肌に張り付く冷えた空気は、口腔から入り込み、気道を通り肺に達する。冷気は忘れぬままに肺胞に染み込み、血液によって全身に送り出された。指先が冷たい。
真っ白な街灯が照らす道は色彩を著しく欠き、陰の明暗が黒を際だたせる空間だった。漆黒に塗り潰された向こうの景色は、不気味に沈黙している。
……年甲斐もなく、夜が作り出す世界観には萎縮してしまう。必然的に早足になる自身になんとも言えない気分になった。
仕事帰りに買い込んだ菓子と発泡酒が入った袋を抱え直しては、頭の片隅にある怖気を噛み殺す。明日は仕事が休みだ。思うたび疲れがズシリと肩にのしかかるような、頭の張り詰めた芯が緩むような、そんな奇妙な虚脱感に襲われた。

「今帰りですか」
「!」

前方から不意に響いた声に、心臓が大きく跳ね上がる。無意識に呼吸を一瞬だけ止めると、街灯に照らされた人影が視界の端に浮かび上がった。痩身のシルエットがこちらに近付いてくると共に、息を殺す。この帰り道ではあまり知り合いに会ったことはない。昔の通勤路であったくらいだ。
この道を右に曲がったところには駅があったが、こんな時間では人もめったに乗るまい。その駅には確か怪談話もあった。不気味な要素が次々と無意識に集められていく。夜中という時間帯もあり、次々と嫌な展開が脳裏に浮かんでは消えた。
だがそれも見慣れた貌が目の前に立つ頃には、安堵に変わる。無意識に強張っていた体の力が抜けていた。

「こんばんは……びっくりしました」
「深夜の女性の一人歩きはあまり推奨できませんよ」
「仕事帰りです」
「ああ……」

少しだけ驚いたように丸くなる瞳は、私を見て納得したように伏せられる。僅かな光を取り込もうと大きく広がる瞳孔が、彼の赤い虹彩に滲んだ。……私は仕事だが、この人は何故こんな時間帯にここにいるのだろう。ふとよぎった疑問が顔に出ていたのか、彼は涼しげな表情で答えた。

「貴女と同じですよ」
「なるほど。でも、前はもう少し早い時間でしたよね」
「厄介な仕事がたまって終電に乗るはめになっただけです」
「ああ、遅くまでお疲れ様です」

今の仕事に就く前に、私はこの人の家で家政婦まがいのことをしていた。当時は働いていたフレンドショップがまさかの倒産という事態になり、転職先を探していた矢先に遠縁のこの人の家のお手伝いさんとして雇われたのだ。働いていた期間は実質3年程度だっただろうか。大きな屋敷に息子さんと2人暮らしで、他に身内や使用人のような人が総勢5人、合わせて7人が住んでいる屋敷だった。仕事内容といえば家事が中心に稀にポケモンの世話だった。住み込みだったので食事や部屋まで用意されていて、申し分ない職業だったと思う。とは言っても、仕事をなくした私に対する慈悲から声がかかったようなものだ。今ではきちんとした再就職が見つかり、そこで働いている。

「Nは元気ですか?」
「相変わらずですよ」
「恋人とかできてたり?」
「さあ。あれはあれでその手の話題には疎いですから」
「あははは」

アスファルトを蹴る足音と声だけが薄闇に木霊する。音を吸い込む夜空は、途方もなく暗く深い。足元に短く深く穿たれた影は、まるで底のない穴だ。昔、Nと夜道を歩いた時に、少年だった彼が「落ちてしまいそうだ」と不安げに零したことを思い出す。それほど遠い昔ではないのに、妙に懐かしい。あの頃は繋いだ手のひらは私の方が大きかった。

