王の言葉を聴け

素数は真実へと繋がる



白い湯気が消えた。とうとう紅茶も冷め切ってしまったようだ。未だ動こうとしない背中に、私は声をかけるタイミングを掴めずに口を噤む。
いつも遠目に見ていた緋色の瞳は、先ほどからずっと書物に視線を落としている。私はそれを少し離れたところから眺めていた。壁という壁は、本棚とそこに並べられた本で埋め尽くされている。鼻孔を満たす本特有の乾いた匂いや埃の匂いに、呼吸を細くした。
城の奥にあるこの図書室は、その辺にある図書館よりも倍以上の蔵書量を持っている。使用者は専ら七賢人の方たちだが、別に団員が立ち入ってはいけないわけではない。ただこの部屋に立ち入るくらいなら、団員たちは皆出払って目的達成のため動くことを選ぶのだ。そうなると必然的に、ここへ立ち入る人間が限られてくる。
数少ない図書室への訪問者を視界に収めてから、もうどれほど時間が経ったのだろう。
そばにある椅子に座り、紅茶が2つ乗ったお盆をテーブルに置いた。冷めた紅茶を口に運ぶ。あらかじめ自分の分には角砂糖を2つ落としていた。冷たい甘味が口内にひんやりと広がった。

「……言いたいことがあるなら、早く言えばいいだろう」
「!」

不意に響いた声に、肩が強張る。震えた歯がカップの縁に衝突し、ガチリと音が小さく響いた。視線を合わせることもなく、私に向けられた言葉が無機質に余韻した。

「紅茶を、お持ちしたのですが、冷めてしまいました」
「……」
「新しいものを、入れてきます」
「いい。構わない」

そこでやっと、その人は私を見た。視線を合わせるのは、おそらく初めてだった。ゆっくりとした動作でこちらに来て、私の向かいに座った。そして冷え切った紅茶を無表情で口に運ぶ。
……同時に僅かに表情が曇った。発露する罪悪感に、やり場のない視線があたりをさまよう。やはり入れ直してくれば良かった。今一度盗み見るように緋色の瞳を見て、視線を自分の手元へと落とした。冷えた赤い水面がカップの中で揺れる。
何をしても上手くできないから。
せめて、誰にでもできることくらい、できるようになりたかった。カップの中の赤い海は、私を映して静かに波紋する。

「サザナミにある」
「!」
「海底遺跡を、知っているか」
「は、い」

唐突に発せられた言葉に、弾かれるように顔を上げた。どくどくと波打つ鼓動に、手のひらを握り締める。次こそ、失望されないよう、答えを慎重に選ばなければ。
緋色の瞳は満足そうに頷いた。それに体の奥が張り詰める。

「そこには、私たちの父と母が眠っている」
「わたし、たち?」
「そうだ。忌々しい血の始まりだ」
「!」

徐に、その人の手が私へと伸びてくる。大きな手のひらは頬に触れ、指先が瞼をなぞった。

「捻れた遺伝子と、合わない染色体の数」
「……」
「奇形児は、お前で最後だ」

――切り離すことで、私たちは解放される。
その人は、口端を僅かに釣り上げた。

私には、生まれつき右腕がない。この人は、父は、生まれつき、右目がない。Nは、体に異常なく生まれてきた。末子の代になって、ハルモニアの血は初めて奇形児の系統から外れたのだ。

遠い昔、人とポケモンは契りを重ねた。合いの子を生んだ。異種同士の子供は、確かに普通の人間ではない、ポケモンの言葉を解するという能力を備えてきた。しかしその代償に、人でもなく、ポケモンでもない、化け物へとなった。
遺伝子の中の、染色体の本数が合わないのだ。1本でもずれれば、人は完全な人として生まれてこない。生まれてきたのは、奇形児ばかりだった。しかしそれを神の子だと、王だと、当時の一族は祀り上げた。そして血を濃く残すため、近親婚を繰り返し続けた。
2つの異種によって生まれた遺伝子。だがそれは、後世に呪いとして継がれていく。

「Nこそが、真の王になる」
「……はい」

人型でありながら、ポケモンの言葉を解する生き物。Nは、ハルモニアの血が求めた理想の形だったのかもしれない。

王は2番目の角を曲がる
王は3番目の角を曲がる
王は5番目の角を曲がる
王は7番目の角を曲がる


「長かった、私たちの苦しみの日々も、終止符が打たれる」
「はい……」

王は全ての存在と話す

「これで最後だ」
「……」

緋色の瞳は鋭利に光る。私の頬を触れていた手はいつの間にか離れ、その人自身の右目にあてがわれていた。
空っぽの右目。
空っぽの右袖。
父には目がなく、娘には腕がない。最後に生まれた男の子には、欠けることない体がある。
私はきっと、弟が羨ましい。
何も欠けていない。
何も失わずに生まれてきた。
父と同じ色の髪。
母と同じ色の瞳。
父が大好きな母の瞳。
私には、ないものだった。
私の中には、痼りのような羨望が鎮座している。
脳裏に浮かび上がる淡い緑色の髪に、右の義手がキリキリと音を立てた。

