ジョウトとカント―の境にある、山の麓の小屋に祖母は住んでいた。
人里離れたそこは、人工的な音が一切なくひっそりと静まり返っている。山頂は常に雪で凍えており、その麓には徒に風花が舞い降りる。
彩度の低い空間だった。

祖母が何故そんな辺鄙な場所でひとりで暮していたのかは知らない。
ただ、幼い頃は半年に数回、両親に連れられ私は彼女を訪れていた。
ポケモンを自分で持つようになってからは、ひとりでそこを月に数回訪れるようになった。
彼女はいつも私を温かく迎え入れ、そしてその小さな小屋で見聞きしたものを語り、聞かせてくれた。
変化に乏しいその場所は、時折修行という建て前のもと、山を訪れる人々の往来がほんのりと色を付ける。彼らはこの小屋で休み、山をめざし、そして山からの帰還の途中、この小屋を再び訪れる。
祖母はそんな彼らを眺めながら、ここを訪れる最初と二度目で彼らは表情が変わると言っていた。
あるものは逞しく、あるものは怯えたように、あるものは草臥れて見える。
山に何があるのかは知らない。
だが、山にあるものに怯えたしまった人間は、皆帰還途中に訪れるこの小屋では言葉を発することをほとんどしないのだそうだ。

もともと祖母にひどく懐いていた私は、彼女の役目に吸い寄せられるように、その小屋で暮らすことを選んだ。
両親にさんざん反対されたが、私は何故かそこに居なければならない気がした。
あの小屋の小さな存在意義が、祖母の存在が、役割が、私にはとても大切なものに思えた。
祖母が体調を壊し始め、しかし町に下りることも、病院に通うことも厭っていたころには、私は自分はこの小さな小屋を継ぐのだと確信していたほどだ。
彼女は結局この小屋で成すすべなくひっそりと息を引き取った。
両親は、私が祖母の最期の瞬間まで傍にいたことと、この小屋への執着に関連があると思い込んでいるようだったが、私は祖母の死に関係なくここにいたいという気持ちがあった。
私には、きっとずっと前からそこで生きていくと言う意志があった。

私がその少年に出会ったのは、祖母が亡くなって季節が一巡りした冬だった。
そして私は、漸く祖母がそこにいる本当の理由を知ったのだ。
その日は朝から凍えるような空気に満ちていた。澄み渡った空気は、まるで人を拒むようにとげとげしい硬質な冷気に満ちていた。
草臥れた日差しが傾くころには、雪が降り出した。
分厚く質量を持った牡丹雪が、透明な音を立てて地面に敷き詰められていく。
私は窓の向こう側を眺めながら、足元で丸まって寝息を立てているブースターの毛並を撫でた。

白く解けた景色の中で、ところどころが白く欠けた人影を見つけた。
それとブースターの目がぱちりと開くのは同時だった。
そして人の気配を私に伝えるように私の裾を引っ張った。
ドアが控えめにノックされる。
ブースターは特にそれに警戒を抱くわけでもなく、欠伸をして椅子へと飛び乗り、丸まった。
ドアを開ける。
身を切るような冷たい空気と共に、雪に欠けた姿が視界に映る。
帽子を目深にかぶった少年だった。
帽子や頬の輪郭を縁取る黒髪が、凍っているように見えた。
ゆっくりと私へと持ち上げられた視線が、凍り付いているように見えるのに、爛々と輝いているようにも見えた。

「旅のトレーナーさんですか?」

私の問いかけに、彼は小さく頷く。
もちろん、雪の降る日にここを訪れる理由は考えなくてもわかる。
彼が吐き出す息が、不透明な白い粒子となって散らばる。
小屋の中へと招く。
彼からは、雪の匂いがした。




少年は「レッド」と名乗った。
真っ白に色を失くした指先で、私が出したホットミルクのカップを持ち上げながらぽつぽつと私の問いに答えていた。
マサラタウン出身であること。ジムバッチを集めてまわっていること。ポケモンリーグを目指していたこと。相棒がピカチュウであること。
どれもこれも、私の問いに対する答えだった。
無口な性格なのだろう。
だがらと言って、私の問いに厭そうに答えると言うこともなかった。
そうしてひと段落して落ち着き、私は来客用のベッドを確認するために、一度部屋を離れた。
次にそこに戻ってきたとき、レッド君はテーブルから離れて、いつの間にか小屋の入り口で寝転んでいるブースターを撫でていた。
私の気配に気づいた彼は、緩慢な動作でこちらを見る。
そして躊躇いがちに言葉を吐いた。

「この小屋……」
「?」
「前に、ここにいたのは違う人だった、気がする」
「ああ、私のおばあさんだよ」
「その人、どこ行ったの」
「……1年ほど前に、息を引き取ったよ」
「そう……なんだ」

彼の白い指先が、ブースターの暖かな毛並みの中に沈んでいた。
彼はどこか私の言葉を噛みしめるように反芻した。
もしかしたら、ここに来るのは初めてではないのかもしれない。
そんなことをぼんやりと思った。
それからしばらく、彼は無言でブースターを撫でていた。
ブースターは丸い目をゆっくりと瞬かせ、ふわりとしっぽを揺らしていた。
外は静かに白く潰されていって、小屋の中は暖房器具の機械音が響いていた。

レッド君がふとしたように口を開いたのは、ブースターが気まぐれに私の足元へと寄ってきた時だった。
椅子に座ってぼんやりとしている私に、何処から取り出したのか、しわくちゃのタウンマップを取り出しては差し出した。
マサラタウンがぐるぐると乱暴な丸で囲まれている。ところどころ、立ち寄った日付だろうか、街や道路には細かく数字と、そこで出会ったらしいポケモンの名前が書かれてあった。

「僕が、マサラを出る時に友達のお姉さんからもらったもの」
「随分、使い込んでるね。たくさんいろんなところに行ったんだね」

私の言葉に、彼はほんの少しだけ目尻を下げた。

彼は翌朝、雪がやんだ頃に出ていった。
テーブルには彼のタウンマップが置かれていた。




彼が再びこの小屋を訪れたのは、からりと晴れた乾いた日だった。
それでも吹き抜ける風は冷たい。
あの日と同じように、控えめにドアを叩く音と、雪の匂いがした。
彼は同じようにブースターと戯れて、淡々と時間を過ごしていた。
私が思い出したように、この間ここに来た時にタウンマップを忘れただろうと言うと、彼は「あげる」と小さな声で告げた。
私が出した夕飯のポトフを食べて、客室の布団で寝て、翌朝、出ていく。
ただ、その日は小屋を出ていくとき、彼は私に古びた腕時計を差し出した。

「マサラを出る時、母さんがくれたんだ」

時計の針はまだ動いている。
尚更、大切な時間を刻んだものなのだから手放せないのではないか。
だが、彼はそれをここに置いていきたいのだと言った。


それから彼は、定期的にここを訪れた。
訪れて、一晩泊まって、何か一つ、物をここに置いて行った。
最初はタウンマップ、次は腕時計、その次はビードロ、木の実袋、インクの切れたペン、綺麗な鈴、小瓶に入った星の砂、バッチケース。
彼はそのひとつひとつを置いていくとき、ひとつ、それに纏わる記憶を口にする。
私はそれに一言、思い浮かんだことを呟く。
彼はそれに満足そうに瞬きをする。
かわす言葉は少ない。

そしてそれはどこか、儀式めいた、ひそやかな行いだった。

彼は自分の抱えているものを剥がすように、体の奥底に溜まった澱を吐き出すように、ここで記憶を語り、そしてその一部である私物をここに置いていった。
私は彼が置いていったものを、部屋の棚にそっとしまいこんだ。
彼の他にも来客はある。
彼が置いていったものを、誰の目にも触れないよう、隠すように、私は棚の戸をぴたりと閉じて、そして鍵をかけた。
棚の中の密度は少しずつ、増えていく。
まるでそこに彼の中身を移し替えていくような、そんな不思議な感覚があった。
――今、ここを訪れていく彼が擦り切れていくような、そんな漠然とした予感があった。
私は、そんな予感を抱くたびに、何故だかひどく切なくなるのだ。




その日も彼は私を訪れた。
彼からは雪の匂いがした。
彼はその冷たい匂いを殺ぎ落とすように、ブースターの温かい毛並に触れ、暖炉の前でぼんやりと過ごしていた。
私が淹れたカフェオレを飲み、徒に外を眺め、ブースターと戯れる。
そんな彼に、私が取り留めもない言葉をかける。
だからその日も、私にとってはその問いは他愛のないものだった。

「レッド君のポケモンも見てみたいな」

ここを訪れるトレーナーは、ポケモンの話題になると誇らしげにパートナーを見せてくれるから。
軽い気持ちで口にした。
暖炉の前にいた彼は、私にゆっくりと視線を向けた。
赤い火の色が映った頬は、透き通っているようだ。
その瞳が、草臥れて見えた。

「みんな、僕より先に行ってしまったよ」
「行ってしまったって……」
「みんないい子だったよ。強い子だった。みんな、僕の自慢だ」
「素敵な、旅の仲間なんだね」
「うん。だから、僕も、もう行かなきゃ」

彼は、表情を力無く綻ばせた。
今にも泣き出してしまいそうに見えたのは、気のせいだろうか。
窓がかたかたと鳴る。
彼の「行ってしまった」という言葉が不吉な響きを持って頭蓋骨の内側で反響している。
――聞いてはいけないことだったかもしれない。
ざわりと罪悪感が吹き出る。
私は故意に、それを押し殺すように、調子はずれなことを口にした。
不吉なものはないのだと、彼に否定して欲しかったのだ。
まるで、しがみ付くような思いだった。

「疲れているみたいだから、もっとゆっくりしていって」
「……」
「レッド君がそんな様子で向かったら、ポケモンたちも心配してしまうよ」
「……そうかな」
「元気な笑顔見せてあげなきゃ。大切な仲間なんでしょう?」
「でも長いこと、あの子たちを待たせてる」

彼の言葉に、背筋がしんと冷えた。

翌朝、彼の姿はなかった。
代わりに、傷だらけのモンスターボールがテーブルの上にあった。
私がそれに触れると、壊れていたのか、ぱくりと真っ二つに割れるようにそれは開いた。
中から、真っ白な枯れた珊瑚のようなものが出てきた。
後程知ったことだが、それは火葬されたポケモンの骨だったらしい。
それが、彼が最後にこの小屋に置いて行ったものだった。
以来彼の姿を見ることはない。
私は彼が置いて行ったモンスターボールに入った骨を、大切に棚へと仕舞い込んだ。




祖母の三回忌のために久しぶりに実家へ帰った。
祖母はこの山の麓の小屋で息を引き取ったが、その位牌も遺影も、全て実家に置かれ、供養されている。
その日は雪が降っていた。
家の奥で、両親が祖母の荷物の処分に困っている声が聞こえてくる。

祖母の持ち物であった棚から、何十年も昔の、カントーのチャンピオンになった少年が雪山で遺体として見つかった新聞記事と、まだ少女であった祖母の隣で、ピカチュウを抱きかかえて笑うレッド君そっくりの少年の写真が見つかった。

雪の匂いが、辺りに漂っていた。



20141214
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