開けてはくださいませんか

無色透明な蛍光灯に照らされた空間で、聲が響いた。
空は真っ黒な夜の帳に覆われている。そこに硝子を砕いて散りばめたような無数の星が瞬いていた。街灯に張り巡らされた八角形の蜘蛛の巣が、月光に透明に輝いている。しかしその巣には主たる蜘蛛の姿はない。八角形の水晶だけが夜空の風景の一部として映えていた。
仕事の息抜きに、近くの公園のベンチで缶コーヒーを片手に休んでいたときだった。
両の手のひらに収まる程度の、小さな木箱を大切そうに持った女は言った。僅かに上がった口元は、笑みを作っているつもりなのだろう。ひどく歪な笑顔だった。
私が何が入っているのですか、と問うと、彼女は困ったように眉を下げる。

ひんやりとした夜風が吹き抜け、髪が透明な音を立てる。背後で木々がざわざわと落ち着かない音を奏でた。
…女性は自分と同じくらいか、それより下に見える。いくら成人しているとはいえ、こんな時間に出歩くのはあまり感心できない。それも見ず知らずの他人に声をかけるのだから、不用心にもほどがあるだろう。
しかしその時は妙に警戒心も何も沸かなかった。ただ彼女の表情に僅かに苦笑するだけだった。

「それでも、開けてはもらえないでしょうか」
「では逆に、私が開けてもいいのですか?」

そう問えば彼女はひどく驚いた表情をした。目を丸くして、月明かりを取り込み輝く虹彩が透き通る。そして考えるような素振りを見せて、彼女は言った。

「誰でもいいのです。でも、私ではダメでした。」
「それでは誰でもいい≠セなんて言いませんよ。」
「まあ」

そうかもしれません。苦笑した彼女はゆっくりとした動作で私の隣に座った。
蛍光色の無機質な色に照らされた舞台に、私と女性が並ぶ。なんて安っぽいスポットライトなのだろう。銀幕の中のようなこの空間は限りなく彩色に乏しい。漆黒の硝子の幕で笑うように輝く星だけが華やかだった。
駒送りのようにぎこちない動作を繰り返す。ざわめく木々の静かに柔らかい歓声を受け、彼女は科白を続けた。

「貴方はここの近くに住んでいるのですか?」
「そんなところです。貴女は。」
「私は、近くはありませんが、遠くもありません。」
「一人暮らしなのですか?」
「一人かもしれません。ですが、一人では、ないかもしれません。」
「?」
「こうして外にいれば、誰かと会いますから。いえ、そういう点では一人暮らしでしょうか。」

斜め下、自分のつま先を見詰めながら、彼女は言った。私は彼女と対をなすように、斜め上を見上げる。先ほどの蜘蛛の巣が再び視界に入った。やはり主はいないようだ。風に吹かれてしなやかにに揺れる。星明かりを反射しながら、細く長く尾を引くそれは銀色に輝いた。見ようによっては錯覚で流れ星にも見える。
そんなことを思いながらも、一度視線を下ろして彼女を見た。手に持った缶コーヒーを側にあるゴミ箱に捨てる。一瞬だけ訪れた静寂に、乾いた音がやたらと大きく響いた。

「一人では、どうにも生きづらい世界です」
「その考えには同意できます」
「貴方も、一人なのですか?」

小さく首を傾げながら彼女は口にした。それにふとしたように思いを巡らす。脳裏に浮かぶ組織の面々に、目を伏せた。

「おそらく、一人ではありません。」
「そんな疲れた顔で言われましても、説得力に欠けていますよ。お仕事がお忙しいのですね。」
「そうかもしれません」
「お体は大切にしないと」
「こんな夜遅くにこんなところにいる貴女こそ。体に障りますよ。」
「優しい人なのですね」

彼女は目を細めて言った。そして手に持った箱を撫でながら、愛おしそうに微笑んだ。夜風が冷たい。

「貴女は、ここへよく来るのですか?」
「そんな感じです」
「お一人では危ないのでは」

白い横顔を見ながら言葉を紡いだ。彼女はその言葉に目を丸くする。驚いているようだった。そして一瞬だけ考え込むように視線を落として、不意にクスクスと笑い出した。
蜘蛛の巣が彼女の様子に合わせるように風に揺れる。
何がそんなにおかしいのだろう。眉をひそめた。それに彼女はひとしきり笑った後に、首を傾げながら「貴方はどうなのですか」と問いを口にする。

「貴方もお一人ですよ」
「私は仮にも男ですから」
「しかし、私も貴方がするような心配はありませんよ」
「貴女は女性です。悪漢に襲われでもしたら危険では?」
「そうかもしれませんね」

穏やかな笑みを浮かべ、彼女は答えた。風にフワリと舞い上がる彼女の髪が、月光を浴びて銀色に透き通る。
何の比喩だろうか。冗談か何かだろうと、私は苦笑した。
彼女は手に持った箱へと視線を落とした。私もそれにつられて視線を落とす。

「箱を開けてはくださいませんか」
「……」
「私は開けることができないのです。だから、開けてはくださいませんか?」

特に装飾がされたわけでもない。安っぽい、古びた木箱だ。ただ蓋には唐草模様のような曲線が彫られている。その蓋は金具で止められて、金具は僅かに錆び付いていた。少し躊躇った後に、それを受け取る。金具を外せば箱は簡単に開くようだ。金具自体もずいぶんとガタガタとしていて、力を入れればすぐに取れそうに見える。

「開けてしまったら、蓋を閉じるための金具が取れてしまいますよ」
「構いません。」
「…中に、そんなに大切なものが入っているのですか?」
「……」

彼女は静かに微笑む。

「女性から男性に何かを贈るのは、変だと思いますか?」
「そんなことは、ないと思いますが」
「それには大切なものが入っていました。私が彼≠ノ本来贈る予定でした。ですが彼には必要なかったのです」
「何故」
「彼には、もっと鮮やかなもの似合う。私では、どうにも……」
「つつましいのですね」
「いいえ、私にはそれが限界でしたから」
「では尚更、私が開けてもよろしいのですか?」
「お願いします」

彼女は微笑みを浮かべたままだった。
そして木箱を受け取った私の手の甲に手を重ねる。ひどく冷たい手だった。木箱を大切そうに、私の手越しに包む彼女は目を閉じ、再び口にした。

「開けてください」

金具はやはり、簡単に外れてしまった。蓋が開くと同時に金具は壊れて地面に落ちる。
中には八角形の黒い硝子のようなものがはめられた指輪が入っていた。何かの宝石なのか、ただの硝子の玩具なのか、それはわからない。
そっと手に取り指輪を見詰めた。

「……」

ああ、想い人への指輪なのだろう。何か文字が刻まれている。手に持った指輪を、彼女に渡そうとした時だった。

「それを、貴方へ」
「!」

あまりに突拍子もない言葉に、意味を理解するのに間があった。しかし理解しても尚明らかにそれはおかしい。指輪を凝視した後に、彼女に問うべく隣を見た。

だが、そこには誰もいない。

先ほどまでベンチに座っていた彼女は、そこにはいなかった。
一瞬何が起こったのかわからなかった。夢でも見ていたのだろうか。ゆっくりと辺りを見回す。だが手のひらには彼女がいた証である指輪がある。
彼女はどこに。
混乱しそうな思考を宥め、もう一度指輪を見る。刻まれた文字に目を伏せた。


the light of my life


誰に渡したかったのだろうか。
ふと視線を上げる。先ほどまで主がいなかった巣には、大きな蜘蛛が中心に座していた。





20100811
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