「お前には、今後もNの監視役を任せる」
「はい」
「それと、この間玩具を1つ壊したらしい。適当に何か遊び道具を与えておけ」
「……はい」

義手の付け根が軋む。肌が引きつり、痛みにも似た違和感が走った。
この人はいつも、いつも、弟のことばかりだ。
冷たくそらされる瞳に、更に右腕が重くなる。
中途半端にカップに残った紅茶を一瞥して、父は立ち上がった。私はそれが無性に寂しくて、反射的に口を開く。

「――おとう、さん」
「……!」

不快感に歪む顔。
ごめんなさい。嘘です。ごめんなさい。もう言いません。ごめんなさい。
父と呼ばれることを嫌悪する瞳に、私はただ戦慄して硬直した。言ってしまってから激しい後悔に襲われても遅い。小さく吐息をついた父は、左手で私の義手を掴み上げ、勢い良く引いた。

「……!」

均衡を失った体が、大きく前に傾く。その人の空いた右手が私の首を掴んだ。気道を押し潰すその指に、酸素を求めて口を開く。近付いてきた赤い瞳が、爛々と嫌悪に揺れていた。

「心配しなくとも」
「!」

左手も義手を離し、首を掴んだ右手に添えられる。喉が緩やかに圧迫されていく。爪が食い込み、赤い筋が一縷走った。

「お前は殺してしまいたいほど憎らしくて愛おしい娘だ」
「――」

突き飛ばすように離され、近くの本棚に背中を打ち付ける。その衝撃で、本が何冊か床に落ちた。肺に一気に流れ込んでくる空気に激しく咳き込む。視線も向けずにさっていけ背中に、私は何も言えなかった。







王は2番目の角を曲がる
王は3番目の角を曲がる
王は5番目の角を曲がる
王は7番目の角を曲がる


その通り城の角を曲がる。歩を進める。足を止める。
あの後、私は独りきりになった図書室を後にした。喉に鈍い違和感を携え、覚束ない足取りで廊下を進む。途中すれ違った団員が懸念の視線を向けてきたが、全て黙殺してきた。でなければ、泣いてしまいそうだった。
――私は、ただ、家族が欲しいだけだ。
それを厭う父と、それが何たるか知らない弟。
無知であることが幸せなんだと、幾度も思う。

――視界に映る大きなドアをノックした。
中に入るよう促す声が響き、私はドアを開ける。

「nameだ」
「こんにちは」

私を姉だと知らない弟は、ただ柔らかい笑みを向けてきた。その腕には、包帯が巻かれたエルフーンがいる。床に散らばった玩具を器用に避けながら彼は私の前まで来る。シャドーブルーの瞳が瞬いた。

「どうしたの、首、血が出てる」
「大丈夫。平気」
「そう? ねえ、僕が手当てをしてあげるよ。最近は包帯を巻くのも大分慣れて上手くなってきたんだ」
「……」

エルフーンの腕に巻かれた包帯を見せる。丁寧に巻かれた真っ白なそれは、優しく傷口を包んでいた。笑みを零すと、彼はエルフーンを一度床に下ろし、包帯と消毒液を手に取る。

「痛いとか辛いとか苦しいとかはね、我慢するのではなく誰かに訴えるものなんだって」
「!」
「ゲーチスが言ってたよ。だからnameも我慢したらダメ」
「そ……なんだ」
「いい? ダメなんだからね。わかってる?」
「……」
「! どうしたの? どこか痛いのかい?」
「……平気」
「何で泣くの? やっぱり痛いんだろ? それとも僕、気に障ること言ったかい?」
「大丈夫だってば」

どうすれば、愛されるだろう。
不安げな顔で私の背中をさする彼に、ついぞ嗚咽が零れた。背中に伝わる体温が優しく心中を抉る。義手の付け根が痛んだ。左手でそれに触れる私に彼は声を上げる。

「なんだ。そこが痛いんだね」
「……!」
「大丈夫だよ。今はちょっと疲れてるだけさ。すぐに痛くなくなるよ」

視線を合わせて彼は言葉を紡ぐ。屈託なく笑う瞳に、たまらず罪悪感が込み上げた。

王の言葉を聴け

「たまには右手も休ませてあげないとダメだろ。だから痛くなるんだ」
「別に何もしてないよ」
「今日だってゲーチスに紅茶運んでただろ」
「……私が入れるものはね、不味いんだよ」
「嘘だ。だって、紅茶が嫌いなゲーチスが飲んでるんだもの」
「……!」

反射的に目を見開く。
彼はキョトンとした表情を見せるが、すぐに笑った。

「いいなあ、name」
「!」
「僕も、ちゃんと子供扱いしてもらいたいな」




20110115
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