夜の闇は恐ろしい。途方のない暗闇が口を開け、舌を覗かせ妖しく手招いている。その向こう側に行ってしまったら、きっと溶けて消えてしまうのだ。「私」の殻がどろどろに溶けて中身が霧散する。確か、絵具はたくさんの色を混ぜ合わせているうちに黒になるのだそうだ。この暗闇の色は、私たちがいずれ還る色だ。



「眠れないんですか?」

テラスに出た時だった。偶然見えた銀色に声を投げつける。月も雲の向こう側へと姿を消した夜空は一段と暗い。気まぐれに佇んでいる街灯だけが、その空間の灯りだった。
彼は横目に私を見やるだけで答えはしない。束ねられた銀色に流れる髪が、風に所在なく揺れるだけだ。冷たく輝く髪は、暗闇の中で強い存在感を放っていた。

名前も知らない彼の姿を見るようになったのは、ここ1ヶ月の話だ。
私が住むこの小さな家の近くには、廃屋と思われていた大きな屋敷があった。街では有名な幽霊屋敷だ。柵や壁には伸びきった蔦が這い回り、庭は好き勝手に雑草が荒らしている。崩れ落ちた煉瓦の壁からは、屋敷の中の一部が剥き出しになっていた。脚が折れたテーブルや、綿が漏れたソファー、苔むした絨毯から客間だと思われる。更に屋敷の大きな玄関の扉のドアノブに絡みついた蔦からは、ここを決して開けるなという拒絶の意志を向けられているようだった。

そんな屋敷に、1ヶ月前から住み着いた人がいた。
この銀色の彼と、その主人らしい緑色の髪の男性だ。詳しいことは一切知らない。主人らしき男性がどこか不調に見えたことを思うと、療養のためなのかもしれない。
ある日あの荒れ放題だった庭は静かに手入れの行き届いたものになり、壁や柵に絡みついていた蔦は綺麗に取り除かれていた。……だが、依然として屋敷全体からは拒絶の色が滲み出ている。
この幽霊屋敷は、新しい主人を得て更に孤立しているように見えた。

そんな幽霊屋敷の住人と思われる彼を見かけるのは、3度目だった。
彼らは寡黙なのか、話す気がないのか、或いは私に全く関心がないのかはわからないが、こちらの問いかけには無反応だった。しかし何故か私が部屋の中に戻るまで、まるで話を聞いているかのようにずっとそこにいる。私はそんな彼に一方的に話しかける。そんな奇妙な交流を繰り返していた。

「眠れない夜って、意味もなく不安な時があるんですね。将来のこと考えたり、友人関係に強迫観念抱いたり、なんだか嫌なことばかり思い出して自己嫌悪したり」

彼はどこか遠くを見ている。その背中で波打つ髪を目で追いながら、私はぼんやりと言葉を続ける。

「暗闇って、自分は1人だって自覚させるんですよね。みんな眠ってる。私は起きてる。その小さな現実すら孤独感を煽るんです」

私の場合。

「何も見えないと、不安だから。怖いじゃないですか。静かで、聞こえなくて、見えなくて。だから自分の頭の中にあるものを思い浮かべて、気を紛らわすんです。で、その結果嫌なこととか不安ばかり考えてこの始末。だから自分以外に起きてる人を見つけると嬉しいんです。ひとりじゃないから」

そう言って笑うと、彼はこちらを振り向いた。翡翠色の瞳だった。街灯に照らされ、瞳孔が光を求めて更に広がる。どこか虚ろにも見える瞳は、硝子玉のようだった。
……反応をされるのは初めてだろう。目を見開き、その硝子玉を覗き込むように首を傾げる。しかしその視線はすぐに逸らされた。
月が雲の間から気まぐれに顔を出し、辺りが僅かに明るくなる。

「……私、やっぱり夜は嫌いだなあ。眠れないのは怖い」
「……」
「なんだか、暗いと虚しくなりますよ」

再び月が隠れた。冷たい風が吹き抜ける。すると先ほどまで視界に映っていたはずの彼の姿はなかった。
すると不意に、頬の辺りに熱が灯る。驚きに反射的に一歩身を引いて振り向くと、彼がいた。その片手には橙の灯りを灯すカンテラが携えられている。

「え、なんですか」
「……」

彼は何も答えない。代わりにそのカンテラを私の傍らに静かに置いた。橙の灯りが揺れる。

「あかり……」
「え?」
「暗闇を恐れるのならば、あかりを灯して寝ればいいだろう」
「!」

喋った。
彼の声は初めて聞いた。もちろん彼が主人と話しているような姿を見たことはある。しかし遠目で見るのみであって、声や話の内容など聞いたことがない。
思わずポカンと彼を見つめていると、彼は無表情のまま踵を返した。

「寝ろ」

まばたきひとつでその場から姿が消える。私は思わず足下のカンテラと彼がいた場所を交互に見ながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。




一時期連載にしたいなとか思ってたお話
前サイトから修正して再アップ

20130101
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