「ジョウトはいいところですよ。こちらにいないポケモンもたくさんいますし。今度機会があったら是非いらしてください」

 ゴトンと鈍い音を立ててゴンドラが揺れる。慣性のままに体は左右に大きく揺さぶられ、いっそう地面が遠ざかった。冷たい鉄の球体の空間の中で、私の向かいに座る青年は虚ろな瞳をこちらに向ける。閉じた空間で、緩慢に景色が動いていく。足の裏は確かに床についているのに、確実に地地上から離れていく。重く鈍い浮遊感に、不安と期待が攪拌された。
 そんな俯瞰の風景に毒されたのか、彼の虹彩には影が落ちた。
 彼は私の話など聞いていなかったのか、「落ちたら僕たち死んじゃうね」と微笑した。
 再びゴンドラが大きく揺れる。高度がさらに増した。彼は私を見つめたまま僅かに首を傾げる。

「明後日に、帰るのかい?」
「ええ」

 明後日、という単語に、部屋の片隅にまとめられた荷物が脳裏をよぎる。――明日には着替えと最低限ものを残して、発送してしまわなければ。
 半年前、仕事でこのイッシュの地へとやってきた。
 大学を卒業後、ポケモンリーグの事務局員として採用され、地元のジョウト地区の配属となった。もともとポケモンは好きだったし、出身地であるエンジュにはジムがあった。反面、私自身は、バトルには無縁で、ポケモンも持つことはなかった。しかし幼馴染がそのジムリーダーについたこともあり、ポケモンに携わる仕事がしたくて志望した仕事だった。もとは地区採用ということもあり、職場の異動などもないポジションだった。
 しかし8か月前、イッシュのリーグがポケモン擁護を主張する謎の集団に襲撃、半壊するという事件が起こった。その立て直しのための人員として、半年間の出向を命じられたのだ。

「ジョウトの、エンジュだったっけ」
「素敵な街ですよ。こちらでは見たこともないポケモンも、たくさんいます」
「……」
「機会があったら是非いらしてください。ジョウトの観光地でもあるので、私が案内しますから」
「……僕も……連れていって欲しいな」

 私は苦笑を返した。彼は陰った瞳に私を映し、少しだけ眉を下げた。
 この地に来て、仕事以外で最初に出会った人間がこの青年だった。
 半壊したリーグに向かう道中――いや、正確には目的地であった半壊したリーグで、この青年と出会った。
 瓦礫と埃の乾いた匂いの中で、彼は今にも泣きだしてしまいそうな顔でたたずんでいたことを覚えている。

『まだ整備が終わってないので、危険ですよ』

 ヘルメットに作業着という危険に備えた服と装備でその場にいた私に対し、彼の姿は特に防護や危機に備えたものではない、ごくごく普通の私服姿であった。まるで、今にも瓦礫に圧し潰されてしまいそうな印象を受けた。
 最初こそリーグ関係者かと思ったが、どうやらそういうことではないらしい。まじまじと怪訝な視線を向けていたであろう私を、彼は黙殺した。
 同時に、彼の服の袖が血に滲んでいることにも気づいた。
 私は慌てて彼を病院へと連れて行った。その最中に、しかし踏み込んだ事情を聴くにも、その当時の彼の様子から、どうしても言葉が出てこなかった。
 病院に彼を押し込み、私は仕事に戻った。その翌日、彼はまたリーグに来た。

『お礼を言えなかったから』

 ここに来れば会えると思った。彼はそう言った。
 まるで、迷子の子供のような、ひどく心細そうな笑みだった。
 以来、詳しいことも、彼がどんな人間で、どうしてあの時そこにいたのかも、何もわからないまま、私は彼との漠然としたつかみどころのない交流を続けた。
 彼は週に二回、私の仕事を終わりを待ち、私の職場にくる。最初はお礼、しかし、その次からは、私が彼を放っておけなかった。
 エンジュにいる幼馴染に、どことなく似ていたのだ。
 すべてを諦めているような、それを深く悲しんでいるような。不安そうでいて、今にも消えてしまいそうな。
 暗く淀んだ瞳の奥に、澱が溜まっていく。幼少時も今も、人生の大半が寂寥に埋もれた人間の目だ。それにたまらなく息が苦しくなる。
 家族は? 友達は?
 ――でも、私は無責任にそれを背負えない。
 それに地方を跨ぐというのは、楽なことではない。頼まれれば素直に頷くなんて、安いことはできないのだ。
 しかしまるで母親に置いて行かれた子供のように、心細い顔をして見せる彼を拒絶するのは良心が痛む。ギシギシと悲鳴のように軋みを上げる空間で、私はただ返す言葉も見つからず俯いた。

