褒められて嬉しい、なんて陳腐な考え方は、子供だからこそ無条件に抱けるものだ。時間が経つにつれ人間の無邪気さは削ぎ落とされてしまうし、何よりも「大人」になれば「理由」や「理屈」が必要だ。自身の矜持を守るためにも、「無条件」というものには疑ってかかりたくなる。
それは一概に、時間の流れに比例して、思考に人間の汚れた部分が蓄積されるからなのかもしれない。人が如何に打算的かなど、大人は皆知っている――。



「は?」
「え?」

両手に抱えた書類が手をすり抜け、床に散らばった。理解ができず、急停止した思考に無意識に表情が引きつる。見上げた先にある朱い瞳は、訝しげに私を見ていた。
一瞬だけ真っ白になった頭に、それほどまでにショックだったのかと問いかけてみる。反面、仕方がないのだと諦念を抱いている自分もいた。
間をおいて我に返り、慌てて散らばった書類を拾い上げる。謝罪と共に改めて書類を差し出した。無表情のまま書類を受け取るその貌に、ジワリと焦燥感が広がる。
……不躾な発言だっただろう。動揺する内心を押さえ込み、頭を下げた。

「す、すみません。変なことをお聞きしました」
「……構わない。もう下がりなさい」
「はい」

そらされたその視線を追うように見つめ、頭を下げて部屋を出た。軽くなった自身の両手を握り締めながら、冷えた廊下を歩き出す。
すっかりやるべきことを無くした頭の片隅に、虚しさが纏わりついた。
廊下に響く自分の足音を聞きながら、ゆっくりと息を吐き出した。胸中に鎮座するわだかまりを振り払うように一度立ち止まる。しかし脳裏には先ほど言われた「記憶にはありません」という言葉が蘇った。
――お忙しい方なのだから、団員の顔や名前をいちいち覚えていないのは当たり前だ。

ひと月前の、大きな任務の成功に携わった。それによりかけられた信頼しているという言葉に、ひどく舞い上がっている自分がいた。その時に名前を言ったはずだが、今日改めて任務での報告書を渡す時には綺麗に忘れ去られていたのだ。
だが、もともとあの方は組織の下層の団員の前にはめったに姿を見せない人だ。確かに演説や任務の指揮をとるときは団員と共に行動している。しかしそれ以外、つまり私事に近い部分に関しては、全く団員との関係がないのだ。他の七賢人の方は多少は団員と交流と持っている。しかしあの方だけはやはり一線を置いていた。組織の統率者の側近の方なのだから、プライベートなんてないに等しいくらい仕事に追われているのだろう。統率者たる王は、まだまだ若い。だからあの方が王の代わりに執務をこなすことはよくあることだった。
それを考えれば、覚えてもらおうなどという考え自体がそもそもの間違いなのだろう。
自分の浅はかさについぞため息が零れる。
それにたまに城の廊下ですれ違う時に見る横顔に、濃い疲労感が浮かんでいることも知っている。任務以外で見かける顔色は、ほとんど良いものではい。ならば、やはりその手足たる私たち下のものが良い働きをする以外、あの方の負担を減らす手はない。私たちは組織で、断じてあの方1人がすべての負荷を負うべきではないのだ。私たちが頑張らなければならないことはわかっている。
余計な私情や自己満足などに、いちいち悩む隙はないのだ。





体調を崩された、という知らせが耳に入ってきたのは、私がおよそ1週間ぶりに城に戻ってきた時だ。同期の団員たちが話しているのを、遠巻きに聞いた。その後で、それとなく同じ部隊の先輩に尋ねたところ、疲労や栄養失調が重なったらしい。ただ、その日の朝に、演説のために団員を伴って城を出て行くあの方の後ろ姿を見たので、ひどく驚いた。

「ダークトリニティや七賢人の方々も止めたらしいけどな」

膝の上にいるチョロネコを撫でながら、先輩はコーヒーを1口だけ口に含んだ。城内にある休憩室で見かけた先輩に改めて話を聞いたところ、ますます不安が増していく。備え付けのインスタントコーヒーをカップに注ぎながら椅子に腰を下ろした。先輩はフードをとり、短い髪を掻く。

「心配ですね」
「そりゃなあ。でもダークトリニティの方々が付いてるし、今日はN様もご一緒だし」
「N様? え、外出されてるんですか?」
「ああ、お前は知らないんだっけ。N様、一昨日から各地回り始めてるんだよ」
「急ですね」
「オレが記憶する限り、オレがプラズマ団になってから一度もあの方は城の外に出てないよ。むしろやっとだろ」
「まあ、そうですけど。それよりゲーチス様は大丈夫なんでしょうか」
「倒れなきゃいいけどなあ」
「……」
「お前が心配したって、オレやお前みたいな下っ端の下っ端はあの方の眼中にないよ」

否定など、できないけれど。
目をそらした途端に虚しくなる。私はその程度だと思い知らされる。それでも近付きたいと一瞬でも思う私は高慢なのだろう。未だ熱いコーヒーを口に含んだ。
すると不意にドアが開く。団員の誰かだろうか。思いながらそちらを振り向くと、淡い萌黄色の髪が視界で揺れた。赤い瞳がこちらをとらえ、先輩と私の動きが止まる。不意打ちに近い人物の登場に、その場の空気が一瞬だけ止まった。

「え、あ……ゲーチス様?」
「失礼。用はありません」
「! 顔色がよろしくありませんよ。とりあえずお座りに……」

先輩が言いながら椅子を引いた。青白いその顔色には、濃い隈ができている。しかし見て取れるその不調に対し、ゲーチス様はまるで何事もなかったかのように踵を返した。
――この城の中では、正面の入り口から1番遠い奥の部屋はN様の自室だ。次いでゲーチス様の自室になる。そう考えると、この休憩室は比較的入り口に近い。
もしかしたら、体を休めるにここに来たのだろうか。自室では休むにはあまりに遠い。思いのほか、体調が悪いのかもしれない。
拒絶するように向けられた背中を、とっさに引き留めた。訝しげに細められる瞳に思わずたじろいだ。

「何か」
「あ、あの、少しだけでも、休んでいかれた方が」
「オレ、ダークトリニティの方呼んできます」
「! 待ちなさい。私は」

ドアの向こう側へとさっさと去っていく背中に、ゲーチス様は顔を顰めた。次いで深く息を吐き出した後に、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。途端に、その顔色がますます悪くなったように見えた。

「大丈夫ですか」
「……貴女も、早く出て行きなさい」
「でも、体調が。万が一何かあったら……」
「少し休んだらまた次の町での演説に行きます。それは杞憂というものですよ」
「い、いけません。そんなお体では」

剣呑に細められる瞳に気圧されながらも、止める言葉を紡ぐ。気まずいとしか言いようのない空気に、さっさと先輩が戻ってくることをひたすら願った。ひとまずその場しのぎになるかはわからないが、コーヒーを入れて差し出す。ちらりと向けられた赤い瞳に、口を噤んだ。
盗み見た横顔は、血の気が失せて生気に乏しい。寝ているのだろうか。食事は取っているのだろうか。一瞬でも気を休める時間があるのだろうか。身に纏うローブから覗く骨のような腕に、不安が膨れ上がる。

「貴女は」
「え、あっはい」
「どこの部隊の」
「!」

それは、前回も、その前にも聴かれて答えたものだ。やはり私のような組織の下層の人間は、記憶に留まることすら難しいのだろう。苦い思いが胸中に肥大するのを感じながら、「先日古代の城の調査に行った部隊です」と答えた。同時に赤い瞳が僅かに見開く。

「ああ、あの時の」
「!」
「この間報告書を届けに着た団員だろう」
「は、い」

――覚えてる?
あまりに不意打ちな言葉に心臓が跳ねた。だが、よく考えれば3度目となるとさすがに否が応でも記憶に痕を残すものだ。いちいち喜べるような事実ではない。そんな私をよそに、ゲーチス様はカップの縁をいたずらに指先でなぞった。

「古代の城は、貴女の目から見てどうです」
「は、はい。まだイッシュ建国の神話に関連があるのかは確信は持てませんが、少なくとも太古のものです。城はさらに地下の方へと続いていたので、何かがあるのは確かだと思います。史実には太陽にまつわる神話に関連しているようですし、建国以前のものである可能性も大きいかと」
「もうしばらく調査をする必要がある、か……。時機に私も直接向かいます」
「ご無理は、どうかなさらないよう」
「……個人の不調など、大望を前にとるに足らないことだ。何よりも自分は全く不利益を被らないでしょう。不経済的な考えは捨てなさい」
「ですが……」
「……」

理解に苦しむ、とでも言いたげに歪む顔に言葉が詰まる。そらされた瞳がどこか遠くを見た。

「貴女は初めて口を利いた時もそうでしたね」
「え?」
「上辺だけの褒め言葉に喜んで、まるで子供だ」
「!」
「大人にならなければ、生き辛いのが世の中だ。損害ばかりの生き方など、笑い話にしかならない」
「私は……」
「貴女のようなバカな人間は、他人の不幸に竿されるだけですよ」

忌々しいモノでも見るかのように、焦点が私に定まる。それに対する動揺と、覚えていなかったはずでは、という戸惑いに無意識に後退した。そんな私を見て、その人は小さく笑みを零す。
どうしたら良いのかわからない。ただ口を噤んだ。

「もっとも……」
「!」
「そんなバカは、嫌いではありませんよ」
「……!」

言われたことを理解するのに間があった。何の前触れもなしに大きな手のひらが伸びてくる。「頑張りなさい」と、降ってきた柔らかい声音に反射的に顔を上げた。しかし目が合うよりも先にドアが開く。現れたダークトリニティの方々に連れられ、その人は去っていった。
中途半端に鼓膜に残る声音に、心臓の高鳴りを覚えた。






20110605
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