久しぶりに見た彼は泥だらけでトクサネの自宅に帰ってきた。大方趣味の石の採掘にでも没頭していたのだろう。ただ驚いたのは、それが作業着ではなくスーツ姿だったということだ。いくら彼でもスーツ姿でスコップ片手に洞窟は掘るまい。笑いながら「いたんだね」なんて言った彼に、とりあえずタオルを投げつけてやった。
「お風呂入ってきてください」と泥だらけのスーツに眉をひそめながら言えば、彼は素直に頷いて風呂場に向かう。
間もなくしてシャワーの水音がしんとした空間に響き渡った。

ぼんやりとそれを聞きながら彼が出てくるのを待つ。窓から見える海は波もなく穏やかで、空との境界線が分からないほど真っ青だ。まるで窓枠を額にした絵画のようだと吐息を点く。海の色は、確か空の色を反射していたのだったか。しかし何故よりによって「青」を選んだのだろうか。海がまとうその色は、ある種の悲しみの象徴である。或いは総てが還る場所だからこそ、「あい」を抱えているのだろうか。
「哀」、「愛」、「藍」。連鎖する言葉に、海は深さを増した気がした。
そんなことをぼんやりと思いながら、穏やかさに身を委ねるように、椅子の背もたれにだらしなく身を預ける。途端に波のように思考をゆったりと眠気が飲み込んだ。微睡んできた意識に、瞼をゆっくり閉じた。

「いつまでいるの?」
「!」

不意に、鼓膜を揺すった声に我に返る。正直ぼうっとしていたせいか、驚き過ぎて飛び上がってしまった。ゆっくりと風呂から上がったらしい彼に目を向ければ、私の反応が意外だったのか、キョトンとした表情をしている。

「ああ、ごめん。そういう意味じゃなくて、いつまでいてくれるのかなって」
「え、あ、はい。まだ、そこまでは考えて……」
「そっか」
「それに、そっちこそどうなんですか?」
「え?」
「いつまでここに? また近いうちに出て行かれるんですか?」
「ああ、うん、ボクもまだ考えてないかな」
「そうですか」

うん、と、再び頷いては彼は濡れた髪をタオルで雑に乾かす。そしてテーブルを挟んで、私の向かいに腰を下ろした。表情には薄い笑みが浮かんでいる。細められた彼の瞳は、海と同じ色をしている。
それをなんとなく眺めて、ふとしたように思い浮かんだ疑問を口にした。

「そういえば、どうしてスーツなんか着て泥だらけになってたんですか?」
「!」
「石の採掘の時は作業着をいつも着てるでしょう?」
「そうだね」

別に石の採掘をしてたワケじゃないから。そう彼は付け足した。それに思わず目を丸くする。では何故あんな泥だらけに? そんな疑問を抱くが彼は笑いながら「穴を掘っていたんだよ」としか返さなかった。
意味が分からず首を傾げた。矛盾しているようにも思える応答に、彼を見ながらつい眉をひそめる。
(からかっているのだろうか)
すると私のそんな表情に彼は気付いたのか、困ったように笑う。
そしてたっぷりと間をおいた後に「じゃあ、」と話題を変えるように口を開いた。

「……ユートピアは何処にあると思う?」
「ユートピア?」
「そう、理想郷」
「……」

理想郷、と頭の中で反芻して再び首を傾げた。何故突然そんなことを聞くのかというのもあるが、それ以上に彼の表情がどこか陰っていたからだ。
いつもいつも読めない人だとは思っていただけに、時折影を見せる姿にいつも戸惑ってしまう。
その時に限って、いつかこの人を見失うんじゃないかという錯覚さえ抱くのだ。
ただそれを私が恐れている、のかは分からない。

「君にとっての理想郷は、何処にある?」
「そんなの」

わかるわけがない。

「ボクは、きっと暗闇の中にあると思うんだ」
「暗闇?」

そう問えば、彼は目を瞑った時に得る安寧だと答えた。
汚いものも醜いものも、目にしたくないものがない世界。それが理想郷だと。
でもそれは、転じて今生きるこの世界に否定的だというこではないのだろうか。生まれたことへの、失望ではないのだろうか。
そうだと、悲しい。

「そうだね」
「ダイゴさん」
「なに?」
「どこかに、行ってしまうんですか」

貴方が描く理想郷に。

「そのときは君も招待するよ。来てくれたら嬉しいな」
「はい」


彼は笑った。
そして翌日には既に家を出て行った。私は窓からその背を見送りながら、胸中に痼りのように残る違和感に目を伏せる。

私は私の理想郷をまだ見つけてない。
彼は自分の理想郷を見つけ、それに取り憑かれたように探し回っている。
今日もまた、暗闇を掘り進んでいるのだろう。
思うたびに不安になる。





それがどうしても、彼が自分が永眠につく場所を探しているように思えて、私はならないのだ。







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20091231
修正20110809
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