丸テーブルの上に並べられた真っ赤なワインは、彼の瞳の色をそのまま写したかのようだ。中央に置かれた砂時計も、また同様の色である。音も立てずに時間を流し、静かに過去を堆積させていた。
部屋の壁一面には様々なデザインの掛け時計が飾られている。飾り気のない木製の枠に嵌め込まれたシンプルなものから、ドールハウスをイメージして作られた凝ったデザインのもの。木彫りの動物のマスコットが装飾されたものや、少女や貴族の男女をイメージに作られた人形が装飾されたもの。それこそ種類は多種多様だ。
また、棚には置き時計が並べられていた。置き時計もまた、掛け時計同様に種類は豊富だった。時計屋と呼ばれているだけはある。
しかしそれだけの種類がありながら、全てアナログ時計だ。デジタル時計は意外にも1つもない。また、時計はそれぞれがバラバラの時間で時を止めていた。
時計屋はふとしたように、砂時計を逆さにした。

「彼女たちの客以外でここに来る男性はずいぶんと久しい」
「!」
「本業は時計屋なのですが、どうにもここは娼婦館としてのイメージが強いようです」

紅い瞳を細め、彼は苦笑をもらした。すると彼女が揶揄するように口を開く。

「男娼がなにを言う」
「笑えない冗談はやめなさい。ただの噂を鵜呑みにするなどはしたない。私に男色はありませんよ」
「ふふ、噂の出どころは知ってるかえ?」

如何にも不快だと言いたげな表現が時計屋に張り付く。彼女はワイングラスを指先で徒になぞり、笑みを深くした。足下にあるバッグからは、相変わらずオルゴールの青年が顔を覗かせている。彼女は時計屋がワインを1口口に含むのを確認してから言葉を紡いだ。

「貴方が2番目に拾った、ジプシーの子だよ」
「!」
「彼女は貴方を実の父のように慕って金を稼いでいる」
「理由になっていませんよ。それに父として慕われるだけなら、可愛いものです」
「あらあら、襲われたの? なら訳は明確じゃない」
「しかしあの子は『彼女』ではない」
「でもあの子は貴方に愛されたがってる。『女』として、ね。だから邪魔者排除のためにあんな噂を流したのよ」
「情欲ならさんざん吐き出してるはずですよ」
「わかってないね。貴方が『彼女』しか抱きたがらない理由と同じでしょう」
「なら、尚更私の答えは明確でしょう」

淡々とした2人のやり取りに、身を引くように俯く。どうにも僕の理解が及ばない域の話らしい。無意味に壁にかけられた時計に視線を向け、息を吐いた。
……それにしても、これだけの数の時計がありながら、何故全て止まっているのだろう。1つくらい彼自身が見るべき時計があっても良いように思える。しかしこの部屋で唯一動いているのは、彼の手元にある砂時計のみだ。それでは正確な時間は分からないのではないだろうか。

「すみません。退屈な話を聞かせてしまいましたね」
「!」

何の前触れもなく、言葉の対象が自分に向けられたことに肩が跳ねた。――同時に奇妙な違和感がジワリと肥大する。とっさに答えるべき答えを吐き出すことができず、ぎこちなく首を振った。
小さく彼は笑い、再びワインを口に含んだ。

「……ああ、せっかくだ。ここに辿り着いたのも何かの縁。『彼女』に会ってはくださいませんか」
「!」

『彼女』?
時計屋の言葉に、眉をひそめた。それは彼の亡妻のことだろう。しかし彼女は亡くなっている。今存在しているはずがないのだ。会いたがっているとはどういうことなのだろう。つい彼女へと視線を向ける。しかしフードの下へと隠れたその表情は、黒く塗り潰されて窺うことはできなかった。代わりに、彼女はゆっくりと口を開く。

「まだ、貴方は」
「貴女には感謝しています。貴女のおかげで『彼女』が戻ってきました。貴女が『彼女』をより近いものとして造り上げてくれたからこそ、ここにいるのです」
「あれは人形だ」
「しかし『彼女』は生きている。私はそれで十分です」

緩慢な動作で、彼は立ち上がった。途端に何故かその空間の時間が動き出したかのような錯覚を覚える。付いてくるよう促す仕草に、躊躇うように彼女を見た。彼女は迷いなく立ち上がり、ボクに視線を向けた。
――どうしようもなく、彼らが言う『彼女』が恐ろしいものに思えてならない。重い心持ちのまま彼らの後に続いた。
時計の部屋のドアを抜け、橙色の蝋燭が並ぶ廊下を進む。紫紺の闇が口を開け、歩く者の来訪をせせら笑っている。先頭を歩く時計屋の男性は、ポツリポツリと亡妻について言葉を零した。

「『彼女』は戻ってきてから、未だ私以外の人間とは会っていません」
「……」
「もちろん『彼女』が誰とも会いたくないということが一番の理由でした」
「では、何故突然」
「『彼女』が言ったのです」
「!」

時計屋が足を止める。ボクもつられて足を止めた。

「帰ってくる」

彼はゆっくりとこちらを振り返る。赤い瞳が、蝋燭の火に怪しく光った。

「だから会いたいと、『彼女』は言いました。私は捜していた」

白く細い指が伸びてくる。何の躊躇いもなく、それはボクの首に絡みついた。何が起こっているのか。あまりに唐突で、思考が動かない。五感が麻痺する。時計屋の男性により絞め上げられた首が、ギシリと軋んだ。気道が押し潰され、呼吸が引きつる。

「なにを……!」
「やっと、見つけた。『彼女』が待っている。独りでは可哀想だ」
「……っう」
「早く、時間を、止めなければ」

針が。
秒針が。
時計屋の手に、錆び付いた秒針が握られている。
鈍い輝きを放つそれは、ボクに向かって振りかざされた。

「止めて、何をするの」
「ずっと、捜していました。やっと見つけた。逃がすわけには、いきません」
「『彼女』に血にまみれた肉塊を見せるつもりなのかえ」
「!」
「楔は弱い。また死んでしまう」

秒針を振りかざす男性の腕を、彼女が掴んだ。彼女の言葉に彼の指先から力が抜ける。首が解放された。「待っていた」とはどういうことだろう。「捜していた」とは、ボクを指しているのだろうか。一体彼は何者なのだろう。「彼女」とは何なのであろうか。理解のできない状況に、ただ呆然と彼を見る。動きを止めた彼に、彼女は手を離した。

「……取り乱しました。すみません」
「いえ、ボクは……」
「ですが、『彼女』には会ってやっていただきたい。ずっと待っていたのは、嘘ではない」

再び歩き出す彼の背を見て、何故かどうしようもなく虚しくなった。しかし不思議と恐怖も怒りも嫌悪も、沸かなかった。まるでそうあることが当たり前のように、何の感慨も抱けない。
――ずっと昔にも、こんなことがあった気がする。しかしボクは彼を知らない。いや、違う。知っている。知っているが違うのだ。彼を知っているが、今の彼はボクの知っている彼ではない。では彼とは誰だ?
これは彼女にも当てはまる。彼女は誰だろう。いや、そもそもボクとは何だ。ボクはここで生きていたのだろうか。あの時ボクはどうしたのだろう。
何も答えは見付からないまま、廊下を進んだ。それからどれほど歩いたのか、1つの扉の前に着く。扉には白い花の装飾されいた。

「お客様ですよ」

彼が扉を開ける。部屋の中には、うっすらと月明かりが差し込んでいた。部屋の中心にはロッキンチェアがある。キシリと小さく揺れ、そこに座る影がズルリと蠢いた。

「ああ、すみません。心細い思いをさせてしまいましたね」

時計屋は椅子の傍らに行き、それを宥めるように抱き締めた。椅子の上の影は、何1つ言葉など発していない。ただ、彼が一方的に言葉を紡いでいるように見えた。その奇怪な光景に眉をひそめる。隣にいる彼女に視線を向けると、彼女は俯き、オルゴールが入ったバッグを抱き締めていた。

時計屋がボクたちを振り返る。薄暗い部屋が何故か僅かに明るくなった。カーテンが風に揺れ、月明かりが部屋全体を照らし出したのだ。
同時に、椅子の上に座るものに、瞠目した。
――あれが、死んだはずの彼の妻。

「今日は来訪者がいるので『彼女』も喜んでいます」

だが、もし『それ』を彼が妻と呼ぶのなら狂っている。血の気が引いた。白いワンピースを身に纏うそれは、冷たいほど白い肌を持っている。月明かりに光を宿す目玉は、ボクを映した。彼は『彼女』に愛おしげな視線を向け、言葉を紡いだ。

「友人の絡繰師と、――そう、新しいアリス役の青年ですよ」

椅子の上のものは答えない。ただ硝子玉の目は景色を反射するだけだ。
――球体関節人形。
精巧過ぎるほど、限りなくヒトに近く造られた人形。だが生きてない。命がない。動かない。人形は人形だ。

それを妻だと言い張る時計屋に、ボクは怖気と虚しさに胸を掻き毟りたい衝動に駆られた。





20110716

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