あいたいな

ひどく細い声が、受話器越しに鼓膜を揺らした。機械を通したからだろうか。電波が悪いからだろうか。まるで泣いているかのような、くぐもった声だった。プツンとプツンと、ノイズに音が乱される。

『ちゃんと、聞こえるかい?』

不安げに尋ねてくる声に、私は笑いながら大丈夫だと答えた。
この間まで、懇切丁寧に使い方を教えてやって、やっと覚えた携帯の最初の通話がそれだった。
数式が関連してくると覚えは早いのに、彼の場合はその仕組みばかり気にして使い方が一向に身に付かなかった。せっかく持っているのだから活用してもらいたい。そう思い、観覧車の前のベンチでぼんやりしている彼を捕まえて、説明書片手に基本的な動作を教え込んだ。ただ理解すれば呑み込みが早かったと思う。
「じゃあ早速今日の夜電話するね」と別れた昨日の夕方。しかし昨日電話はなかった。使い方を忘れてしまったのだろうか。代わりに今日の夜、深夜に電話の呼び出し音が鳴り響いた。
非常識な時間と言えば非常識な時間だった。しかし使い方が分からず、さんざん悩んだ末にやっと電話をかけてきたのかと思うと、無視はできない。夜気の冷たさに身震いしながらカーディガンを羽織り、ベランダに出て電話に出た。ひんやりと冷たい夜空には硝子のような星が瞬いている。

「昨日電話が来なかったから、また忘れちゃったのかと思った」
『うん……ごめん』
「今どこにいるの?」
『リュウラセンの塔だよ』
「今日は星がよく見えるね」
『うん……』
「――元気、ない?」
『……』

受話器の向こう側がシンとする。それに合わせるように冷たい風が吹いた。肌が冷たさに軋む。まるで、彼が一呼吸のうちに夜気に溶けて消えてしまったかのような錯覚を抱いた。
出会った当初から、彼はそういう雰囲気を持っている。今にも消えてしまいそうなほど脆くて、簡単に崩してしまいそうなほどの危うさ。
きっと彼は、私の知らないところで知らないうちにいなくなってしまうのだ。そして私は彼がいたことを御伽噺くらいのことでしか認識できなくなる。いつか、綺麗に忘れる。そんな予感が漠然とあった。だから必死にしがみついて、繋ぎ止めなければならない。いとも簡単にこの手の内からそれは零れ落ちていってしまうだろうから。

私は息を吐いて、確認するように口を開いた。

「N」
『なに』
「風邪、引かないようにね」
『う、うん』
「リュウラセンの塔ってことは、外にいるんでしょ?」
『うん、一応。……ね、えっと、あのさ』
「なに?」
『あ……やっぱりいいよ。あとで会ったときに話す』
「そっか。ちゃんと暖かい格好してる?」
『トモダチがいるから平気だよ。それより、キミは大丈夫? もう、眠いでしょ?』

声が眠そうだよ、と。受話器越しに聞こえる笑い声がくすぐったい。

『近いうち会いに行くよ。会いに行くから、一緒に遊園地に行こう』
「久しぶりだね」
『そしたら観覧車に乗ろうよ。またキミと、たくさん話がしたいな』
「いつでもおいでよ。待ってるから」
『うん、じゃあ、今日はおやすみなさい』
「おやすみ」

ブツリと電話が切れる。頭の中で、何かの回線も切れた。
同時に全身から平衡感覚が消え、視界が真っ暗になる。ガクンと頭が前に落ちる。体が慣性によって大きく揺さぶられた。暗かったはずの視界が真っ白になる。
ガタンガタンという揺れと音が聴覚を支配し、思考の片隅に混乱が発露した。

そこでやっと意識が覚醒する。

「……!」

膝の上に置いてあった荷物がドサリと音を立てて下に落ちた。それを慌てて拾い上げる。同時に車内にアナウンスが流れ、次が終点であることを告げた。
ずいぶんと寝ていたらしい。
車窓から見える景色も真っ暗だ。地下鉄に乗ったのが日が暮れる前だったのだから、かれこれ数時間は寝ていたことになる。夢まで見ていたのだ。日頃の疲れが溜まっているのだろうか。
何気なく見回すと、乗客は私しかいない。細く長い椅子の中心にポツンと点のように座っている私は、ひどく滑稽だろう。
そんなことを思っている間にも地下鉄は終点に着く。しかし私は夢の余韻のせいか、体をすぐに動かすことができない。
そんな私に、車掌らしき男性が近付いてきた。

「お客様、こちらで終点になります」
「! あ……」
「お体の具合が優れないのでございますか?」
「い、いえ、すみません。大丈夫です」
「ではお忘れ物のないよう、お気をつけて降車くださいまし」

丁寧に頭を下げる男性に、反射的に深く頭を下げる。そして手早く料金を払って、私は逃げるように降りた。

――でも、どうして私はここに来たのだろう。

地下鉄に乗り込むとき、目的地はなかった。ただ、そう、環状線。環状線だ。

――どこにいるの?
――リュウラセンの塔だよ。

環状線?
何かおかしい。

そしたら観覧車に乗ろうよ。

観覧車?
違う。違う。
私がどこに向かってる?
回ってる。
くるくる回る。
回っているのは何だ?

――今日は星がよく見えるね。

夜。

――もう、眠いでしょ?

夜。
暗い。
真っ黒。
星。
寒い。

彼は、どこにいるんだろう。

途端に汽笛がなる。心臓が大きく飛び跳ねた。反対側にあるホームの、上りの地下鉄が発車したのだ。
ガタンと車体が揺れて、電車が動き出す。鉄の箱は内側の蛍光灯に白い明かりを漏らしていた。

ああ、乗客が一人だけ乗っている。

緑色の、柔らかい髪の、帽子を被った、青年。


あいたいな


「――えぬ」

そうだ。会わないと。会わないと。彼を探してるんだ。彼に会わないと。待って、待ってください。私も乗ります。乗せてください。彼に会いたいんです。乗せてください。

「お客様、危険です。白線より内側にお下がりくださいまし」
「あ……」

電車が、行ってしまった。
私は脱力し、その場に崩れ落ちた。車掌らしき男性が慌てて私を支える。
同時に携帯が鳴った。非通知だった。私は機械じみた動作で通話ボタンを押す。

『あいたいな』

ひどく細い声が、受話器越しに鼓膜を揺らした。機械を通したからだろうか。電波が悪いからだろうか。まるで泣いているかのような、くぐもった声だった。プツンとプツンと、ノイズに音が乱される。

『ちゃんと、聞こえるかい?』

うん。大丈夫。大丈夫だよ。聞こえてる。聞こえてるから。会いに行くよ。会いに行くから大丈夫。もう、待ってるだけなんて、しないよ。昨日も今日も失敗したけど、きっと次は会えるから。

懸念する瞳を向ける車掌の男性の視線を振り切り、私はまた、明日地下鉄に乗る。繰り返す。彼に会えるまで。


あと、何回繰り返したら会えるだろうか。






20101228
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