未だ呼吸もままならぬ胎児であった頃、その時分に張り付いていた暗闇は、おそらく誰とでも共有できるものだ。
目を閉じ、光を覆う目蓋を震わせ思索した。皮膚や繊維組織越しに伝うごく小さな漏れ日は、眼窩をゆるりと舐め上げる。……ただ、当時の記憶など持っている人間はほとんどいない。稀にいると聴くが、それでも相当低い確率になるだろう。

この目玉が光を覚えて以来、奇妙なものを見るようになった。当たり前のように見ていたそれらは、しかし「普通」であるならば見えないものであったらしい。
障子の穴から覗く目玉、立て掛けられた着物から伸びる細い腕、無人の廊下を駆けていく幼子、夜道を走り去る大きな顔と車輪、継ぎ接ぎだらけの獣、いないはずの赤子の泣き声。
それらは声をかけてくることもあった。しかしそれに答えてはいけないことを、無意識に理解していた。父も母も、周りの大人も、近所の年の近い子どもも、誰もがそれらを視界に収めようとしていなかった。
何よりもあれは、目が違うのだ。
目を合わせても、言葉を交わしてもいけない。
あれは言葉巧みに漬け込んでくる。
頷いてはいけない。
見てはいけない。
聞いてはいけない。
視てはいけない。

耳を塞ぎ、目を閉じ、身を固く丸めた。
どろりと吹き出した闇が、目蓋に流れ込む。
匣の中から、カリカリと内側を爪で引っ掻いているような音が響いていた。
それを押し潰すように、手のひらを宛がう。
音は一瞬だけ止んだ。
遠くから、彼女が僕を呼んでいる。
起きなければ。




物忌だと訳のわからないことを言って、マツバが離れの土蔵に籠ってしまうことは珍しくはなかった。土蔵自体は、今ではただの物置だ。彼の祖父母や何世代か昔の人の持ち物がしまわれているだけだと聞いている。……幼い頃、何度か、かくれんぼしながら土蔵の中を覗いたことがある。火鉢や燭台、和綴じの絵巻物といった、確かに今では使いそうにもないものばかりが丁寧に仕舞われていたと記憶している。
しかし、それだけである。
そんな薄暗く埃っぽい雑然とした空間に、籠っていたいという彼の感性は理解しがたい。
ご丁寧に中から鍵までかけて、彼は外界との接触をブツリと断絶してしまっている。

土蔵に立ち入ることができなくて困る人間はあまりいないが、彼が引き籠ることで困る人間が多くいる。
仮にもジムリーダーだ。その発言力や街での権限、影響力、人々の視線の集中は大きい。特に治安や次世代を担うトレーナーの教育において、彼の存在は非常に大きいのだ。ジムに関しては彼個人だけでなくジムトレーナーや挑戦者の問題になる。
――一方で、彼がそれらの責任を頭のどこかで負担に思っていることも知っていた。昔から感性豊かな繊細な子どもだった。男の子にしては大人しくて、穏やかな子だった。そんな彼が、こうして多くの人に大きな影響を与えるようになったのだ。あのときからは想像もつかない。

「マツバ」と重く閉ざされた扉に声を投げつける。しかし土蔵は冷たく其処に立ち尽くしているばかりである。聞こえない、ということはないだろう。蔵には1つだけだが小窓が付いている。防音ということはさすがにあるまい。
ひとつため息を溢し、抱えている包みに視線を落とす。
……多めに作った肉じゃがをお裾分けに来たのに、これでは持ち帰ることになってしまう。
どうしたものかと目の前に聳え立つ蔵を前に呼び掛ける。中から返事はない。

もう帰ってしまおうか。
肉じゃがもわざわざマツバの好みに合わせて甘めに作ったのに。
踵を返し、蔵に背を向ける。
しかし同時に足元からするりと現れた黒い影に、足はその場に縫い付けられた。

「ゲンガー?」

赤い目玉がしぱしぱと瞬き、私の周りをくるりと旋回した。
すると、さっきまでびくともしなかった蔵の重い扉が金属音を立てながら開いた。




「心配したんだから」

蔵から出てきたマツバは、普段着とは違う白い装束を身に着けていた。
和服に身を包み、いつもはしているヘアバンドをしていない彼は、どことなく近寄りがたい印象を抱いてしまう。上手く形容できないが、ありきたりな表現をするなら神聖的というのだろうか。エンジュに古くから伝わる伝説にかかわる家系なのだから、そういった空気をもともと持っているのかもしれない。

場所をマツバの家へと移し、居間で適当にくつろぎながらタッパーに入った肉じゃがを差し出す。彼は今日の晩御飯はこれで決まりだと柔らかく笑った。着替えるのも面倒だと、和服のまま座布団に腰を下ろした彼は、どこか眠たげに頬杖をついた。

「いつもいつも、あんな暗いところに籠って何やってるの?」
「物忌」
「だから、なんでそんなことするの?」

ゲンガーが台所から持ってきた箸を使い、彼はごく自然な動作でタッパーの中を突く。こちらの質問を綺麗に無視するその視線の先を塞ぐように、タッパーの蓋をした。
それに一瞬紫紺の目をひそめるも、彼は小さく息を吐き出した。

「昔さ」
「!」
「何をしたか覚えてはいないんだけど、父さんにあの蔵に閉じ込められたことがあったんだ」

彼はおもむろに口を開いた。
その目は卓袱台の中心を見ている。
……しかしその視線の先には何もない。

「その日のことはよく覚えているよ。よく晴れた日で、君と遊ぶ約束をしていた」
「そうなの?」
「うん。君と遊ぶのに、玄関を出たときかな。蔵の方から父さんの声が聞こえてね。蔵の扉が開いていたんだ。中にいるのかと思って覗いたら、突き飛ばされてそのまま閉じ込められたんだ。外から父さんの『反省していろ』って声が聞こえた。暗くて怖くてずっと泣いてたんだよ。ごめんなさい、なんて繰り返していたかな」
「マツバが怒られるようなことをするなんて珍しいね」

そうだね、と彼は笑った。
蔵の中で泣きべそをかく幼少のマツバは容易に想像がつく。近所のいじめっ子に悪戯をされた時は、よく私が慰めていた。彼は中性的な面立ちだから、女の子みたいだ、弱そうだ、などとからかわれることがよくあったのだ。
そんなことを懐古しながら、彼の言葉の続きに耳を傾ける。

「どのくらいそうしていたのかは覚えてないけれど、ずいぶんと泣いていたと思う。それから泣き疲れてうとうとしていた時に、扉が開いて、祖母が迎えにきたんだ」
「……」
「たぶん、これを言えばnameも思い出すんじゃないかな。君が怪我をした時だよ。ほら、近所の男の子たちと一緒に焼けた塔に行って、そしたら梁が落ちてきて怪我をしたって言ったじゃないか」
「ああ、そういえばそんなこともあったね」

当時のことはよく覚えている。探検だ、冒険だ、と張り切って焼けた塔に入っていったのだ。マツバも誘ったが、確かにあの日は来なかった。挙句運悪く柱の一部の腐食が進んでいたところを、ふざけていた男の子がぶつかった。その結果柱が傾き、梁が落ちてきたのだ。直撃は免れたのでかすり傷程度で済んだ。しかし一歩間違えれば大きな事故だった。……こうして思い返してみると、あのころはマツバよりむしろ私の方が男の子と混ざって遊ぶくらいやんちゃだった。
――あれ?
そんなことを考えながら、ふと、感じた違和感に思考にストップがかかる。
確か、その1年以上前に、彼の父は事故で亡くなっていたはずだ。
私の動きがピタリと止まったのを視界に収め、彼は悪戯っぽく笑ってみせた。

「守られているんだなって、大人になって初めて気づくこともあるよ」
「マツバ……」
「父さんは口下手で不器用な人だったからね。褒めてくれることなんてめったになかったけど。祖母の話では、仏壇の父さんの写真立てが壊れていたというし。あの瞬間は確かに守られていたんだ」

ひたりと背筋に張り付く冷たさに、口角が歪んだ。
そんな私に、彼は笑いながら「怖かった?」と尋ねてくる。
おもむろに伸びてきた手がくしゃりと私の髪を指に絡ませる。
紫紺の虹彩に囲まれた瞳が、切なげに細められた。

「ただ、君が怪我をしてしまったことが、僕にとっては悔しかったかな」
「何言ってるの。痕なんか残ってないし、ただのかすり傷だったんだから。もしかしたら私もあの時守られていたのかもしれないでしょ」
「あはは、そういう考えもアリだね」

するりと彼の指の間を私の髪が滑る。

「この目を、呪うことこそたくさんあったけど、こうやって気づくきっかけを与えてくれることには重宝しているよ」
「私もマツバがこういう人情溢れる話ばかりしてくれるならいいんだけどね」
「nameは怖い話は苦手だったね」

弓なりに細められる瞳が私を映す。
彼の怪奇話に付き合わされて恐怖に眠れない夜を迎えたことは少なくない。目蓋を閉じた途端に脳裏をよぎる彼の怪談話と、その想像には疲弊した。こんな時に働く自分の想像力を恨んだことはない。
それに、こんな穏やかな顔をする時は決まってさりげなくそういう話に持って行こうとするときだ。彼はそれに対する私の反応を見て楽しんでいる。昔はあんなに大人しくて可愛かった子が、見事に捻くれた大人に成長してしまった。
つい顔を顰めると、彼は冗談だよ、と再び笑った。

「こんな風に、見えるものが違うだけで差異ができるだろ?」
「!」
「だけど、目を瞑っている時の暗闇は、無条件で僕も君も知っている景色なんだ。そんなふうに、供視できることの大きさも、気づかせてくれたからね」
「いきなり、なに」
「なんでもないよ。でも、そういう些細な共通点すら、失い難いものだと思うなって、少しずつ年を重ねるにつれ分かるものだね」
「年寄りみたいな台詞だね」
「それでもいいよ」

君は僕にとって、失い難い大切な友人だから。
優しく笑う彼の言葉に、こそばゆくなる。
再びくしゃりと髪を掻き撫でる彼の指先に目を細める。
……彼には、彼にしか理解できない見える世界がある。誰とも共有できないそれに悩むことも多いのだろう。
しかしこうしてそれをひとつひとつ解きほぐして彼が笑うのなら。

「私はマツバに会えて良かったと思っているよ」

つまらない話もくだらない話も、日常に溶け込む記憶はどこまでも優しい。
彼ははにかむように笑った。



20130306
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