「明日も仕事ですか」
「いえ、私は休みです。ゲーチスさんは」
「奇遇ですね」
「じゃあ今夜はご一緒に飲みません?」
「だからそんな荷物を。……1人で飲み明かすつもりだったのですか」
「そんな痛いモノを見る目で見ないでくださいよ」
「……」
「や、安い酒は口に合わないとかはともかく、そこまで嫌がるならNに飲ませますからいいです。あの子もう成人してますよね」
「悪酔いされると面倒なので私が晩酌のお相手しましょう」

悪酔いだなんて、私はそこまで弱くない。いや、単にこの人の家系が恐ろしいほどアルコールに強いのだ。私が酔い潰れるほど飲んでも、この人は顔色ひとつ変わらない。私もそれなりに強いと自負していたので、この人の場合はきっと異常なのだ。

「それよりも突然お邪魔していいんですか?」
「貴女の家より私の家の方が近いでしょう」
「急に泊まったら迷惑じゃありませんか」
「今さらでしょう。それに久しぶりにNに会ったらどうです。あの子はずいぶんと貴女に懐いていましたからね」
「ふふ」

思わず笑いながら首を傾げる。懐かれるということに悪い気はしない。むしろ自分に好意的な人間がいることは喜ばしいことだ。まるで雛鳥のように私のあとを付いてきた萌葱色が脳裏に蘇る。今の仕事に就いて3年になるのだから、最後に会ったのは2年前だったか。会ったばかりのころと比べて背も伸び、少年から青年になっていた。
思い返すものがたくさんある。それに比例して感慨深さも増すものだ。などと1人でしみじみと考えているうちに、いつの間にか帰路が自宅からこの人の家に変更されていたことに気付く。
……この人はこの人で相変わらず人を流すのが上手い。

「でもこんなふうに私みたいなのに構ってると再婚できませんね」
「貴女も私にまとわりついていては婚期を逃しますよ」
「その時はもらってください。私の余生を捧げます」
「……貴女、ここに来る前に飲んだでしょう?」
「あはは」

笑いながら視線の先にある薄い顎のラインを見上げては、その向こう側に見えるやせ細った月を眺めた。今日は三日月だったのか。鋭利な矛先を持ちながらも、緩やかな曲線と光を持つそれは、見下ろすように地上を照らしている。どことなく今夜が明るく感じるのも、月が出ているからに違いない。

ふと意識を前に戻すと、そこにはドアがある。一般の家庭の物よりも明らかに規模が違う。初めて見たときは前に立つことすら躊躇いがあったものだ。彼に倣いドアを開け、その向こう側へ足を進める。同時に「おかえり」と紡ぐ声が足音と共に耳に届いた。声はおそらくリビングからだろう。久しぶりに訪れた場所は昔と何も変わらない。馴染んだ廊下を進み、リビングのドアを開けると懐かしい色が視界に映った。

「まだ起きていたのか」
「nameも一緒だったのかい?」
「夜遅くにお邪魔するね」
「言ってくれればボクも迎えに行ったのに」
「子供は早く寝なさい」

どこか揶揄するようにさえ思える口調で言ってのけるゲーチスさんに、Nは一瞬だけムッとした表情を作る。そしておそらく勉強していたのだろう、テーブルの上の開いたままのノートやテキストを手早く片付けた。次いで私の手から荷物を受け取っては、それを空いたテーブルに置いた。細かい気配りについ表情が綻びる。

「気付かないうちに大人になってるんだね」
「なんだい?」
「いや、成長したなあ」
「成長しきった私たちは後は老いるだけですがね」
「うわあ、現実……」
「nameはまだ若いよ」
「N、良い子。今度観覧車乗ろうね」
「子供扱いは止めてくれないかな」
「珍しい。乗らないのですか」
「ううん。乗る」
「本当、素直」

椅子に座りながら呟く。何故だかどうにも今の会話が可笑しく思えて、意味もなく笑えた。買ってきたお菓子を広げ、用意されたグラスに缶の中身を注ぐ。何気なしに窓の外を見た。
そこからは、変わりなく三日月が見えている。

道理で今夜は明るいわけだ。




2011829
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