「観覧車、落ちないかな」
「……ちゃんと管理や整備をされてますし、大丈夫ですよ」
「そうかな」
「でも、それでも観覧車は好きでしょう?」
「うん。君も好き?」
「……はい」
「じゃあ、お揃いだね」

 子供のような無邪気さを纏い、彼は笑った。
 またゴンドラが揺れる。彼はおもむろに私から視線をそらし、どこか遠くに視線を向けた。気付けばもう一周していたらしい。ドアが開き、その向こう側ではにこやかに微笑む女性がいた。その姿を視界に捕らえるのを合図に、私はまだぼうっと遠くを眺めている彼の手を引いて観覧車から降りる。
 少しの間、彼は無言だった。しかし不意に、彼は冷えた指先を私のそれに絡める。そして聞こえるか聞こえないかの声で言葉を紡いだ。

「このまま、どこかへ消えたいなあ」

 呟いた彼の横顔を見る。長い睫が、その暗く落ちた瞳に影を落とした。
 ただ私は無言でその手を握り返す。

「僕も、君のあとをついて行きたい」
「……一緒にジョウトに来られたなら、良かったのですが」
「君はいいのかい?」
「もちろん、自慢の故郷を友達に紹介したいですし」

 私の「友達」という単語に、彼は目を丸くした。
 そしてゆっくりと弓なりに細めた。

「なら……」

 しかし彼は、そこから先の言葉を飲み下した。二人並んで、雑踏の中を歩いていく。彼の手のひらの冷たさが、やたら強く手に残っていた。


 そして、私はイッシュの地を離れた。彼は見送りには来なかった。だがそれはなんとなく予感していたことだ。飛行機から見た俯瞰の風景は、彼と見た観覧車の風景よりずっと広く虚しいものだった。





「ただいま」

 穏やかな笑顔で帰ってきた彼女は、両手にいっぱいの荷物を抱えていた。家に帰らずにまっすぐここに寄ってくれたのだろう。紙袋の一つをお土産だと渡す彼女に、傍らにいたゲンガーが嬉しそうに鳴き声を上げる。
 半年間仕事でイッシュに行っていた彼女は、少しだけ大人びて見えた。きっと、髪が伸びたからだ。久しぶりに顔を会わせたというのに、何だか気恥ずかしい気分だった。

「楽しかったかい?」
「うーん。一応仕事だよ? まあ、みんな親切で、こちらにはいないポケモンもたくさん見ることができたし楽しかったかな」
「そっか。ああ、せっかくだからちょっと休んでいきなよ。美味しい羊羹があるんだ。」

 嬉しそうに笑う彼女に、つられて笑う。彼女を家の中に通し、僕は戸を閉めた。

「!」

 すると彼女のあとを追うように、戸を通り抜け何かが入り込んでくる。
 それは彼女にもたれるように背に触れ、彼女の指先に触れた。あれは何だ。それは緩慢な動作で僕を見る。
 白緑色の長い髪を持った青年だった。暗い瞳は虚ろに彼女を映し、次いでこちらを見る。ザワリと何かが背を這い上がった。

「マツバ?」
「あ、いや、何でもないよ」

 あれは、死んだものだろうか。それとも生きてるものだろうか。
 青年は、彼女を抱き締めるようにベッタリと憑いている。
 何故かそれが無性に腹立たしく感じられた。

 早足で彼女のもとへ行く。
 あんなもの、さっさと剥がさないと。
 彼女にしがみついている青年の肩を掴む。ビクリとそれは大きく震えた。その袖は赤く滲んでいる。向けられた青の暗い瞳に、皹が入る。――頭の中に、俯瞰の光景が流れ込んでくる。一瞬だけくらりと眩暈に襲われた。

『ボクの、トモダチだから』

 青白い唇が、そう紡いだ。

「それは僕のものだよ」

 掴んだ肩を勢い良く引く。青年はいとも簡単に剥がれた。その表情は心細そうに歪む。構わず掴んだ手のひらに力を込める。ゴキンと何かが砕ける音がして、彼の体が透き通る。途端に足元から風に吹かれた塵のように消えていく。青年は宙に霧散した。

「マツバ? さっきからどうしたの?」
「君が変なもの憑けてきたから剥がしただけだよ」
「え……」
「なんて、ね」
「お、驚かさないで」
「ははっ」

 ムッとした表情の彼女に声を上げて笑いながら、居間に向かった。
 ……彼女は他人に甘いから、だから簡単に取り憑かれるのだ。
 目を細めて、自分の手のひらを見る。あの青年も、きっとそうに違いない。
 居間に着いてからテレビを付けると、イッシュ地方で観覧車のゴンドラが落下する事故があったというニュースが流れていた。





20100926
修正20200516
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