彼の望む場所へ、高みへと、私も上り詰めてみたかった。
彼の見る景色を見てみたい。
それは、幼いながらに抱いた確かな愛慕なのだろう。
彼に寄り添う淡い女性を私は何よりも羨望していた。






顔を思い出せないのは、首がないからだろう。
おもむろに目蓋を持ち上げ、私は彼女に笑みを向けた。

絵の具の匂いが辺りに散らばっている。
シミの付いたパレットや、毛先が窶れた筆は部屋の片隅で沈黙している。掃除をしても、床や椅子、壁にこびりついた絵の具は消し去ることができなかった。
その1つ1つを拾い集めるように、彼女以外の作品たちを眺めた。
偏ることもなく塗り固められた絵画たちは、どこか賑やかな色合いを持って私を囲む。
過去の残骸に、意識の奥深くで懐古の念が薄く燻った。

今一度彼女に視線を向ける。

黒いシンプルなワンピースを着た女性は、簡素な椅子にそっと座っている。
ふわりと丸い袖から伸びる白く細い腕や、鎖骨のラインから華奢な印象を受ける。
彼女はその白魚の両の手を重ね、それを丁寧に膝の上に置き、静淵とした様子でこちらを見ていた。
……いや、首はないのだ。
彼女が見つめる先など、第三者にわかるはずもない。
存在しないそこに附属しているだろう目玉の向かう先など、想像の範疇に過ぎないのだ。
薄く華奢な肩から、体の中心、そしてその上へと視線を滑らせる。
その先には、本来あるべき個人を示す象徴とも云える頭部が綺麗にない。
だからといって、生々しい肉の断面図が描かれているわけでもなかった。
なんの違和感もなく、まるで持って生まれてくることすら忘れてしまったかのように、彼女には首がなかった。
それは恐ろしいはずの外観であるのに、何故か目が離せなくなる。
一体どんな顔をしているのだろう。
どんな瞳の色をしているのだろう。
どんな髪の色をしているのだろう。
どんな表情を浮かべているのだろう。
しかし木製の額縁の中に佇む彼女は、依然として沈黙を守っているだけである。
そんな奇妙な現実感の遠退きに、足元が静かに崩れていくような錯覚に囚われた。



影に沈む彫刻



画家であった祖父が最後に描いた作品は、首のない女性だった。
一体どんな意図をもってその肖像を描いたのかはわからない。首を除いた手足や衣服、椅子、背景は細かく描き込まれている。首が存在すべき位置にも、その背景は丁寧に描かれているのだ。首は意図的に描かれなかった。
同時に、これは肖像画であるが、空想画でもある、という声もある。つまり描かれている女性は実在はしないという見方もあるのだ。

しかし事実モデルとなる女性はいたし、その顔を私は朧気ながらに覚えている。もう、15年は前になるのだろうか。初めて祖父のアトリエに行った時だ。
私は偶然この絵画の作成過程を見たのだ。
幼いながらに、彼女が被写体としては申し分ないほど美しかったことを覚えている。彼女は、ずっと見ていた。どこか憂いを滲ませた瞳は、祖父ではなく、もっと別の、何かを見ていたのだ。その表情が穏やかで慈愛に満ちたものだったと私は記憶している。
しかし祖父はその顔を描くことはなかった。優しげな瞳の色も、漣のように流れる透明感のある綺麗な髪も、総てを許容するような慈愛の笑みを作る唇も、それらのピースを嵌め込む輪郭も、まるで存在しなかったかのようにそこにはない。被写体やその関係者からしたら、不吉極まりない作品だっただろう。

この肖像画は、あと1時間ほどで新しい持ち主の元へ渡る。いや、それとも彼女は帰る、と言った方が正しいのだろうか。ぼんやりと眺めていた額縁の中に、私はふと小さな寂寥を抱いた。

腕時計が指し示す午後2時のアトリエは、昼間にも関わらずどこか薄暗い。

約束の時間は午後3時だった。
祖父のアトリエで、この絵画の被写体である女性の夫が、彼女を迎えに来る。もう15年も昔の絵だ。何故今さら買い取りたいなどと思ったのか、彼の真意は図りかねる。しかし1週間ほど前に、突然その知らせはやってきた。紙面に並べられた几帳面な字が、彼女の帰りを待っていると切に訴えていた。
祖父からは遺産代わりにこのアトリエの作品の所有権を総て渡されていた。故にこの肖像画も、私の所有物である。彼からの手紙の返信に、特に迷いはなかった。
私が持っていても、ここの美術品たちが浮かばれないことは私が一番分かっている。その価値を見出だしている人間の元で、初めてそれは作品として完成する。このアトリエで私の手中にある限り、作品は未完成なのだ。

その肖像の買い手が現れたことは作品の完成を意味する。それは亡き祖父と美術品にとっては華々しい門出である。

そっと窓の向こう側を眺めた。
今朝から頭上を覆い続けている鉛色の傘は、どうやらついに泣き出したらしい。ノイズを思わせるざらついた雨音が少しずつ、迫ってくる。僅かに開いていた窓からは、冷たく湿った風が流れ込んでくる。肌の上を徒に踊る空気が体温を掠め取っていった。
延々と響き始めた雨足は、意識をしっとりと曇らせた。




来客は予定通り、午後3時にアトリエの呼び鈴を鳴らした。
曇った雨音の合間に響いた高い鐘の音は、微睡みにたゆたう私の意識を引きずり上げるのに充分な呼び水であった。
玄関に向かい、冷えたドアノブを回す。雨の匂いが肌を包んだ。

「お待ちしておりました」

驚くほど、その言葉はするりと口から抜け出た。黒い傘をさし、目の前に立つ男性が彼であると、私はほとんど無意識に確信した。
ゆっくりと傘を閉じるその動作を目で追う。
傘の向こう側に隠れていた素顔が微かな笑みを浮かべて会釈した。
スペアミントの柔らかい髪も、カメリアの花弁を詰め込んだような虹彩も、色褪せて崩れかかっていた記憶の姿と一致する。ただ、15年前と比べて明らかに窶れて見えた。年のせい、とは言い難い、疲れきったような、そんな印象を受けた。雨音に穿たれて掻き消されてしまいそうなほど、脆弱で浮世離れした空気を纏う彼をアトリエの中へ招いた。

「悪天候の中、わざわざありがとうございます。冷えたでしょう」

物を片付けただけの部屋へと彼を通し、引っ張り出した椅子へ座るよう進めた。ここにあるものは、ほとんどが祖父の被写対象となったものだ。彼を座らせた椅子も、実をいうとかつて肖像画を描く際にモデルに座ってもらっていた椅子でもある。
それに彼は気付いたのか、椅子を見ては僅かに躊躇うような仕草をして見せた。
しかしそれを敢えて黙殺し、 珈琲をティーカップに注いで彼へと差し出す。 そして他愛のない言葉を紡いでいく。

「15年振りに来てくださったのに、満足なおもてなしもできずにすみません」
「いえ。ここは、相変わらずですね」
「本当は、祖父が亡くなった時に土地ごと街に譲渡する話もあったんですけどね。祖父からの遺言で土地の権利書や作品はすべて、私がもらい受けることになって。そのままなんです」
「……捨てがたいのですか」
「そうですね。思いの籠った作品ばかりですから」

そっと、視線を傍らにある額縁に向ける。白い布で覆われたその向こう側で、彼女は依然として沈黙している。それとも、彼の姿を望んでいるのだろうか。
私の視線の先に気付いたらしい彼が、それを見て口を開いた。

「手放すのは、名残惜しいですか」
「まさか。祖父や作品にとって華々しい門出です。貴方に引き取っていただけることを、彼女はたいそう喜んでいるでしょう」
「……やはり、似ていますね」
「似ている?」
「ええ、彼も作品をそう呼んでいました。彼、彼女、まるで生きているように。……いや、彼は作品とは自分の一部を切り離し形にしたものだと言っていました。貴女は、確かにその思いを継いでいるのでしょう」
「私は、芸術なんてわかりません。私が作品をそう呼ぶのは、祖父の癖が移っただけです」
「お孫さんなだけはある」

彼は穏やかに目を細めた。そして白く細い指先でティーカップを持ち上げ、口許に運んだ。
それを視界に収める。睫毛が作り出す目元の淡い影を目でなぞる。些細な影すら美しくその肌に刻む様は、彫刻のようだ。雨音は未だ途切れることなく続いている。蛍光灯の無機質な白が照らすこの箱の中で、彼の一挙一動が、銀幕に映るコマのような現実感の遠退きを呼び寄せる。
珈琲を一口、口内に含み飲み下した彼は、おもむろにそれへと再び視線を戻した。

「見てもよろしいですか」
「是非。彼女も貴方をずっと待っていたと思います」
「それはそれで、不思議な気もしますね」

苦笑混じりに笑った彼に笑みを返し、白い布を取り去る。バサリと音をたてて冷たい風を巻き起こしたそれに、部屋の隅の埃が踊った。白い幕が上がり、その舞台裏で息を潜めていた彼女が姿を現す。……そういえば、彼はこの絵の完成に立ち合ったのだろうか。彼女に首がないことを知っているのだろうか。ふと、そんな小さな懸念が発露した。
彼女を見つめる彼の瞳が微かに見開いた。透き通るような目蓋が震える。

此処にいたのか

彼は唇の動きだけで何かを紡いだ。
私の耳に、その音が届くことはない。
それについぞこみ上げるような虚しさが去来した。
――15年経ったとしても、私は彼と同じ場所に上り詰めることはできないのだろう。
彼と彼女の見えない何かを、まざまざと見ている気分だった。
首があろうと、亡くなっていようと、彼が求める限りやはり彼女は『彼女』でしかないのだ。
首がないこの肖像も、彼が願えば『彼女』になる。
彼が此処に還ってくれば、この絵に『彼女』が帰ってくる。
死者との絆とは裏を返せば絆すことと同義だ。その愛着は、日々を重ねるにつれ身を蝕み精神を摩耗する。
記憶により強い愛着を刻み込み、現実を彫り、削ぎ落とされた木屑が捨て去ったものならば、それが彫り刻んで今の彼を作り出したのなら。

彫刻のような人だ。
ぽつりと発露したその音に、私は食い入るように彼の横顔の輪郭をなぞった。

「――ひとつ、お聞きしても良いですか」
「!」

肖像を見据えながら、彼は不意に口を開いた。
私はそれに我に返る。
ビクリと震えた肩を誤魔化すように首を傾げ「何ですか」と吐き出すように紡いだ。

「この作品の題名を、教えてはいただけませんか」
「題名」
「ええ、それと、貴女のお名前も」

買い取るための手続きに必要でしょう、と彼は苦笑交じりに言った。
テーブルの上には、いつ用意したかも覚えていない書類が2枚、そこにあった。
いつの間に記入したのか、書類には買い取り主の名前、取引金額、日付、住所が書かれてある。空欄は売り手と作品の題名だけだ。テーブルに転がる万年筆が、こつりと私の指先を突いた。
……雨音はいつの間にか止んでいた。
祖父は、自身の作品を売る際、たとえ相手が友人であっても、小難しい手続きを踏ませていた。彼にとって作品とは我が子同然だ。子供の嫁ぎ先を知るのは親として当然だと、彼はいつも言ってた。ならばそれを売る私が同様の手続きを踏むのも道理である。

私は万年筆を手に取り、題名の欄にその筆先を持ってきたところで、一度静止した。
タイトル。
彼女のタイトルは、はたして何だったか。
思えば祖父は一言もこの肖像のタイトルを口にしたことはなかった。
いつも「彼女」と呼び、気まぐれに亡くなった祖母の名前や、私の名前、或いは母の名前で呼んだ。
この作品に対して、固有の呼び名を彼は与えなかった。

「すみません、私からも、ひとつ、聞いてもいいですか」
「ええ、なんでしょう」

書類の買い取り主の名前を一度確認する。
『ゲーチス・ハルモニア・グロピウス』。
彼の名前を一度頭の中で反芻し、再度口を開いた。

「ゲーチスさんの奥様の、お名前は」
「……何故それを?」
「それが、この作品の題名になります。祖父は、この作品をずっとそういう形で抱え続けました」

彼は、僅かに目を見開いた後に小さく苦笑した。

「死者の名前を、この絵に与えるのは貴女の祖父に失礼でしょう」

彼の白い手が私の指先から万年筆と書類を抜き取る。
そして私が問うたように、彼は首を傾げた。

「貴女の名前は?」
「作品のモチーフは崩したくないんです」
「では、彼女は」
「……調べて、おきます。もしかしたら私が知らないだけで、きちんとした題名が残されているのかもしれません。ごめんなさい。時間をください」

彼は、どこか寂しげに笑んで書類を見詰めた。
その空白を埋めなければ、彼女は彼のもとには帰れない。
ただ、その空白は彼の妻の名前で埋まる。
しかし彼はそれを頑なに拒否した。
何を拒否する必要があるのだろうか。
それだけでこの絵は手に入る。
それとも、それによってより過去の妄執に憑りつかれることを恐れたのだろうか。
……だが、子供じみた強引な手段を選べば、もっと簡単に手に入るのだ。
しかし彼は静かに首を振り、書類を私に返した。

「また、ここに来ましょう」
「申し訳ございません」
「いえ、こうしてまたこの絵を見られただけでも、存外満足しています」
「……すみません」
「顔を上げなさい。貴女があまり落ち込んでしまっては、私が強引な客のようでしょう」

ゆっくりと席を立ち、彼は静かに笑った。
もう、帰るのだろう。
見送るために私もまた立ち上がる。
書類も絵もそのままに、私は彼を連れて部屋を出た。

「連絡先は、先ほどの書類に書いた通りです」
「はい。でも、良かったら彼女に会いに此処に来てください」
「……」

廊下を振り返る私に、彼は苦笑して不意に私にその白い手を伸ばしてきた。
何の前触れもなく目尻に触れた指先に、思わず肩が震えた。

「やはり、貴女にとっても手放しがたいものなのでしょう」
「!」
「しかし残念ながら、私も諦めきれないようだ」

彼が拭った私の感情は、さらりと床に滴り落ちた。
とっさに目を覆う。
突然熱を持ち出した眼窩は、飽和しそうな感情を目蓋へと押し込む。
溢すまいと噛み締めた唇はしかし、目蓋をなぞる彼の指により溜まらず溢れだした。

「やはり、彼女のタイトルは教えていただけないのでしょう」
「……」

彼は背を向ける。
私は顔を背ける。
もう雨は降ってはいない。
しかし空は依然として暗かった。

「では、また」

玄関のドアに立て掛けてあった傘を掴み、彼はアトリエを出ていく。
遠い景色の中に霞んでいく背中を見つめ、私は深く息を吐き出しアトリエのドアを閉めた。

頭の何処かで、私は安堵している。
彼がこの絵を買えなかったこと。
この絵が変わらず私の手元にあること。
彼と、また会える口実を持っていること。

確か、絵の具はどんな色であっても、たくさんの色を混ぜると最終的に黒になるらしい。
多くの感情が攪拌して、なんだか再び泣きたくなってしまった。




暗く静まった部屋へと戻り、首のない彼女に再び白い布をかける。まるで、死者が纏うそれのようだ。白い布に覆われた彼女を横目に、私は祖父が生前画材をしまっている引き出しを漁った。
中途半端に使われた絵の具、使い込まれて乾いてパサついた絵筆、スケッチブック、真新しい絵の具。多くのものが無造作に押し込まれたそこに、ひとつだけ、明らかに創作活動とは縁遠い封筒がポツリと佇んでいる。
それを手に取り、中に入っているスケッチブックのページの切れ端を抜き出した。
そこには万年筆で一行、筆記体で書かれていた。

『I dedicate “Lost love” to name』

“失われた愛着”をnameに捧ぐ。
祖父の遺書の切れ端に書かれた一文だった。
そこで私は漸く思い知る。
彼がこの肖像画を買い取るためには、彼は彼女への執着を捨てなければならない。
私が彼を手に入れるには、15年越しの彼への執着を捨てなければならない。
幼いながらに私が抱いた憎悪にも似た羨望に、祖父は気付いていたとでもいうのだろうか。
ならば、この絵画の本質とは皮肉そのものだろう。
自嘲を溢しては、彼の名前が書かれた紙面を撫でた。

「愛情ほど、人を簡単にがんじからめにするものもないものね」

献身とは支配に繋がる。
愛慕とは嫉妬の直線上にある。
過去とは礎であり現在の呪縛である。

私とは。


そっと窓の外を見た。
彼は、今度はいつ来てくれるだろうか。
私が彼にこの肖像画のタイトルを伝える日が、永遠に来なければいい。

か細い糸の束縛をそっと頭の中で繰り返した。




20130217
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -