「息が、詰まるんだよ」

ずれた帽子が表情を隠している。不透明な影に呑まれた頬は、どことなく青白く不健康に映った。陰る瞳が何処とも知れない宙を眺めている。人と話す時は目を合わせなさい、と注意したことを忘れたのだろうか。彼は拗ねた子供のように床に座り込み、帽子を一度被り直した。瞳は依然として暗いままだ。被り直して尚、彼の顔に降りた影は深い。……ああ、前髪のせいか。出会った当初より明らかに伸びた彼の前髪は、少しずつ彼の素顔を消し去っていくように覆っていった。彼は自分の爪を眺めるような仕草を私に見せる。それは私が彼と真面目な話をする前に、よく癖でやる仕草だった。今回はずいぶんと巧妙に話を切り出すなあ、などと小さく苦笑し、彼の帽子を奪い取る。

「何、何かあったの?」
「う……ん、あったかなあ」
「曖昧だね。解けない問題に直撃とか?」
「そんなものないよ、君じゃないんだからさ」
「じゃあ何ですか、Nさん」
「そ、その距離感ダメ! やだ! やめて!」
「はいはい」

奪われた帽子を素早く奪い返す姿に笑いを零すと、彼は再度被り直した。やはり前髪が長い気がする。床に座ったままの彼を手を引き、やや強引に立ち上がらせる。そして話をするなら、と椅子の前まで背中を押していくと、彼は少しだけ眉をひそめた後に腰を下ろした。その向かいに腰を下ろし、目の前にある瞳を見る。

「それで、何に息が詰まるの?」
「!」
「厭なことでもあった?」
「……」

首を傾げると彼は目をそらした。どこか落ち着かない様子で私と目を合わせまいとする彼に、つい再び苦笑した。沈黙を置きながら言葉を待つ。彼は何度か私の顔色を窺うように見た後、ゆっくりと口を開いた。

「たとえばの、話」
「え?」
「何もなくなってしまったとする。君はどうする?」
「唐突過ぎて意味が全くわからないよ」
「だから、えっと、そうだ、ボクがいなくなったらどうする?」
「何もなくなるとNがいなくなることはイコールなの?」
「違うの?」

首を傾げる彼に、つい複雑な気分になってしまう。彼と私では、世界の広さも構成要素も違う。私は彼以外との人間関係を蜘蛛の巣の如く多岐に渡って持っている。外に出れば母校や親戚、仕事場とずっと広い世界がある。その中では、時間の経過と共に疎遠になった知人もいるし、今も付き合いのある友人もいる。しかし疎遠になっからといって、別段寂しさなど覚えはしない。時間の流れに棹されるままに、愛着が薄れる人間は存在を忘却される。私にとっても、おそらく相手にとっても、互いにその程度の存在なのだ。彼も、そのほんの一端に過ぎないのだ。
ただ、彼の世界はあまりに狭いばかりに、「私」が少しばかり存在を誇示しているだけだ。彼は、「彼自身」が私の世界で同じように機能していると思っている。

価値観も思考も何もかもが未発達な人間だ。まだその過程にある。私の答えを待つ彼に、少しの罪悪感を感じながらも口を開いた。

「違うよ」
「……」
「少なくとも、私は違うかな」
「じゃあ、君はボクが消えても平気なんだ」
「最初は寂しいだろうけど、きっとNがいないことに慣れてしまうよ」
「慣れる……」
「人間は、環境に適応しながら生きていく生き物だからね」

人間だけではない。生命はいつだって、自分が生き延びるのに最も相応しい「己」を選択し、捨ててきた。必要な器官を発達させ、不要な器官は退化し消え去った。それを進化と呼ぶか進歩と呼ぶかは知らないが。
ならば、「慣れ」とは精神が下す進歩だ。自分の思考を脅かすものを除外する。不要だと感じる記憶を麻痺させる。
自己保身の本能そのものだ。

「それは、やだな」
「……Nはこれから私なんかあっという間に忘れてしまうほどたくさんの人と会うんだから」
「君は埋もれてしまうの?」
「そうだよ、それで、簡単にサヨナラ」
「世界は、残酷だね」
「残酷だけど途方もなく広い。だから、たまに気まぐれに優しいこともあるかもしれない。Nはそういう広い景色を自分で見ていくんだよ」

