▽孤絶された王様


母が言った。
「お前を生んだことが私にとって一番の後悔よ」
亡き彼女が言った。
「貴方が生まれてきてくれて良かった」
いつだって思考を呑み込むのは前者だ。
優しさには慣れていなかった。暖かさにも慣れていなかった。だから、明るみに近付くほど影は濃く深く精神に根付く。
どんどん泥沼のような世界の中に沈んでいく。彼女を喪った今、抜け出すすべは持ってない。苦しい。息をしていると、苦しい。全身に纏わりつく疲労に、ゆるゆると呼吸を止める。

生き方も、倖せも、救いも、誰も、教えてはくれなかった。






それから2日。私はその彼の家で過ごした。
肝心の遺跡が海底にあるのだから、さすがに簡単に訪れることはできない。調査をしたいなら、それなりの手続きを管理者としなければならないし、水ポケモンも必要だ。何よりも海底、特に遺跡の中は、構造上なのか流水が強いところがあるらしい。一般人には危険で、無断で入ることは許されない。今回の遺跡の訪問は、いつか考古学者になった時に回した方がいいだろうか。

ちなみに彼はこの家に来て以来、1日の大半をぼんやりと何もせずに過ごしている。やはりいろいろと思い出すことがあるのだろう。
昨日の夜は、リビングで海を眺めながらシルバーリング見つめていた。そのリング自体見るのは初めてだった。おそらく結婚指輪か何かだろう。指に嵌めず、ただ大切に持ち歩いているのが彼らしかった。

――しかし今は何よりも、あの日の彼の話が頭から離れない。

他人事のように、だが、まるで自嘲するかのように。神話を語った彼の様子が、今までとは違うことくらい気付いていた。
失望しきった瞳で、諦めた様子で、厭きた口調で、それはどこか彼自身を語っている節があった。
彼には生への執着というものが見受けられない。嫌っている。嫌悪している。厭っている。拒絶している。世界を。今を。自分を。

『現実は詰まらない。くだらない。そういうものですよ』

現実は、彼にとって、価値のないもの。

「あ……雪……」

窓の向こう側で雪がゆっくりと地へと降りてくる。暖房が効いた家の中にいるはずなのに、何故か体が震えた。





それから私がリビングに向かったのは、昼過ぎだった。
今日は朝食時にリビングに行ったきり、借りた部屋で本を読みあさっていた。すっかり没頭していたため、昼過ぎていたことにも気付かなかった。途中のページに栞を挟み、部屋をあとにする。

そういえば、彼はどうしているだろう。
朝食の際、彼は特に変わった様子はなかった。ただ、1つだけ変わった点と言えば、この間眺めていたらしい指輪をつけていたことだ。驚いたと言えば驚いた。白い指で存在を誇示する銀色のリングが、どことなく切なげに光る。それが彼によく似合っていて、何故かそれが少しだけ寂しかった。
ただ、指輪を作ったのは割と昔だったのだろうか。

彼の指がやたら細く見えて、指輪が少し大きいような気がした。


「? いないんですか?」

リビングのドアを開ける。冷えた廊下を歩いたせいか、開けた瞬間に肌を包んだ暖気に一瞬だけ身が強ばった。
しかし暖房が点いているのに、物音1つしない。てっきり彼がここに来ているものと思っていたから、つい眉をひそめた。
外にいるのだろうか。思いながら、歩を進める。2歩進むと、ちょうどリビング全体を見渡せる位置に来る。
窓の前に立ち尽くす彼の姿があった。

「なんだ、いるなら返事くらいくださいよ」

ゆっくりとそちらに行く。同時に、心臓が大きく脈打った。返事はない。

「……返事を」

窓から見える空は、鉛色の雲が覆っていた。雪が降っている。海はどこまでも沈黙していて、暖房の効いた部屋に冷たい風が入り込んだ。
深く首を擡げ、彼はびくともせずに立ち尽くしている。
どくどくと脈打つ心臓を押さえつけ、近付いた。呼吸が震える。温い空間に、時折刺すように冷たい風が混じる。気持ち悪い。息が詰まる。頭が痛い。
足元に、ハサミと中途半端に切れた赤い紐があった。彼の、瞳と同じ色。

「――あ……」

窓のサッシから、細い紐が垂れ下がっている。僅かに彼の爪先が浮いている。視線をゆっくりと上げた。

紐が、彼の、首、に。

首に――


「――っ!!」

悲鳴が咽頭で暴発した。頭が真っ白になる。わけのわからない言葉を叫びながら、私は彼の傍らに寄った。爪先に鋭く痛みが走る。落ちていたハサミだ。それをとっさに拾い上げ、サッシから吊されている紐を裁つ。同時に私へとかかる彼の重心と体重に、私は彼を抱き止めるも床に倒れ込んだ。彼の指からシルバーリングが外れる。床を転がり、裁った紐のそばで止まった。

彼の白い首に巻き付いた赤い紐を取る。首に付いた真っ赤な後に、頭の芯がぐらぐらと揺れた。

「どう、して……」

「おはようございます」

「どうして……」

「きちんと眠れましたか」

「どうして……!」

「冗談ですよ」

「どうしてェ!!」

悲鳴が空を裂く。
雪は相変わらず静かに降っていて、海は沈黙していた。

――ああ、そうか。

瞼から熱が溢れ出す。嗚咽と悲鳴が絶えず空間に木霊した。聞きつけた近隣の人間が駆け付けてきたが、気にかける余地などなかった。

――諦めてしまったのか。

止めてしまったのか。

私ではダメだったのか。

見限ったのか。



救急車のサイレンが遠くから聞こえた。周りにいる見知らぬ他人が、何か騒いでいる。それでも耳には何1つ音は届かなかった。喉に焼きつくような痛みが走る。私は構わず泣き叫んだ。



見限ったのだ。
私を、世界を、生きることを。

冷たい世界は雪にただ白く覆われていた。






20110320
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