腕に現れた無数の目玉が私を見ている。悪さをしないよう、ずっと見張っている。


罪悪感があるのなら、それを如何にしてかき消せるかが人の本質の現れだと思う。

それを怒りに変換して当たり散らすか、悲しみに変換して泣きわめくか、あるいは抑圧というのも、できなくはない。
いずれもが感情を外界へ向ける方法だ。
私のあの緑の上司もこの類の人間だ。
先日の任務では、おつきみやまで子供に邪魔され失敗したとかでさんざん八つ当たりされた。
不甲斐なさと責任から来た罪悪感だろう。
部下なら甘んじて受けてやるのが敬意だ。
だがいかんせんあの上司は部下に対する配慮に欠ける。
命令に素直に従っても口答えしても、あの口から吐き出されるのは嫌みか罵声だ。
部下の苦労を労う気など皆無に見える。
彼のお陰で寝不足になるというのは日常茶飯事だった。
先日も彼の八つ当たりを受けて、ずいぶんと嫌な任務についた。
そのせいで私の体内に降り積もっていく罪悪感に、彼はきっと気付きはしないだろう。

外界へ向かう彼に対し、内界へ沈んでいく私のことなどわからないだろう。

ただ静かに罪悪感に向き合う私を莫迦にするように彼は笑った。

「よく飽きませんね」

嘲笑気味に響いた声に、眼球を向けた。
常盤色の虹彩に囲まれた瞳が、ひどく詰まらなそうにこちらを見ている。
詰まらないのなら、見なければいいのに。
机の上にパタパタと落ちた斑な赤黒いシミに、目を伏せた。
そのまま机に頭を伏せて、いじやけた子供のように顔をそらす。
こちらに近づいてくる足音が聞こえた。

「汚い。きちんと掃除をしとくださいよ。」
「…わかって、ます」
「それにしても」

カチリと音を立てて、私の左手からカッターが抜き取られた。
それに少しだけ顔を上げて彼を見ると、彼は無表情で血の付いたカッターを眺めていた。
詰まらなそうな顔だった。
それを見詰めて、しかし目が合うなりそらすと、彼は「いつ見ても気持ち悪い腕ですね」などと呟いた。
その言葉にある殺傷能力をわかっての言葉だ。
腹の底から湧き上がる嫌悪感に唇を噛み締める。

「死にたいなら死ねばいいでしょうに」
「……」
「それとも、どこだかの宗教の信者ですか?確か自殺は大罪でしたね。」

クスクスと笑いながら、彼はカッターの刃を出し入れする。カチカチという音が空間に響いた。
それを聞きながら、平静を装うために深く息を吐き出す。ドクドクと不快感に脈を打つ心臓に、ひたすら耐えるように俯いて唇を噛んだ。

「なんなら私が殺して差し上げましょうか」
「!?」

耳元で声が響く。
鼓膜を震わせ脳髄を揺らすような濃艶さを孕んでいて、ゾクリと体が震えた。
しかし次の瞬間、左腕にヒヤリとしたものが突き立てられる。
それに体がビクついた。
プツリと音を立てて走る痛みに、顔が歪む。

「……っ」
「痛いんですか?」

ふざけるな。
左腕にカッターを突き刺し、ニヒルな笑みを浮かべて彼が言う。
そして突き刺したカッターをゆっくりと縦に動かす。
ジリジリとした痛みが熱と共に腕に集中した。

「おかしな話ですよね」
「何が…」
「喜んだらどうですか」
「……」
「生きたくはないから自傷なんてするんでしょう?」
「ランスさんには、関係…」
「組織の任務で罪を犯して、罪悪感からするのでしょう」
「……私は」
「先日確か、子供がいるガラガラをシオンタウンで殺しましたね」
「!」

心臓が跳ねた。
喉元まで熱が込み上げ、息が一瞬だけ止まる。
途端に蘇る墓地での光景に、じっとりとした陰湿な匂いが腹の底から込み上げる。
キリキリと胃を締め付けるような感覚と吐き気に、戦慄が蘇った。
生命体が死にゆく様が、明瞭に網膜に映し出される。

「その前は…ニビの博物館にある化石…復元装置で蘇る可能性が確実だったものを、破壊…」
「そういう任務内容で…」
「あとは、タマムシのゲームコーナーの景品のポケモンを」
「何がしたいんですか」
「……」
「私は…任務は全うしています…」
「……」
「何が、したいんですか…っ」

顔を伏せ、絞り出すように言った。
腕が痛い。
痛くて泣きそうだ。
頼むから構わないで欲しい。
本当はあんなことしたくない。
しかしやらなくてはならない。
組織の為に。
家が貧しくて盗みを繰り返し、最終的に道端でゴミのように転がっていた私を拾ってくれた。
あの方のために。

「……」

突き刺さっていたカッターが離れる。
右腕からも、左腕からも血が流れている。
つけた人間は違うけれど。
右腕の血は固まり始めていて、赤黒く変色している。
左腕からはまだ真っ赤な鮮血が流れている。
右腕には今までの分の無数の疵痕があった。
皆同じ方向に刻まれている。
一直線ではなく、僅かにカーブを描くように。
不気味に腕に描かれている。

それはまるで、閉じた目のようだ。

顔を上げる。
左右の疵痕を眺めながら、口を開いた。

「百々目鬼…」
「?…なんです」
「盗みをしていた女性の腕には無数の鳥の目が生じたそうです」
「………」
「悪いことをしないための…見張りだったのでしょうか…」

ならば私の腕にも生じるべきだ。
二度と悪事を働かぬように。
…今までに、疵痕がパックリと開いてそこから目玉が現れる夢を、何度も見た。
私を見張っている。
いや、嘲笑っているのかもしれない。
そう思った。
どちらにしても、私がやるべきことと私の心情は矛盾している。

自嘲気味に笑って、机に放り出されていたカッターを手に取った。

「死ぬのですか」
「…それは…無理です…」
「恐いのですか」
「そうですよ」
「………」

死ぬのは怖い。
だが、生きていくのも恐かった。
この手が生き物を殺した。
その事実が精神をすり減らしていく。
いつもいつも、耳元で何かが呪詛を吐いているような気がした。
誰かが自分を憎んでいる。
それだけの事実に、いつだって気が狂いそうなほど虚しくなった。
たとえそれが、どんなに矛盾した思考であっても。

彼が私の左腕を手に取った。
自分の意志に反して持ち上がるそれに、反射的に顔を上げる。

「……!」

べろりと腕を伝う血をなぞるように、彼の舌が肌を這う。形容し難い感覚が背筋を駆け抜けた。
常盤色の瞳が細められ、それを縁取る睫の間で濃い艶が採光する。
…獲物を前にした、猛禽の目だ。
とっさに振り払おうと腕に力を入れる。しかし男の力に適うわけもなく、手首を握る彼の力が増しただけだった。
そして再び腕に痛みが走る。白い八重歯がわざと疵痕に食らいついたのだ。
思いも寄らない彼の行動と痛みに、呻きが零れる。
喰い千切られるのではないかという恐怖が一瞬だけ過ぎり、右手で彼の体を押した。

「…色気のない女ですね…」
「は…」
「まあいいでしょう。」

唇の端についた血を舐め、彼はクスリと笑う。
得体の知れない感情が胸中に発露し、無意識に後退りした。
しかしまるで相手にしてないとでもいうような様子の彼は、背を向け、そばにあった棚を勝手に漁りだす。
そして目当てのものが見つかったのか、こちらに向き直るなり椅子に座るように促した。

「……」
「座りなさい。上司命令ですよ」

高圧的な態度で、そう言われたら断り切れなかった。
黙って座ると、先ほどさんざんにされた右腕を掴まれた。
反射的にビクつくが、彼は無言でガーゼをあてがい、包帯を巻き始める。

「…いいですよ…包帯なんて」
「だから余計疵痕が残るんですよ」
「……」
「貴女からしたら、この傷が百々目鬼でいう鳥の目ですか」
「……!」
「貴女が百々目鬼なら、私はその鳥の目でしょうね」
「…何を…」
「悪いことをしないよう、私が見張っておきますよ」
「何言ってるんですか…」

思わず眉をひそめた。
包帯を巻ながら彼は小さく笑う。
そして私を、いや、私の無数の疵痕に埋もれた腕を一瞥した。

20100808
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -