▽1

窓を激しく叩く雨は、今日でおそらく3日目になる。延々と鼓膜を打ち続けるざらついた音に、彼女は頭の芯が麻痺していくような錯覚を覚えていた。視界も煙り、閉塞感が増す。窓に叩き付けられる雨粒に、窓の向こう側は滲んだ。

彼女が町外れのこの地に越してきたのは一昨年である。
仕事の都合だったので、引っ越し自体には不満の言いようがない。むしろもともと旅行は好きであった性分であるので、新しい地で生活を始めることは楽しみでもあったのだ。しかしそれによってかかる費用となると話は別だ。町中の物件となるとマンションにしろ一軒家にしろかかる代金は、若い彼女には払うに厳しいものがある。
そこで町外れのこの安い空き家を借りた。
買い出しや移動手段に多少の不便はある。だが、総合的に考えれば得をしている方だろうと自身に言い聞かせた。

未だ延々と鳴り響いている雨音に、彼女は深く息を吐き出した。



▽2

雨が上がったのは4日目の朝だった。もともとこの地には雷雨に基づく神話があったので、長雨自体は珍しくない。
4日ぶりに顔を出した青い帳は、まるで何事もなかったかのような素振りだ。仕事を除き、数日間家に缶詰め状態だった彼女にとって、まるでこちらの憂鬱などお構い無しの天候には、些か複雑な気分であった。
再び雨が降られては、また数日間は家を出られない。過去に身を持って体験していた彼女は、仕事帰りに買い出しのために店へ足を運んだ。とはいえ、買うべきものは決まっているので時間はかからない。必要なものを購入した彼女は足早に家に向かった。


▽3

偶然とはある種の喜劇であり悲劇である。彼女は家のそばで倒れた人影を発見したとき、眉をひそめた。
天候が気まぐれなら、身に降りかかる事象も気まぐれだ。
旅の途中のトレーナーがこの近くを通りかかる姿は今までに数度見かけたが、こうも妙なものは初めて見る。不用心とは思いながらも人影に近付き、彼女は地面に横たわるそれを見下ろした。
十代後半くらいの青年だ。冷たく映るほど白い肌と、柔らかい緑の髪が印象的な青年だった。どこか苦悶の表情を浮かべ、目を閉ざした彼に意識がないことは考えるまでもない。服は泥だらけで、ところどころ破れている。

「傷……」

見た限りでは、大きな傷はない。とりあえず無視をすることが困難な状況に息を吐き出し、彼女は緩慢な動作で屈んだ。

「どうしたんですか」

返事など期待はしていない。青年の肩に触れ、小さく揺する。掴んだ肩は思いのほか細く薄いものだった。ごつりとした骨の感触に、思わず眉をひそめる。華奢と呼ぶには、些か脆弱な印象を受けるものだった。
同時に青年は小さく呻く。
彼女の指先はそれに一瞬だけ怯んだ。薄く開けられた瞼から、湖面の瞳が覗く。しかし意識など戻ってはいないだろう。
……彼女に弱り切った人間を捨て置くだけの度胸はない。
今一度深く息を吐き出し、彼女は彼の体を起こそうと試みた。掴んだ肩から予想できたように、その体はひどく軽い。
ふらつきながら青年をひきずり、彼女は自宅へと彼を運んだ。



▽4

熱が高い。おそらく先日の雨の中、この辺りを彷徨いていたのだろう。泥が跳ねてシミになったズボンの裾や、ところどころでほつれたり破れている上着が痛々しい。よく見れば腕には無数の切り傷があった。野生のポケモンに襲われたのかもしれない。視界も足場も悪い雨の中で、ポケモンに襲われれば弱ってしまうのも無理はない。

見かけない顔である。
この辺の人間ではないのだろう。おそらく旅のトレーナーか。
青白い顔で固く目を閉ざす様はまるで死人のようだ。
こんなに弱って倒れるまで、一体この青年は何をしたかったのだろうか。
夕飯の支度をしようとキッチンに向かいながら、彼女はぼんやりとそんなことを考えた。


それから彼が目を覚ましたのは、翌日の昼である。青白い顔こそ相変わらずだったが、意識がはっきりし、口を利くことも特に問題はなかった。体調も少し戻ってきたようだ。

「助けてくれたんだよね。ありがとう」

笑んだ表情は、どこか作り物じみていた。腹の底が冷えていく感覚に、絞り出すように言葉を紡いだ。

「なんで、あんなところに」
「え……」
「そんなボロボロになるまで、何してたの」

僅かに目を丸くする彼の表情を視界に収めながら彼女は首を傾げた。
彼は幼さを孕んだ瞳で苦笑混じりに答える。

「怪我をしていたんだ」
「は……?」
「手当てをしてあげたかったんだけど、怒らせてしまったみたいで」
「? 野生なら攻撃してくるのは当たり前でしょう。捕まえるならまだしも、そんな無茶なこと」

口調は必然的に咎めるようなものになってしまう。しかしその主旨を理解できないのか、青年は不思議なものを見るように目を丸くするだけだった。普段の彼女なら、そのようなこと意に介さず流していただろう。だがあまりに無防備な発言――まるで幼子のような発言をする彼の不可解さに気づき、放っておくことの危機を感じたのだ。一体親はどのように教育を施したのか。この年で危険の判別ができないなど理解しがたい。

「子供じゃないのだから、危機管理くらいして」
「……」

彼はどこか悲しげに笑うだけで、頷くことはなかった。


▽5

それから彼女が再び倒れた青年を見つけたのは翌日だった。毒タイプの虫ポケモンから攻撃を受けたのか、無数の裂傷があり、高熱を出していた。幸い毒消しを持っていたので彼に飲まし、一通り傷の手当てをしてソファーに寝かせた。
時折魘される彼の汗をタオルで拭ってやりながら、ため息をつく。
どうしてこうも無防備なのだろうか。
苦しげに息を漏らす青年は、薄く瞼を開けては申し訳なさそうに笑んで見せた。
しかし何か言葉を紡ぐために開いた唇は、空気を吸い込んだ途端に激しく咳き込む。ぜえぜえと苦しげに呼吸を繰り返す背中をさすりながら、眉をひそめた。

「無理に喋ろうとしない」
「う……」

咳の苦しさから、彼は瞼に涙を溜める。それをついでに指先で拭ってやり、毛布をかけ直した。
時計を見れば、もうじき夜の7時を回る。夕飯の準備をしなければならない。彼女はそっと彼から離れるべく立ち上がる。しかしそれは指にかかる小さな力によって阻まれた。
……彼がまるで行かないで欲しいと言わんばかりに、彼女の指を掴んでいる。

(まるで、小さな子供)

その手を握り返し、彼女は目を伏せる。
窓の外は今にも泣き出してしまいそうな空だった。





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20110824
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