▽3月16日、晴れ


「貴女はこういうもの好きだと思って」
「え?」
「いいえ、飼い猫には鈴を付けておくものでしょう?」

クスリと笑う彼の手のひらには、薄色の鈴が乗っています。
手のひらを傾けるたびに笑うように鳴る鈴が、日の光を透き通るように反射しました。
それはコガネの街の一角にある、私たちがいる小さなカフェの雰囲気にはどうにも合いません。
それがおかしくて少しだけ笑うと、彼も微かに笑いました。
その笑顔がくすぐったくて、頬が染まるのを誤魔化すように中途半端に残っているコーヒーに角砂糖を落としました。
カラカラと音を立てながらスプーンで混ぜます。
そして「飼い猫」という彼の言葉に気恥ずかしいような気になりながら鈴を受け取りました。

「…犬の方が、好きじゃありませんでしたか?」
「ええ。ですが犬では主従のような関係になってしまいそうなので」
「!」
「貴女とは、対等でなければ意味がないでしょう?」

穏やかに眼を細めた彼に、つい表情が綻んでしまいます。
手のひらで鈴を転がしながら笑うと、静かに彼は私の手を取りました。
私より幾分低い彼の体温が、皮膚を通して体内に浸透します。

「ずっと一緒にいたいものですね…」
「いればいいのに」
「……!」
「私はここにいるんだから、アポロさんもここにいればいられますよ」
「……」
「なんて…お仕事があるからダメですね…」
「すみません」
「いいえ」

どうしたって彼をここに引き止めるほどの力が私にはないのです。
一言だけ発して席を立った彼の背中を見詰め、思案します。
泣いて喚いて寂しいと叫べば、彼は今までよりも私に構ってくれるでしょうか。
会えないのが辛いと、手首でも切れば同情してそばにいてくれるでしょうか。
手のひらに握った鈴の冷たさに、私はただ静かに眼を伏せるだけなのです。
次は、いつ会えるのでしょう。



▽3月21日、雨

彼が私を訪れたのは午後のことです。
湿気を孕んだ冷たい空気が呼吸器を満たしていました。
その日は一日中自宅でぼんやりとしていましたので、私はそれは嬉しかったのです。
玄関を開けた彼に駆け寄ると、ストラップとして携帯に付けていた鈴が鳴りました。
私の喜びを表したような鈴の音に、彼は小さく笑います。
「やはり犬かもしれませんね」と、呟く彼に私は苦笑しました。
せっかくですので、彼に泊まってもらいたいと思いました。



▽3月22日、くもり

「エンジュにでも行きませんか」

朝食の最中に言った彼の言葉に、私はどんなに喜んだことでしょう。
出会ってずいぶんと経ちますが、そんなふうに遠出するのは初めてでした。
急にも思えましたが、朝食後はすぐに出かける準備をして、二人でエンジュに向かいました。
エンジュに着いてからは2泊3日で宿をとって、二人でいろいろな場所を巡りました。
繋いだ手の感触が、たまらなく恋しかったのを覚えています。

「どうせなら、」
「!」
「過去を帳消しにしてしまえたらと、思ってしまいます」
「どうしたんですか?」
「いいえ、貴女を見てると、何となく…」
「……?」

貴女のおかけで、ずいぶんと楽しませていただきました

笑いながら言った彼に、何故か寂しいと思ってしまいました。
たまらず手を握り締めると、近付いてきた彼の頬が私の首筋に触れました。

「貴女のおかげです…」

静かに彼の方へと体を傾ければ、彼の匂いに包まれます。
優しくて悲しい、匂いでした。



▽3月24日、くもり

その日、私が起きた頃に彼はいませんでした。
宿の方に聞いたのですが、彼は明け方ころに先に帰ってしまったそうなのです。
もしかしたら私のために無理に仕事を休んでくれたのかもしれません。
そう思うと嬉しくて、しかし先に帰ってしまったと思うと寂しくてたまりません。
お金は彼が全て払ってくれたそうです。
私は一人で荷物をまとめていました。
その間、無言であるのが寂しくてテレビを付けていたのですが、お昼頃でしょうか。
コガネで事件があったというニュースが流れたのです。
何でもラジオ塔がある組織に乗っ取られたらしいです。
私はそれを見ながら、今自分がエンジュにいることが奇跡のように思われました。
もし旅行に出なかったから、私も今頃コガネの自宅にいたのです。
同時にあまり受け入れ難いことも報道されていたのですが、私は知らないふりをしました。



▽4月3日、晴れ

彼はあれ以来会いに来てはくれません。
電話をかけても、やはり出てはくれませんでした。
しかしそれは珍しいことではないのです。
今までだって、二週間近く連絡がとれないこともあったのですから。
きっと、そのうちまた会える。
私は得体の知れない不安に襲われました。



▽4月25日、くもり

彼には今だ会えません。



▽5月2日、晴れ

天気の良い日でしたので久しぶりに街中を散歩しました。
その最中に、彼によく似た後ろ姿を見つけたのです。
私は彼だと思いました。
人混みの中、夢中でその背中を追いかけました。
心臓が煩いほど鳴っています。
待ってください。
待ってください。
行かないでください。
じんわりと熱を持つ瞼を押さえ、私は手を伸ばしました。

「!」

しかしそれは所詮、似た人でしかありませんでした。
見知らぬ顔に、私はただ謝罪を口にします。
瞼に籠もる熱は、別の感情となって零れ落ちました。
途端に襲ってくる喪失感や落胆に、心臓が締め付けられるようです。
静かに人混みに背を向け、歩き出しました。
鈴の音だけが、鼓膜を突きました。



▽6月16日、雨

梅雨の季節に入り、最近雨が続いています。
彼と最後に顔を合わせた日から、もうじき3ヶ月が経とうとしています。
彼は私のことなど忘れてしまったのでしょうか。
ただ虚しいだけの毎日は、私の精神をすり減らしていきます。
寂しいです。
逢いたいのです。
どこにいるのですか。
鈴を握り締めて、ただ待つことしかできません。



▽7月10日、晴れ

コガネのデパートで彼によく似た人とすれ違いました。
そのたびに寂しくてならないのです。



▽7月25日、くもり

人混みの中に紛れるたびに、彼を無意識に探している私がいます。
携帯に付けた鈴が鳴るたびに、彼が近くにいるような錯覚すらしてしまいます。
雑踏にもまれながら、私は今日も、貴方を探すのです。



▽7月30日、晴れ

好きです。
今も昔も、これからも。
ずっとずっと愛しています。
再会はもう、望めないのでしょうか。
人混みに紛れる貴方の姿に、雑踏になっていく貴方の声に、私はいつも振り絞るように名前を呼ぶ夢を見ます。
悲しいのです。
寂しいのです。
あの時私がもっとわがままなら、貴方を繋ぎとめることができたでしょうか。
貴方はまた私の隣で笑っていたでしょうか。
今では貴方を愛した記憶が苦しめるだけです。
今、どこにいるのですか。
私はそれでも待ち続けます。
お願いです。
帰ってきてください。
貴方がどんな人だろうと私は貴方が大好きです。
貴方だけが。
寂しくてたまらない。
逢いたい。
苦しいのです。

貴方の、せいで―――



***



「……」

彼女の日記を閉じ、私はガランとした部屋を見渡した。
微かに懐かしい匂いがする。
訪れたのは一年ぶりだった。
しかしそこにすでに彼女の姿はない。
家具もないのを見る限り、引っ越してしまったのかもしれない。
たった一つ、この遺書のような日記を残して。
たまらなく愛しい反面、虚しくて寂しい。
彼女のいない部屋を後にし、私は歩み出す。

空は分厚い鉛色の雲に覆われていた。
その下にある人混み。
雑踏。
私はその中に彼女の姿が見えた気がして、走り出す。


冷たい雨が、降り出した。





20100729
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -