「どこまで行くの」

前を歩く背中は、月明かりに青白く透ける。声質から老婆だとばかり思っていたのだが、思いのほかスッと伸びた背に若いのだろうと首を傾げた。先ほどから一言も言葉を発すことなく、暗闇を進んでいく背中を見詰める。

結局付いてきてしまった。
如何に不用心であるかは理解している。しかし得体は知れないが害はないようにも見えた。別に問題に巻き込まれるような事態にはならないだろう。
それに、此処がどこであるのか、見知らぬ風景に多少の戸惑いも感じていた。体を挟むように佇む煉瓦作りの塀は、威圧的にこちらを見下ろしている。時折片隅に咲いた花が夜風に揺れ、燐光をまき散らしていた。……最も、記憶力が悪いわけではないので、帰り道に困るわけではない。見慣れない風景、奇妙な景色に違和感が僅かに発露するも、それを無視して歩を進めた。
興味本位だと言ってしまえばそれだけだ。沈黙を守って前を行く姿は、驚くほど薄く細い。左手に提げている大きなカバンからは、僅かに開いたチャックの隙間で、オルゴールの少年が夜空を見上げていた。

「時計屋に、尋ねるといいかもしれないよ」
「!」

不意に声を発した彼女に、反射的に足が止まる。同時に彼女の声がグニャリと歪んで、嗄れた声が若く艶のあるものに変わった。

「時計屋は、君を知っているし、君は時計屋を知っているかもしれない」
「時計、屋? ……残念だけど僕の知り合いにそんな生業の人はいないよ」
「ふふ」
「?」

僕の返答に、彼女は肩を震わせて笑った。声が、いつの間にか若い女性のものに変わっている。まるで時間を巻き戻したかのような目の前の女性に、背骨がシンと張り詰めた。
――だが、どうしてだろう。
違和感や不可思議を孕む目の前の女性に、僕はどうにも納得してしまっている。現実的には有り得ない、怪奇である。しかしその時の僕にはそれが「当然」のことのように思えた。いや、むしろ彼女はそうあるべきなのだ。得体の知れない確信に、意識が一瞬だけぐらついた。
とっさに理性を総動員させ、現実へと意識を引き止める。そして目の前の背中に問いかけた。

「時計屋に向かっているのかい?」

彼女は足を止める。相変わらず顔はフードの下だ。暗い陰の中に揺れる瞳が、一縷の明かりを宿してこちらを見た。

「いいや」
「ではどこに?」
「ショウフカン」
「え?」

一瞬、何を言っているのか理解ができなかった。しかしその音は瞬時に「娼婦館」という文字に変換される。途端に足は無意識に止まった。激しい躊躇いに顔が無意識に歪む。陰の中の彼女の瞳が月明かりを反射し、猫の目のように光った。

「会いに行くのは娼婦館の男娼だよ」
「だん、しょう? え、娼婦館って……待って、男……?」
「はは、なんて。男娼っていうのは、まあ噂だよ。正確には娼婦館の主さ」
「でも娼婦館って……」
「だから、その主が時計屋なんだよ」
「!」

時計屋が娼婦館の主。
娼婦館に行く理由はわかったが、どうにも釈然としない。何故、時計屋が娼婦館の主などやっているのだろう。訳はあるのだろうが、そうなることになった経緯がわからない以上、警戒心を抱いてしまう。指先に絡み付く夜気を握り締め、彼女の次の言葉を待った。

「『彼』は探し物をしているんだよ」
「探し物?」
「ああ。だから可哀想な孤児を放って置けないのさ。拾って面倒を見るが、それっきり。成長したら女はみんな金を稼がなければならない。しかし若い女が手っ取り早く金を稼ぐ方法はたかが知れてる」
「……」
「時計屋の家が娼婦館になったのは必然だったんだよ」
「その人は、娼婦を追い出さないんだ」
「言ったでしょう。探し物をしてるって」
「何を探しているんだい?」
「――彼の妻と子供の生まれ変わりさ」

彼女は再び足を進め出す。月が分厚い雲の向こう側に姿を消した。彼女の瞳から灯りが消え、冷え冷えとした瞳孔が開く。

「妻と、子供の生まれ変わり?」
「諦めの悪い男さね。いつまで経っても、止めやしない」
「どういうこと?」
「……」

彼女は、その問いには答えなかった。代わりに低い笑い声を漏らし、ゆっくりとした動作で進んでいく。その姿につられて急くように歩き出せば、間もなくして月は再び青白い灯りで視界を包んだ。
同時に、彼女は再び足を止めた。その視線の先には、三階建ての古びた洋館がある。雨風に晒され、塗装が剥がれた壁には蔦がべったりと張り付いていた。しかし外から見える窓ガラスは皆綺麗に手入れされているらしい。外の景色を反射し、暖色系の灯りを漏らす窓に目を細める。中では人の気配が息を潜めていた。ここがそうなのだろうか。洋館から彼女へと視線を向ける。
すると不意に、低く落ち着いた声が前方から響いた。ひどく懐かしい響きを孕んだ声だ。しかし僕はどこでこの声を聴いたのだろう。

「久しい顔ですね。とうの昔に時間を止めたと思いましたが」
「!」

カンテラを揺らしながら、長身の影が近付いてくる。彼女の体が、それに心なしか縮んだ気がした。ゆらりと蠢く漆黒の影が、足首を呑み込む。

「今日はお客様をお連れですか。ずいぶんと若い」
「!」

彼が件の「時計屋」だろうか。月明かりにその青白い貌が照らされる。スペアミントの緩く波打つ髪が夜風に踊る。カメリアを宿した真っ赤な瞳が、カンテラの明かりに揺れた。
――僕は心臓が跳ね上がるのを感じた。
だって僕は彼を知っている。知っているのだ。だが、どうしてだろう。どうにも思い出せない。知っているはずなのに、引き出すべき記憶が見つからない。
彼女は僕にちらりと視線を向け、時計屋に言葉を紡いだ。

「帰り道が知りたいそうだ」
「帰り道?」
「はは、迷い込んでしまったんだよ」
「珍しい。しかし案内人は絡繰師の仕事になったはずでしょう」
「わたしは帰り道など知らないよ。兎じゃないんだから」

絡繰師。彼女は絡繰師なのだろうか。確かに珍しいオルゴールを持っている。自作のものなのか。2人のやり取りを1歩下がった位置から眺める。絡繰師は時計屋からカンテラを奪い取り、屋敷に向かって歩き出した。

「ああ、貴方も良かった中へどうぞ」
「!」

時計屋の声に、僕もまた彼女のあとを追う。
やはり時計屋の彼は、僕が「知っていた人物」に違いない。






20110713

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