※短編「Utopia」その後


湿った空気が呼吸器を満たした。
ひんやりとした気体が肺腑を満たす感覚に、ぼんやりとしていた意識が僅かに覚醒する。
頭上ではバタバタと慌ただしく雨音が響き、覚醒した意識に曇りをかけた。
けだるさを覚える体を叱責し、ゆっくりと立ち上がる。
途端に遠くで響いていたようなデパートのアナウンスや軽快な音楽が、耳元までやって来る。
高い位置にある壁掛け時計は、予定の時間より二十分過ぎていた。
自動ドアを抜け、横をすぎていく笑い声にますます意識に曇りがかかった。

誘ったのは私だった。
土曜日は暇だと呟いた彼に、ミナモのデパートに行かないかと提案した。
別に欲しいものがあった訳じゃない。
ただあのまま趣味の採掘に行かせてしまうのが嫌で、予防線を引いただけなのだ。
彼が昨日一度カナズミに戻ることもあり、待ち合わせは現地にした。

今は、待ち合わせの時間をとうに過ぎている。
運悪く雨も降っていた。
デパートの入り口で、私はどこを見るわけでもなくぼんやりと宙を見て彼を待っている。
中で待とうとも思ったのだが、きっと彼は私を見つけないだろうから。
大勢の人混みの中で、彼は私を見つけられないだろうから。
私は彼にとってそういう人間だ。
きっと有象無象の一つに過ぎない。
私から積極的に関わろうとしなければ、彼との繋がりなど簡単に消えてしまう。
きっと、私の一方通行な繋がりなのだ。
だから、私が彼を見付けるしかない。
私が帰ってしまうようなことがあったら、彼は困ったような顔で待つに違いない。
彼は、そういう人間だ。

(電話しようかな)

あと十分たっても来なかったら。
同じことを五分前にも思った。
神経質に時計を見て、人影が見えるたびに過剰に反応した。
でも電話した途端に彼の姿が見えるような気がして、変に気を取り直した。

彼は。
あの日から何一つ変わらずにいる。
でもたまにあの日同様にスーツ姿で洞窟に行って、泥だらけになって帰ってくることがあった。
そのたびに笑いながら言う。
「まだ、見つからないんだよ」と。
彼が何を探そうとしているのか、私は知らない。
いや、知っているが、解りたくないのだろう。

彼は閉塞していた。
何がそんなに悲しいのか。
何がそんなに虚しいのか。
何がそんなに辛いのか。
何がそんなに苦しいのか。
何をそんなに嫌悪しているのか。
彼は自分で作り上げた世界に独りきりでいるのを好んだ。
だからといって他人を避けているわけではない。
ただ社会と隔絶した自身の世界を好んだだけだ。

ただ、そう。

彼は、この世界が嫌いなのかもしれない。

だから私は、彼をそこから引きずり出したいだけなのだろう。
このままでは彼が得体の知れない何かに連れて行かれてしまうそうだから、必死にこちら側に引っ張っているのだろう。


「ごめん。待たせたね」
「!」

不意に、目の前が翳り柔らかい声が降ってくる。
視線を上げれば、見慣れた銀色が揺れた。

「ダイゴさん、待ち合わせ時間覚えてましたか?」
「会社から出るのに手こずったんだ」
「……」
「お詫びに何かおごるよ」
「もう、いいです」

薄く濡れたスーツに、少しだけホッとした。
急いで来てくれたのだろう。
傘をさしていたのに、濡れるなんて。
目を細めながらタオルを差し出した。
苦笑混じりに受け取る彼に、つられて笑う。
そして中に入ろうとする彼を思わず引き止めた。
不思議そうな顔で、「待っている間に買い物は終わっちゃった?」と口にする彼に、私は曖昧に返した。

「そっか。じゃあ……」

彼は後ろを振り返る。
雨がいつの間にか小降りになっていた。
辺りは薄暗い。
もともと待ち合わせをした時間が夕方だったから、あと少しで日が落ちるのだろう。
そんなことを思ってるうちにも、雨は確実に止んできている。
聴覚に耳鳴りのように纏まりついていた雨音が止む頃、彼は再び口を開いた。

「歩くかい?」
「そうですね」

もともとデパートに用があったわけでもない。
少し申し訳なさそうに口にした彼に、苦笑しながら、折り畳んだ傘を手に歩き出した。


***


「曇天の下の海岸で散歩、ですか」
「誰もいないね」
「まあ……」

いたらいたでどうかとは思うし、いる私たちはどうなのだろう。
苦笑しながら彼の隣に並ぶ。
すると一度だけ、ハナダ色の瞳が私を見た。
そしてそれはゆっくりと海に向けられる。

鉛色の分厚い雲に覆われた空。
その色を移した海の色。
鈍く重い色が、彼の髪に反射した。


「風邪を引きます」
「平気だよ」

バシャバシャと水音を立てて、彼は水面に向かって足を踏み出す。
水しぶきと波紋が大きく広がった。
膝の辺りまで浸かったところで、立ち止まる。
不気味なほど黒く静かに広がる海に、彼の影がポツリと浮かんだ。
黒い海と黒い空に、彼の体が溶けてしまいそうだ。
そのまま海底に引きずられ、呑み込まれてしまうのではないかと、不安になった。

「このまま」
「!」
「消えたいなあ」

振り向きざまに、情けない笑顔で彼は言う。
波が緩く砂浜を這った。
心臓を締め上げられるような感覚に、私は無意識に駆け出す。
濡れるのも気にしないで、彼の目の前まで歩を進めた。
細められる青い瞳が、泣き出してしまいそうなほど揺れている。

「ダイゴ、さん」
「なんて、言ったら怒るかい?」
「帰りましょう」
「……」
「もう、帰りましょう」
「ねえ」
「……」
「怒ってよ」
「え……」
「バカなこと言うな≠チて、怒ってよ」
「……!」

海水に濡れて冷えた手のひらが、私の手首を握る。

「でないと、僕は消えてしまうよ」
「ダイゴさん」
「君は、いつもそうだから」
「……?」
「ねえ、」

手首を引かれ、大きく前に踏み出す。
バシャンと音を立てて波紋と飛沫が広がった。
目の前には彼の首があって、聲は頭の上から降ってくる。
表情は見えなかった。

「理想郷が、まだ見つからないんだ」
「そんなの」
「こんな中途半端な暗闇じゃ、まだダメなんだ」
「……」
「ねえ、海の底なら、あるのかな」
「ダイゴさん」
「君の理想郷は、どこにある?」

緩やかな波が脚に纏わりつく。
体温を攫っていく。
私は途端に恐くなって、彼から一歩離れた。
そして今度は彼の手首を私が掴み、海岸へと引っ張っていく。
日は完全に落ちていた。

「ないんです、どこにも」

砂浜まで来て、私は言った。
握った手首が冷たい。

「そんなもの」
「……」
「あったら、ダイゴさんはそっちに行ってしまうんでしょう」
「さあ」
「だったら、ない方がいいんです」
「……」
「私の前からダイゴさんを連れて行ってしまうだけの理想郷なんか、見つからないままでいいんです」
「……」
「だから」


哀しいこと言わないでください。


「ダイゴさんは、人混みから私を見つけられないのに。だから私がいつも探してダイゴさんを見つけてるのに」
「……」
「理想郷になんて行ったら、余計わからなくなるじゃないですか」
「そうかな」
「二度と、会えなくなっちゃうますよ」
「それはやだな」
「……」
「見つけられないけど、見つけてもらえないのも嫌だな」
「それでも探すんですか」
「……たぶん」

彼は困ったように笑った。
分厚い雲が消え始めて、紺碧の色が見え隠れする。


「僕はまだ、ここにいるよ」


否定でも、肯定でもない。
静かに彼は海を臨んだ。
私もつられて海を見る。
雲の隙間から、欠けた月の姿が見えた。
真っ黒な海に欠けた月が反射して映る。
彼はゆっくりと私の隣に移動して、私が掴んでいた手を握り返した。


「君がいる間は、たぶん、ここにいるよ」



真っ黒な世界で、二つの欠けた月が向き合っていた。






20100717
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