、ああ、ごめんなさい。いろいろ思い出してたらぼうっとしちゃって」
「……もう失礼するよ。今日はありがとう」
「雨が止むまでゆっくりしていって。珈琲も冷めてきちゃったし、淹れ直すから」
「いいよ。当分止みそうにないから」

N君は窓の向こう側を見た。
白く暗くくすんだ景色は、依然としてざらついた声で鳴き続けている。
彼はゆっくりとした動作で椅子から立ち上がり、帽子をかぶり直した。
深い影がかかる灰青の瞳が、私を映して細められた。

「突然すまなかったね」
「気にしないで。することもなくここでぼんやり暮らしてるだけだから」
「でも、ボクが来たとき、寝起きのようだったから」
「……だらしない生活してるのバレちゃったね」
「でも、此処はいいところだね。静かで、自然も豊かだ。あまり他人に侵入されて心地よいものでもないだろ。ボクみたいな部外者を通してくれたこと、感謝するよ」
「大げさだよ。それに、此処はもともと私の祖父のアトリエだから、私じゃなく祖父が残した作品に用がある人もいるだろし」

部屋の中を見渡す。
壁を埋めるように飾られた絵画には風景画が多い。海を描いた風景画が多いのは、このアトリエから見える景色を描いたものなのだろう。
この作品たちに、どれほどの値打ちがあるのかはわからない。
色とりどりのこの箱の中で、私はその色彩の価値すらわからない。
祖父が作った色の、線の、モノの、その真髄を私は理解できなかった。
目を閉じてしまえば、見えなくなる視界同様の無機物だ。

「それじゃあ」

薄い背中を向け、彼はドアの向こう側に消えた。
ひとりきりに戻った空間で、テーブルに散らばる封筒を丁寧に掻き集める。
すっかり見慣れたその筆跡は、2年前で時間を止めてしまった。
最後に見た白い横顔を思い出す。
両目を覆った。
眼窩に燻る暗闇が意識を暗く包んだ。

雨はまだやまない。



20130322




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