金魚鉢の中の無機質な目がこちらを向いた。平面的な瞳孔は、硝子の膜越しに空間の色彩を反射している。朱い煌びやかな鱗を纏う体をしならせ、金魚は尾鰭を向けた。

「これ終わったらお茶入れるから、ちょっとだけ待ってて」
「ああ、気にしなくていいよ」

背中越しに視線を向けてくる彼女に、僕は笑みを貼り付ける。
彼女は先ほどから押し入れから物を出してはダンボールに詰めるという行為を繰り返していた。ここから見える範囲では、ダンボールの中には古びた衣類や湯呑み、化粧品などが入っている。それらは全て、先月亡くなった彼女の祖母のものだ。
今朝訪れた時から、彼女は祖母の遺品を整理すべくこの作業に取りかかっていた。確かにいつまでも残していくわけにはいかない。いい機会だからと、寝起きにふと思い立って始めたんだそうだ。最初は僕も手伝うと口にした。しかし頑として断る彼女に負けて、僕は先ほどから彼女の背中を眺めるという無意味な作業に明け暮れている。

しかしお茶を入れてもらえるのなら、ちょうど良かった。ジムも挑戦者が来なくて暇で、修行の一息つくためにここに来たのだ。退屈しのぎに彼女と話せるのならそれでいい。

「あ」
「どうかしたのかい」

押し入れに半身突っ込んだ彼女が声をあげる。何か懐かしいものでも見つけたのか。それに一応声をかけてみる。すると彼女はゆっくりと押し入れからそれを取り出した。
取り出したそれを僕に見せるのと、僕に得体の知れない悪寒が走るのはほとんど同時だった。

「大和人形!」
「!」
「わあ、懐かしい。昔よく飯事で髪梳いたり着せ替えしたりしたなあ」
「……君も女の子なんだね」
「失礼な」

ムッとした彼女は埃をかぶった人形の頬を服の袖で拭いた。その様子を眺めながら、口を開く。

「捨てるのかい?」
「ううん、ダンボールに入れて蔵にしまっとくの。さて、お茶入れるから茶の間に移動しようか」
「え、ああ、うん」

切り替え早く、腕に抱えた人形を彼女はダンボールに入れて部屋を出て行った。それを見届けながら、僕もまたワンテンポズレて彼女に続く。
部屋に出る直前、何気なしに後ろを振り返った。

――ダンボールにしまったはずの人形が、何故か畳の上にあった。
金魚は相変わらずの無機物のような目で僕を見ている。





茶の間に着くなり、彼女の唯一の手持ちであるガーディが飛びついてきた。ふさふさの尻尾を振りながら、鳴き声を1つあげる。

「たまにガーディは私じゃなくてマツバに懐いてるんじゃないかって疑う」
「困ったな、僕はゴーストタイプ専攻なんだけど」
「ま、マツバなんかにガーディは渡さないんだからね!」
「はいはい」

苦笑しながらガーディから手を離す。彼女もまたしかめっ面から一変して、おかしそうに笑った。それから彼女が用意したお茶とお菓子を食べながら、他愛のない話をした。ミナキ君のことや、先日来たヒビキ君という挑戦者のこと、それから近くの和菓子屋で新作が発売されたことや、今度それをご馳走するといった約束のこと。時間はあっという間に過ぎていった。

彼女のもとに来たのが昼頃だった。今は日が落ち始め、朱い西日が差し込んでいる。もう5時間以上経ったのか。ガーディも話を聞くのに飽きて昼寝をしている。

「それじゃあそろそろ帰るよ」
「あ、もうそんな時間?」
「うん、ごちそうさま」
「気をつけて帰ってね」

そんなやり取りをしながら立ち上がる。そして玄関に向かうべく、廊下に繋がる障子を開けた時だ。コトンと音が響いて、爪先に何かぶつかる。また悪寒が走った。反射的に視線は足元に落ちる。
――作り物の眼球が、こちらを見上げていた。

「どうしたの?」
「いや……」
「あれ、何でダンボールにしまったはずの人形が」
「……」
「ガーディがいたずらしたのかな?」

彼女は対して疑問も抱かず、人形を拾い上げた。正直、あまりいい気はしない。だが今変なことを言っても怯えさせるだけだ。特に言及しようとは思わなかった。
その日はそのまま、何事もなかったかのように、僕は彼女の元を去った。




友人のマツバが帰ったところで、私は再度人形をダンボールに戻した。そして荷物がまとまったところで、ダンボールを蔵にしまった。蔵から出るときに何かカタカタと音がしたのだが、たぶんネズミだろう。
その日はいつも通り、夕飯を食べて、お風呂に入って、床についた。夜の0時前のことだ。


それからたぶん、数時間は寝たのだろう。何の前触れもなしに意識は浮上した。バタバタと廊下を走る足音が聞こえる。ガーディだろうか。昼寝したせいで眠れないのだろう。あまりうるさいとご近所に迷惑をかけてしまう。注意しようと布団から体を起こした。同時に、畳についた手のひらに、ざらついたものが触れる。視線をゆっくり下ろした。

「……糸?」

違う。反射的に打ち消す。しかし妙に手に馴染んだ触り心地だった。糸のようなものだが、何か違う。束になって、障子の向こう側に続いている。試しに引っ張ってみるが、それは際限なく伸びる。それにガーディも傍らで眠っていた。
心臓がドクリと波打つ。気のせいだと繰り返し繰り返し念じ、私は布団から立ち上がった。糸のようなものが続く障子へと向かう。

恐いと思ったら負けだ。

呼吸を殺し、障子に手をかける。ゆっくりと開けた。冷たい冷気が全身に絡みつく。背骨に沿って怖気は這い上がった。
糸のようなものは黒い。黒いそれは、廊下へと伸びていた。目でそれを辿っていくと、真っ白な、顔が見えた。顔?

「……あ」


廊下の真ん中に、夕方蔵にしまったはずの大和人形が佇んでいた。







真夜中の0時半に、案の定、彼女からの電話がけたたましく鳴り響いた。泣きながら「怖い」「助けて」「早くきて」「人形」と子供のように単語だけを口にする彼女は、果たして本当に僕と同い年だろうか。

「わかった、わかったから。ちょっとうるさいよ。近所迷惑になるだろ」
『早く来てよ早く……ねえ早く来てっ』
「で、その人形は? そして君は今どこにいる?」
『知らない。廊下。私は今部屋にガーディと……』
「バカ。閉じ込められるだろ」
『……!』

彼女が息を呑むのがわかった。次いでガタガタと派手な音が受話器の向こうで響く。……ほんの怖がらせるだけの冗談だったのだが、本当に閉じ込められてしまったらしい。彼女が悲鳴を上げて閉じ込められたと騒ぎ出した。

『どうしよう……死にたくないよ。恐いよ。なんでマツバは今日泊まっていかなかったの』
「君の家に泊まったことなんかないよ、僕」
『そん、な……あ、こ、来ないで』
「え、ちょっと」

どうしたの、と続くはずだった言葉は、彼女の悲鳴に消された。電話もプツンと切れる。

「参ったな」

害はないと思ったのだけど。
ひとまず彼女のもとへ向かおう。適当に着替えて、家を出た。





閉ざされた襖が、スウッとひとりでに開いた。電話の向こうのマツバの声が遠ざかる。心臓が狂ったように大きく鳴って、私は息を呑んだ。

襖に合わせて、月明かりが差し込む。それを小さな影が遮っていた。廊下からこの部屋の中心部までもある長い髪の主が、立っている。

「う、わ……」

カチリ、カチリ。
人形の首が動く。無機質な目が、私を見た。長い真っ黒な髪。真っ白で無機質な肌。無機物の真っ黒な瞳。真っ赤で小ぶりな唇。カタカタと、人形の頭が前後に動いた。すうッと人形が前に出る。

「こ、来ないで」

電話が、プツンと切れた。張り詰めた糸も切れた。それから、悲鳴を上げた。人形はゆっくりとこちらに来る。
嫌だ。嫌嫌嫌。来ないで。私何もしてない。怖い。嫌。怖い。怖い怖い。止めて。来ないで。来ないで。誰か助けて。なんで肝心な時にいないの。マツバの方がバカだ。やだ。もうやだ。助けて。怖い。
ガーディを強く抱き締めながら、私は意味のない単語を繰り返していた。涙で顔がぐちゃぐちゃだった。人形は止まらない。長い長い髪を引きずって、とうとう私の前までやってきた。恐怖に体中が引き裂けそうだった。

「……?」

しかしそれも、不意に手の甲を舐めたガーディにより和らぐ。人形は依然として私の前に立ち止まっている。ガーディが私を見て、次いで人形の方に視線を向けた。
それにつられて、私も人形に視線を向ける。人形は両手で櫛を持って、私に差し出していた。

「!」

昔よく飯事で髪梳いたり着せ替えしたりしたなあ

そう、いえば。そうだ。この人形の髪を、よく梳いていた。よく見ると、今のこの人形の髪はところどころがほつれてボサボサだった。

「梳いて、欲しいの?」

しゃくりあげて途切れ途切れに問いかける。人形の手がギシギシと動いた。体がビクッと震えた。しかし櫛が私に近づくだけで、何も起こらない。私は震える手で櫛を取った。
すると人形は私一歩近づいて、背中を、髪を向ける。私はそっとその髪に櫛を通した。

「……」

ああ、通りで、手に馴染みがあるわけだ。この髪の感触は今でも覚えている。幼いころ、何度も何度も、この手と櫛で梳いた。名前を付けて、名前を呼んで、綺麗になったねと、人形を抱き上げて笑った。
――覚えて、いたの?

「綺麗になったね、桜桃=v

梳き終わった髪を撫でながら、私は呟く。人形は動かない。ビクともしない。廊下の辺りまで伸びていた髪は、いつの間にか人形の腰の辺りの長さに戻っていた。


何だかひどく、寂しくなった。






「というわけで、人形は飾ってあるのだ」
「あんなに怖がってたくせに」

数時間後、訪れたマツバを部屋に通して私は人形を見せた。……かく言うこの男は10分あれば着くのに数時間かかっている。本人曰わく「心配ないと踏んだ」かららしいが、如何せん納得できない。

「というよりマツバは気付いてたの?」
「君が人形を押し入れから出した時点でね」
「なんで教えてくれなかったの!」
「だって絶対捨てただろ」
「……でも、だからって」

ちらりと人形を見る。次いで彼を見て、深く息を吐いた。

「まあ、桜桃が無事なら」
「ゆすら?」
「ん、桜桃って書いてゆすら=B名前なの。人形の」
「へえ」
「その人形ね、ちょうど立春の日にもらったの。ほら、立春に咲くのは桜桃でしょ?」
「ああ、なら、いろいろ宿るだろうね」
「え、なに」
「いや、何でもないよ」
「でも、覚えてくれてるものなんだね」

お茶を啜るマツバが、穏やかに目を細めた。「そうだね」と、彼は人形を見詰める。

「僕たちが思い出せないだけで、きっと覚えてるんだ」
「……」
「ほんの些細な喜びを、寂しさを、幸せを、出会いを。それに比べて人間は貪欲さ」
「痛いとこ突くよね」
「でも、だからこそ」



こんなに誰かを愛おしく思うことができるのかもしれないね



春が近い、或る晴れた日の午後の話だ。





20110122
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -