切れ目のない漆の帳を見上げ、息を吐く。風は透き通るような冷たさを孕んでいた。粉砕した硝子のような星は不揃いに佇み、地上を見下ろしている。傍らに腰を下ろしている絡繰師に視線を向ければ、彼女は両腕の中にバッグを抱えて欠伸を噛み殺していた。
――時計屋の吐いた現実が、未だ尾を引いている。彼は亡くなった妻を諦めきれなかった。いないと分かって尚も探した。彼女はそんな彼を哀れに思い禁忌に触れたのだ。死した彼の妻に酷似した人形を作り上げ、彼に与えてしまった。果たして本当に嬉しかったのだろうか。彼はそれを愛している。動かない。生きてない。命がない人形と解していながら。彼は人形を愛することを選んでしまった。彼の「常識」は彼女により剥奪されてしまったのだ。そして今度は死んだ子供を探している。……誰も報われない話だ。

時計屋を後にしたボクは、相変わらず彼女に従っている。暗い路地裏を抜け、小さな広場のような場所に辿り着いた。中心部には噴水がある。それを囲むように存在しているベンチや常緑樹、街灯に、噴水の水はさまざまな色を反射していた。
ベンチに腰を下ろしている彼女は、噴水を眺めては再び欠伸を噛み殺した。

「眠そうだね」
「そうかえ」
「家には帰らないのかい?」
「家、か。さてねえ、私にそんなものがあったかねえ」
「それじゃあまるで毎日野宿しているみたいじゃないか」
「さあ。どうだろうね。……ああ、思い出した」
「なに?」
「時計屋が君にこれを」
「!」

一体どこから取り出したのか、彼女は銀色の懐中時計をボクに差し出した。何の装飾もない、シンプルなデザインだ。

「彼が、君に」
「!」
「それは君の時間だと。そう言っていた」
「ボクが受け取ってしまっていいってことかい?」
「まあ、そういうこと」

低く笑う声に、つられて笑みを浮かべた。そして受け取った懐中時計を見詰める。やはり時間は止まっていた。手のひらに伝わる銀色の冷たさに、目を細める。午前か午後か、2時を指す針は、ピクリともしない。時計屋の男性の姿が脳裏に浮かび上がる。彼は、あの家の中でひとりで生きていくのだろうか。――長針が、錆び付いていた。
そういえば、あの時彼が振りかざした秒針も――

「高そうな懐中時計」
「!」

不意に、風が手のひらをさらった。聞き慣れないアルトの声が鼓膜を揺すり、指先に夜気が絡みつく。反射的に顔を上げると、栗色が映った。1つ、いや、2つだ。面立ちがよく似た少年と少女が、いつの間にか目の前に立っていた。2人とも帽子を被っている。ただ少年は亜麻色の瞳、少女は青い瞳だった。同時に懐中時計が自分の手元から彼らの手の中に移動していることに気付く。

「君たちは」
「へえ、時計屋が言ってた」
「アリスは君かい」
「時計屋とよく似た髪ね」
「時計屋の妻とよく似た瞳だ」
「死んだ子供と同じ色」
「探し物と同じ色」

交互に言葉を紡いだ2人に目を見開く。その顔立ちから双子だということは否応なしに分かった。だが、彼らの言葉がいまいち理解できない。ボクから奪い取った懐中時計の蓋を徒に開閉する少年に眉をひそめた。月明かりに照らされる彼らは、どこか不気味に濃く深い翳りを宿す。ふとしたように彼女が口を開いた。

「彼らは帽子屋さね」
「!」
「ハートの女王に仕える双子の賢者、なんてたいそうな呼び名があったかね」

フードの奥から、彼女の目が覗く。それに帽子屋と呼ばれた彼は顔を見合わせ笑った。

「気違いチェシャ猫だ」
「時計屋に死人の人形を与えた絡繰師の女」
「気が狂った時計屋は人形を抱えて時間を止めてしまった」
「女王はお怒りだ」
「それもこれも猫のせいよ」

双子の視線は彼女に向いた。彼女は何も答えない。そんな彼女の反応が詰まらないのか、彼らは目を細める。そして懐中時計をこちらにかざし、幾分低い声で言葉を紡いだ。

「さあさ、青年、返し欲しくばついておいでよ」
「!」
「僕は君のモノを取ってしまったよ。だから君は取り返さなければ」
「ボクは、別に」
「『別に』じゃないでしょ。これ貴方のでしょ。時計屋が貴方の為に取っておいたもの。大切なの。わかってる?」
「いきなり、そんなことを言われても困るよ」
「ああもう、付いてきて。絡繰師も何か言ってよ」
「帽子屋の話術の無さなんか私は知らないよ」
「そんなことを言う。だからチェシャ猫の血筋は嫌いなんだ」

少年がムッとした表情で彼女を睨んだ。次いで唐突にボクの腕を掴み上げ、走り出す。突然のことに反応が遅れ、ボクは引っ張られるままに走り出した。振り返った先の彼女が、緩慢な動作で立ち上がる。遠ざかる姿に不意に不安が発露した。……彼女は果たして追ってくるだろうか。
何故、この時彼女と離れることに不安を抱いたのかは分からない。ただ少しずつ、感じていた違和感が確固たるものに変わっていくのを確信していた。
胸中に苦味にも似た思いが広がるのを感じながら、手を引き前を走る2つの背中を見る。

「一体どこに行くんだい?」
「来ればわかるよ」

少年が答える。広場を抜け、気が生い茂る小道を抜け、先ほど通った路地裏に辿り着いた。来た道を引き返してきた、という感じだろうか。そこで息を整えるために、彼らは一度立ち止まる。次いで後ろを振り返り、顔を顰めた。

「もう、ついてきてくれてもいいじゃないのよ」
「!」

肩が大きく震えた。少女の不機嫌そうな顔を見た後に、ゆっくりと背後を振り返る。
当然のように、そこには誰もいない。やはり彼女は追いかけては来なかった。頭の中でなんとなく予感していた現実に、落胆が込み上げる。同時に、彼女のもとへ戻らなければという衝動に駆られ、自分の手を引いている双子に向き直った。

「ねえ、ボクはやっぱり彼女のところに帰るよ」
「!」
「ダメだ。彼女を独りにしたら」
「私たちなら、少なくとも絡繰師のような失敗はしないわよ」
「!」
「絡繰師といても帰れないよ。どうせ夜は明けない街だから」
「どういうことなんだい?」

彼女に出会ったときからそうだ。この街の住人の言葉は理解に苦しむ。何かの比喩なのだろうか。紡がれる言葉の数々は御伽噺じみていた。2人の言葉に眉をひそめる。すると彼らは交互に口を開いた。

「暗いままじゃ母さんが目覚めない。朝を探しに出た父さんが戻らない」
「僕らが抗わなければ夜は終わらない」
「私たちは朝を取り戻すの」
「彼女みたいに、諦めるような臆病者じゃないから」

彼女が出会い頭に似たようなことを言っていたのを思い出した。
夜。朝。明けない。この街。
意識が一瞬だけ遠退くような気がした。
それに、そろそろ帰らなければとも思う。夜が明けてしまったら、黙って抜け出したことがバレてしまう。――誰に?
いや、そもそもボクはどこに帰ろうとしているのだろう。家? 家ってどこだ? 待っているのは誰だ。誰に怒られるんだ。一体どこから。どこに。ボクは、どこから来てどこに行こうとしているんだ。
わからなくなる。消える。失われる。届かなくなる。見えなくなる。忘れて、しまう。

「どこかへ行ってしまった朝を取り戻しに行くの」

――行ってしまうのは、君の方だよ。

ぐらついた世界に、心臓が熱を持った。

「ねえ、君ならできるでしょ。外から来たなら知ってるでしょ」
「え……」
「絡繰師は諦めてる。時計屋は知ってるのに黙ってる。君なら」
「ボクは」
「ねえ、どうやって、どうやって朝を戻すの。君の世界には朝が来るんでしょ。どうやったら戻るの。帰るの。見つかるの」
「帰、る」

わからない。帰り道なんて。彼女が知っているとばかり思っていたのだ。だから知らない。ボクはどこに。
――早く、帰らなければダメだ。
ダメだ。こんなところにいては、消えてしまう。わからなくなってしまう。消されてしまう。

「行かなきゃ」

――違う。

「取り戻すの」

――ボクも、一緒に。

思考が一気にクリアになる。今まで思考に詰まっていた何かが、ストンと落ちた。脳裏に浮かび上がる姿に、心臓が早鐘を打つ。

「ボクは、行かなきゃ」
「!」
「彼女のところに、戻らないと、ボクは」
「何を言ってるの」
「また、彼女は独りで」

夜の街に、聲が響き渡る。ぼやけた街灯が神経質に点滅し、足下の影を揺らした。帽子屋が目を見開き、ボクを見る。次いで少女がボクの腕にしがみついた。

「私たちだって」
「!」
「私たちだって、貴方を助けたかった」

そっとその腕をほどく。踵を返し、来た道を走り出した。帽子屋は追ってこない。遠ざかる2つの気配を背後に感じながら、冷えた路面を走った。

彼女は一体どこにいるのだろう。迷子になってしまったような不安感を引きずりながら、夜の街を進んだ。






20110720

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