――狭い世界を、「あの人」から押し付けられるわけでもなく。

「だから、そのためにはまず長く伸びた前髪を切ろうか」
「え?」
「目にかかってるし。見づらいでしょ。切ってあげる」
「い、いいよ」
「私のこと信用してないの」
「だって怖いでしょ」
「大丈夫」

逃げようと立ち上がるNを、再び強引に座らせる。ヘアカット用の鋏なんて、大したものはないが良いか。適当に見つけた鋏を引き出しから取り出し彼の前に立つ。少しだけ不安そうに顔を顰める彼の頭を宥めるように撫でた。柔らかい髪質を指先で梳き、そのまま頬の輪郭をなぞる。

「ねえ」
「なに?」
「もしボクが何年経っても君を忘れなかったらどうする?」
「……」
「ボクだけが覚えてるかな。それとも君も覚えてるかな」
「1つ、言い忘れてた」
「?」

しゃき、と毛先を切り、一度指を止める。出会った当初と同じ長さになった髪から青い瞳が覗いた。

「思い出すんだよ。人って」
「!」
「忘れても。思い出せるんだよ。記憶から消えたって、もっと深いところで覚えてる」
「なんだ。じゃあ、会いに行けばいいんだろ。会いに行けば、ボクたちは……――」
「!」

不意に、腰に彼の腕が絡み付く。お腹に押し付けられる体温に、一瞬だけ体が強張った。不意に訪れた体への衝撃に戸惑いながらも、何気なしに彼の背中を撫でる。
……少し、言い方が悪かっただろうか。純真無垢で、疑うことを知らない彼からしたら、突き放されるような言い方だったかもしれない。傷つけてしまっただろうか。謝罪の言葉が脳裏を巡る。
何度かあやすように背中を撫でた後に、持ったままだった鋏を置いて抱き締めた。ゴツリとした肩の骨の感触に、少しだけ悲しくなる。

「ボクたちは、埋もれなければいいな」
「……」
「同じ目線で、世界を見ることなんかできないけれど」
「そう、だね」

同じ時間を共有した事実だけは、失ってしまわないよう。

「そんなふうに生きていけたら、いいな」

出会いの1つすら大切したいと微笑むのなら、なんて夢現なことだろう。
望んでいない環境を、閉塞した世界を、空っぽの時間を、傷を重ねていくだけの過去を、悲痛なだけの物思いを、――自分を侮蔑する肉親を。出会ったことを後悔せずに生きていけたら、なんて綺麗な人生だろう。どんなに倖せで、悲しい毎日だろうか。誰かを責めない人生ほど苦しいことはない。そんな苦悶を選びたいと言うのなら、人はバカだ偽善だと嘲笑うだろう。だけど。

「そんなバカほど、愛おしいものかもしれないね」
「え?」
「Nが倖せになればいいって話」
「ほんと?」
「ほんとう」
「そっか、うん、息、楽になったかも」
「!」
「視界も少し良くなったし」
「あはは、それは前髪切ったおかげだね」

笑いながら抱き締めていた腕を離す。彼は椅子から立ち上がり、もう一度腕を伸ばしてきた。ただその体温に身をゆだね、彼の背中に腕を回す。柔らかい体温と優しい匂いが鼻孔を満たした。ふわふわとした温かさに目を細める。手の甲に触れる緑の髪が少しだけくすぐったい。頬を寄せたその胸からは、服越しに鼓動が響いた。背中に絡み付く腕に力が加わる。

「……行くのでしょう?」
「うん、でも、きっとまた会いに来るよ」
「せっかく柵から解放されたんだから、ちゃんと世界を見て勉強してきてね」
「あと、ちゃんと向き合うべき人と向き合わないとね」

たとえ、その心が凌駕されたままでも。

「……よし、大丈夫。もう大丈夫。ちゃんと、世界を見てくる。ただ……」
「?」
「挫けそうな時は、帰ってきてもいいよね」
「いつだって待ってるよ」

ゆっくりと離れていく体温を名残惜しげに手放した。踵を返し、背中を向けるその姿を見詰める。揺れる緑の髪が、優しく寂しげに揺れた。

「――行ってきます」
「いってらっしゃい」

遠い空へと飛び立つ背中に祈る。どうか倖せの門出となるように。どうか、新しいモノを見つけられるように。新しく生まれ変わった君を祝福する。だから。

「さよなら、王様。――よろしく、これからのN」

誰よりも君の倖せを願っている。


I love you so much..



20110508
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